2017/07/22

プルーストが聴いたサン=サーンスのピアノ

サン=サーンスは昨日コンセルヴァトワールにおいて、モーツァルトの「協奏曲」でピアノを弾いた。(プルースト)
1895年12月8日、サン=サーンスはコンセルヴァトワール(パリ音楽院)の演奏会に出演して、モーツァルトのピアノ協奏曲を弾いた。客席には24歳のプルーストの姿があった。

【演奏会の曲目】
  • Symphonie en fa (Beethoven)
    ベートーヴェン:交響曲ヘ長調(第6番もしくは第8番)
  • Concerto en la pour piano (Mozart), par M. Saint-Saëns
    モーツァルト:ピアノ協奏曲第23番イ長調 ピアノ:サン=サーンス
  • La Lyre et la Harpe (Saint-Saëns)
    サン=サーンス:ヴィクトル・ユゴーの詩による『竪琴とハープ』
  • Ouverture du Freischuiz (Weber)
    ウェーバー:歌劇『魔弾の射手』序曲

指揮は、1892年から管弦楽団の主席指揮者を務めているポール・タファネル Paul Taffanel, 1844-1908。演奏会当日に発行された音楽新聞の掲載情報なので、実際には変更があったかもしれない。

プルーストは、このときの印象を文章にしている。ほかの聴衆にはサン=サーンスの演奏が味も素っ気もないように聞こえたものの、プルーストはその真髄を見極めていた。若者の気負いが感じられるかもしれないが、それでもやはり常人には真似のできない筆致である。
偉大な俳優の演技は器用な俳優のよりも飾り気がなく、大向こうの喝采を博さない。なぜならそういう俳優の動作や声は、彼を悩ましていた微量の黄金や滓をものの見事に濾し去られていて、ただもう澄んだ水か、彼方にある自然物を見せているだけの窓ガラスのようにしか思えないからだ。サン=サーンスの演奏はこの純粋、この透明に達したのである。モーツァルトの「協奏曲」はステンドグラスやフットライトを通して見えているのではない。われわれを食卓や友達から隔てている空気、それがあることに気づかないほど澄み切った空気を通して見えているのである。
「ピアニスト、カミーユ・サン=サーンス」
そして、プルーストは後年、その大作『失われた時を求めて』のなかで次のような一節を書いた。これは、一人の芸術家への賛美にとどまらず、プルースト自身の芸術に対する態度、美意識の表明そのものではないかと思う。
じつに偉大なピアニストが演奏すると、その演奏家がピアニストであることさえまったく意識しなくなる。なぜならその演奏は(あちこちに華々しい効果をもたらす目まぐるしい指の動きの技巧とか、手がかりのない聴衆が少なくとも具体的に触知できる現実として才能のあらわれと思える飛び散らんばかりの音とかを、いっさい介在させないから)、すっかり透明になって、演奏されるものだけに満たされる結果、演奏家のほうは、姿が見えなくなり、傑作たる曲に向けて開かれた窓にすぎなくなるからだ。
『失われた時を求めて』第三篇《ゲルマントのほう I》岩波文庫, p.107

〔画像〕プルースト(1895年ごろ)。
〔主な参考文献〕
  • Arthur Dandelot, « La Société des Concerts du Conservatoire de 1828 à 1897 », Paris: G. Havard fils, 1898 in Internet Archive
  • Le Ménestrel : journal de musique, A61,N49, 8 décembre 1895  in Gallica:フランス国立図書館デジタルライブラリー
  • Stephen Studd, « Camille Saint-Saëns – A Critical Biography »,  London: Cygnus Arts, 1999
  • 『プルースト評論選II 芸術篇』穂苅瑞穂訳(ちくま文庫)
  • プルースト『失われた時を求めて5 ゲルマントのほう I』吉川一義訳(岩波文庫)


2017/07/08

ヴァントゥイユの七重奏曲 (2)

「七重奏曲」がどのような楽器で編成されているのかにも注目してみたい。実は、小説のなかでほぼすべての楽器の名前が登場する。
小さな壇のうえにモレルとピアニストだけでなく、ほかの楽器の奏者たちも並ぶのを見て、私は最初にヴァントゥイユ以外の作曲家のものを演奏するのだと思った。ヴァントゥイユの曲としてはピアノヴァイオリンのソナタしか残されていないと想いこんでいたからである。(p.134)

