2018/09/01

シムノン『メグレと無愛想な刑事』

メグレ警視シリーズにロニョン Charles Lognon という刑事が出てくる。日本の刑事ドラマにたとえると、メグレが「警視庁捜査一課の課長」だとすれば、ロニョンは「所轄の刑事」といったところ。ロニョンが登場する作品は次のとおり(*)

  • 『メグレと無愛想な刑事』(1947)  
  • 『モンマルトルのメグレ』(1951)
  • 『メグレ警視と生死不明の男』(1952)
  • 『メグレと若い女の死』(1954) 
  • 『メグレ罠を張る』(1955)
  • 『メグレと優雅な泥棒』(1961)
  • 『メグレと幽霊』(1964)
(*) ロニョンはメグレ警視シリーズではない « Monsieur la Souris » (1937) という小説にも登場する。

彼はパリ第9区のラ・ロシュフコー通りにある警察署に勤務しており、モンマルトルのコンスタンタン・ペックール広場沿いのアパルトマンで病気がちで家に籠もりきりの妻と暮らしている。同僚からは「無愛想な刑事」と呼ばれている。彼がそう呼ばれるのには理由がある。

ロニョンは事件を担当するたびに運が悪かった。彼がいよいよ逮捕状を執行しようとする時に、犯人に有力者の後ろ盾があって、放っておかなければならないと分かったり、それでなければロニョン自身が病に倒れて、同僚に事件の引き継ぎをしなければならなかったり、昇進の悪い予審判事が事件の解決を自分の出世に利用してしまったりしたのだ。
『メグレと無愛想な刑事』新庄嘉章訳

ロニョンは有能な刑事で「これほど良心的で、これほど正直な男もいない」のだが、不運続きがそうさせたのか、「疥癬にかかった犬のように、すぐ人につっかかって行くような性質」で、「歩く姿から見ても、彼は運命の重さに両肩を押しひしがれているようだった。」彼をよく知らない人にさえ、「非常に悲しそうな様子をした、背の低い人で、風邪を引いているのだとわかるまでは、その方が奥さんをなくして泣いている」のだと思われる。「彼は完全に風邪をひいていて、声はしゃがれ、絶えずポケットからハンカチを出していた。が、そのことで愚痴は言わなかった。彼は、今日までの人生に苦しみ、さらに残りの人生でも苦しむだろう人間の、あきらめきった様子をしていた。」アメリカのギャングに殴られたり、深夜に何者かに襲われたりと、ロニョンは可哀想な役回りを強いられている。

ロニョンが不運なのは、少なからず自業自得なところもあって、手柄を立てようと焦るあまり、捜査状況を知らせなかったり単独行動に走ったりして(反面、妙に杓子定規なところもある)、それが裏目に出てしまうのである。「ロニョンは手柄をあげたい、自分を目立たせたいという欲望が強いため、彼の価値を証明するチャンスだと思うたびに、確信ありげに、盲滅法に突進してしまうのだ。」反面、何かミスをやらかしたときには卑屈な態度に出るのだが、それは他ならず傲慢の一種であることをメグレは見抜いており、「この人間を助けてやりたいという気力をなくさせてしまう。」何より、人からの思いやりや気遣いを素直に受け取れないのは、人間不信に陥っているからというよりは、メグレのように、たとえ犯罪者であっても相手の心持ちを悟ろうとする努力をロニョン自身が怠っているからのようにも見受けられる。他の者にはみせないほどにメグレがロニョンに気を遣って声をかけても、ロニョンのほうは、皮肉を言われたか自分に瑕疵があると非難されたかと受け取る始末である。

世の中には、自分自身をまっすぐ省みず、不遇を何かと周囲や他人のせいにする人がいるが(そういう人はたいてい無愛想である)、ロニョンにもそういう一面が垣間見える。それほど好きな登場人物ではないのだけれど、作者シムノンにとってはおそらく、メグレ以上に、ロニョンのような人物に関心があり、少なからず同情さえしている節がある。そういう訳だから、メグレは(あるいは、彼の背後にいるシムノンは)ロニョンが憎めず、彼をいつも気遣い労ってやるのだろう。

こうしてロニョンを観察していると、無愛想な刑事という、哀愁を帯びているようで半ば喜劇的な人物を発見するのと同時に、やはりメグレという、あらゆる不条理を熟知した上で(あるいはそれがゆえに)他者に優しく度量の広い魅力的な人物が、改めて浮かび上がってくるのである。


〔補足〕
文中の引用は『メグレと無愛想な刑事』のほか、『メグレと若い女の死』『メグレ警視と生死不明の男』(長島良三訳)から。

〔参考〕

ジョルジュ・シムノン『メグレと無愛想な刑事』新庄嘉章訳(早川書房)
Georges Simenon, Maigret et l'Inspecteur malgracieux, 1947

2018/07/07

短篇のメグレ

メグレ警視シリーズといえば大半が長篇小説ですが、短篇もいくつかあります。長篇のほうは、これはちょっと手を抜いている? と思える作品がたまにあるなか、短篇については、どれも秀作揃いのような気がします。

メグレの短篇小説は28篇を数えます(中篇と呼べる比較的分量のある作品も含みます)。そのうち、以下の短篇集で22篇が翻訳で読むことができます。

  1. 『メグレ夫人の恋人』(角川文庫)
  2. 『メグレの退職旅行』(角川文庫)
  3. 『メグレ警視のクリスマス』(講談社文庫)
  4. メグレと無愛想な刑事』(ハヤカワ・ポケット・ミステリ)