チェロ奏者は、顔を傾け、両膝のあいだに挟んだ楽器を意のままに操っているが、目鼻立ちが下卑ているせいか、気取ると意識せずともその顔に嫌悪の表情が浮かぶ。(p.141)

そばには短いスカートをはいた、いまだあどけない少女のハープ奏者がいて、その四方八方には巫女(シビュラ)の魔法の部屋で定められた形式に則って天空を恣意的にあわらす四辺形とそっくりの、金色の四辺形に張りめぐらされた水平な光線がはみ出して見える。(p.141)

(…) さらに金管楽器の衝突からおのずと崇高なものが生まれると恍惚となって、火花に触れたように身震いするに至り、かくしておのが音楽の大壁画を描きながら息を切らし、陶酔し、狂喜し、目まいに襲われているさまは、(…) (p.147)

夢幻劇によくあるように、その名前が口にされただけで、金管楽器からは音ひとつしなくなり、フルートオーボエもいきなり声が出なくなったことでしょう。(p.196)
(引用は、吉川一義訳『囚われの女 II』岩波文庫)

始めにヴァイオリンとピアノ、続いてチェロとハープの各奏者が登場する。途中、金管楽器にかかる叙述があり、最後にある登場人物の台詞でフルートとオーボエが言及される。七つよりもっと多くの数の楽器を想定していたのかもしれない。いずれにしても、ピアノとハープが並置されながら弦四部ないしは五部を伴わない、かなり風変わりな楽器編成である。

さて、プルーストが身近で聴いたかもしれない実在の七重奏曲には、どんなものがあるだろうか。筆頭はやはりベートーヴェンの作品20だろうか。後年プルーストが嫌っていたサン=サーンスにもトランペットを伴う七重奏曲があるし、ラヴェルが三十歳の頃に書いた「序奏とアレグロ」も七重奏で演奏される。

  • モーツァルト:ディヴェルティメント第11番  Divertimento Nr. 11 D-Dur KV 251 (通称「ナンネル・セプテット Nannerl-Septett 」)... ヴァイオリン2、ヴィオラ、コントラバス、オーボエ、ホルン2
  • ベートーヴェン:七重奏曲 Septett in Es-Dur, op. 20 (1802) … クラリネット、ファゴット、ホルン、ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、コントラバス
  • サン=サーンス:七重奏曲 Septuor en mi bémol majeur, op.65 (1880) … トランペット、ヴァイオリン2、ヴィオラ、チェロ、コントラバス、ピアノ
  • ラヴェル:序奏とアレグロ Introduction et allegro (1907) … ハープ、フルート、クラリネット、ヴァイオリン2、ヴィオラ、チェロ

ヴァントゥイユの七重奏曲を創作するにあたり、原稿のある箇所では「10の楽器」と書いたりしているように、プルーストはどのような楽器編成で、どのような音色を響かせるのかにはあまり重きは置いていなかったと思われる。「七重奏曲の描写では、楽器の音色それ自体はさして問題にされない(*)」。 また、先に上げたような、実在する七重奏曲が生成過程に何か影響を及ぼした痕跡もとくにないようだ。それだけになおさら読者には、自身が聞いたことのある楽曲を介すなどして、小説を読みながらヴァントゥイユの七重奏曲にめいめい独自の楽器編成による、独自の音楽を心に響かせることが許されているのではないかと思う。
(*) 吉川一義訳『囚われの女 II』岩波文庫の訳者あとがきより。

〔画像〕hr交響楽団(hr-Sinfonieorchester)の八重奏メンバー in Septett versus Oktett in Wettenberg-Wißmar
〔参考〕
  • マルセル・プルースト『失われた時を求めて11 囚われの女 II』吉川一義訳(岩波文庫)
  • 斉木眞一『一九一三年のプルーストと音楽』in 「思想」2013年11月号「時代の中のプルースト」(岩波書店)
  • 真屋和子『プルーストとベートーヴェン』in 「藝文研究」2011年12月号(慶應義塾大学藝文学会)in 慶應義塾大学学術情報リポジトリ(KOARA)
  • 原潮巳『ヴァントゥイユの音楽の鍵』 in 「ユリイカ」2001年4月号「特集プルースト」(青土社)
  • 原潮巳『プルーストと音楽 ─ヴァントゥイユの音楽における演奏者の地位』(1988) in CiNii 論文 

2017/07/01

ヴァントゥイユの七重奏曲 (1)

ところが正午になり、一時的に焼けつくような陽射しが照りつけると、その約束は、重苦しい、鄙びた、田舎らしい幸福となって果たされるかと思われ、その幸福においては、狂ったように揺れて鳴り渡る鐘の響きが[...]、きわめて重厚な歓喜を具体化しているかに感じられた。
第五篇《 囚われの女 II》岩波文庫, p.138

ヴァントゥイユがフランクふうの偉大な音楽家を象徴しているように[…]
(プルーストの書簡より)

もしヴァントゥイユの「七重奏曲」が実在したら、それは一体どんな音楽であっただろう。

ヴァントゥイユは、プルーストの小説『失われた時を求めて』に登場する架空の音楽家で、田舎のしがない音楽教師として一生を過ごした人物。作曲家としてはピアノとヴァイオリンのための「ソナタ」を一つだけ完成させて、この世を去る。だがその後、ヴァントゥイユの手によって作られたとおぼしき別の作品が、第五篇『囚われの女』の後半、ヴェルデュラン夫人の夜会で演奏され、主人公を魅了する。それが「七重奏曲」である。

ヴァントゥイユは誰をモデルにして造り上げられたのかが関心を呼ぶように、誰のどのような作品を念頭に置いて七重奏曲を構想したのかも、とても興味深い。草稿段階の構想から最終的に七重奏曲が生み出されるまでの生成過程を考察した研究によれば、プルーストはいくつかの実在の作品に言及しているらしい。

  • ベートーヴェン:弦楽四重奏曲第12番変ホ長調
  • シューマン:『子どもの情景』第12曲「子どもは眠る」
  • シューマン:『ウィーンの謝肉祭の道化芝居』
  • フォーレ:ピアノ四重奏曲第1番ハ短調
  • フランク:オルガンのための6つの作品より「前奏曲、フーガと変奏」
  • フランク:ピアノ五重奏曲ヘ短調
  • フランク:ヴァイオリン・ソナタイ長調
  • フランク:交響曲ニ短調

晩年のプルーストがベートーヴェンの後期の弦楽四重奏曲を愛好していたことはよく知られているが、これをみると、セザール・フランクの存在も大きい。しかし、フランクの名は第四篇『ソドムとゴモラ』あたりで数箇所、その名はちらりと出てくるのみである。

フランクは生前パリ音楽院の作曲科教授にあり決して無名ではなかったが、作曲家としての評価は晩年から死後にかけて大きく高まった人である。プルーストがフランクの音楽に抱いた感動や印象も、ワーグナーやベートーヴェンのようにその名を挙げて直接語るのではなく、ヴァントゥイユという架空の人物に大部分重ねられているのではないかと思う。いずれにしても、小説を読んだだけでは、プルーストがフランクの作品を深く敬愛していた事実にはなかなかたどり着けない。

ところで、『失われた時を求めて』の映像作品などに触れると、BGMにはドビュッシーやラヴェルがよく流れてくる。もし作家の背景を重視するのなら、ワーグナーそしてフランクの音楽も欠かせないだろう。(つづく

〔画像〕David Richardson さんによるヴァントゥイユの肖像 in Resemblance: The Portraits & etc
〔参考〕
  • マルセル・プルースト『失われた時を求めて11 囚われの女 II』吉川一義訳(岩波文庫)
  • マルセル・プルースト『失われた時を求めて12 消え去ったアルベルチーヌ』吉川一義訳(岩波文庫)
  • 斉木眞一『一九一三年のプルーストと音楽』in 「思想」2013年11月号「時代の中のプルースト」(岩波書店)
  • 真屋和子『プルーストとベートーヴェン』in 「藝文研究」2011年12月号(慶應義塾大学藝文学会)in 慶應義塾大学学術情報リポジトリ(KOARA)
  • 原潮巳『ヴァントゥイユの音楽の鍵』 in 「ユリイカ」2001年4月号「特集プルースト」(青土社)
  • 原潮巳『プルーストと音楽 ─ヴァントゥイユの音楽における演奏者の地位』(1988) in CiNii 論文