例によって軒並み絶版状態であるけれど、多くは町の図書館に所蔵されていたり、古本で容易く手にすることができます。上記最初の3冊は、電子書籍でも刊行されています。

さらに『メグレ警視 世界の名探偵コレクション10』(集英社文庫)と『ディナーで殺人を 下』(創元推理文庫)を開けば、メグレもの3篇(「メグレとグラン・カフェの常連」と「街中の男」、「競売前夜」)を読むことができます。残りの3篇(「メグレと消えたミニアチュア」「メグレと消えたオーエン氏」「死の脅迫状」)については、翻訳は出ているものの、これらはミステリー雑誌に掲載されたきりのようです。

もう一つ。本来はメグレが登場しないのですが、メグレものとして翻訳されている作品に、「メグレとパリの通り魔」というのがあり、偕成社文庫の『メグレ警視の事件簿 2』に収められています。原題は « Sept petites croix dans un carnet »(手帳のなかの七つの小さな十字印)。メグレものであるなしにかかわらず、名作に数えてもよい逸品だと思います。


〔メグレ短篇作品一覧〕 原語版の短篇集にもとづいて
  • 『メグレの新たな事件簿』Les Nouvelles Enquêtes de Maigret, 1944
    • 首吊り船 (La Péniche aux deux pendus)
    • ボーマルシェ大通りの事件 (L'Affaire du boulevard Beaumarchais)
    • 開いた窓 (La Fenêtre ouverte)
    • 月曜日の男 (Monsieur Lundi)
    • 停車 ─ 五十一分間 (Jeumont, cinquante et une minutes)
    • 死刑 (Peine de mort)
    • 蝋のしずく (Les Larmes bougie)
    • ピガール通り (Rue Pigalle)
    • メグレの失敗 (Une erreur de Maigret)
    • メグレ夫人の恋人 (L'Amoureux de Madame Maigret)
    • バイユーの老婦人 (La Vieille dame de Bayeux)
    • メグレと溺死人の宿 (L'Auberge aux noyes)
    • 殺し屋スタン (Stan le tueur)
    • ホテル北極星 (L'Etoile du Nord)
    • メグレの退職旅行 (Tempete sur la Manche)
    • マドモワゼル・ベルトとその恋人 (Mlle Berthe et son amant)
    • メグレと消えたミニアチュア (Le Notaire de Châteauneuf)
    • メグレと消えたオーエン氏 (L'Improbable Monsieur Owen)
    • メグレとグラン・カフェの常連 (Ceux du Grand-Café)
    • 死の脅迫状 (Menaces de mort)
  • 『メグレ激怒する』Maigret se fâche, 1947
    • メグレのパイプ (La Pipe de Maigret)
  • 『メグレと無愛想な刑事』Maigret et l'Inspecteur malgracieux, 1947
    • メグレと無愛想(マルグラシウ)な刑事 (Maigret et l'inspecteur Malgracieux)
    • 児童聖歌隊員の証言 (Le Témoignage de l'enfant de choeur)
    • 世界一ねばった客 (Le client le plus obstiné du monde)
    • 誰も哀れな男を殺しはしない (On ne tue pas les pauvres types)
  • 『メグレとしっぽのない小豚』Maigret et les Petits Cochons sans queue, 1950
    • 街中の男 (L'homme dans la rue)
    • 競売の前夜 (Vente à la bougie)
  • 『メグレのクリスマス』Un Noël de Maigret, 1951
    • メグレ警視のクリスマス (Un Noël de Maigret)
    • メグレとパリの通り魔 (Sept petites croix dans un carnet)

〔参考〕メグレ警視シリーズ完読計画

2018/06/30

『失われた時を求めて』の翻訳あれこれ

『失われた時を求めて』には複数の翻訳バージョンがあります。読書の快楽を求めるのであれば、自分の好みに合わせてどれを選んでも良いかと思います。訳者がその作家的感性にもとづいて丹念に紡いだ日本語で小説を味わいたいとか、長大な小説世界をもっと平明な文章で駆け抜けてみたいとか。

岩波文庫版
もし、読書の快楽に終始せず、フランス語には疎くても、プルーストが小説に込めた秘義というか真髄のようなものにもっと近づきたい、あるいは研究者のような好奇心も追ってみたいのなら、岩波文庫版(吉川一義訳)を手にするのが最良だと思います。適切な注釈に秀逸な読書ガイドなどは、漫然と読んでいては見過ごしてしまう注目点を教えてくれます。豊富な図版にみる史料価値の高さは、本国フランスの研究者さえ驚くほどだそうで、他のバージョンに比べても抜きん出ています。

翻訳それ自体もとても野心的です。先行の翻訳をしのぐ正確さに加えて、日本語としての読みやすさを保ちながらも原文の語順を尊重するという大胆な試みもなされています。「拙訳の目標は、原文の持ち味を損なうことなく、できるかぎり読みやすく理解しやすい訳文を読者に提供することに尽きる。」(*) 試しに、「コンブレー」での鈴の音の場面や、雨が降り出してくる情景などを抜き出してみても、ほかの訳文よりも情景が鮮やかに浮かんでくることがわかります。 
(*) 吉川一義「プルースト邦訳の可能性」より引用(澤田直・坂井セシル編『翻訳家たちの挑戦 ─日仏交流から世界文学へ』水声社、所収)。

光文社古典新訳文庫版
あくまでも推測ですが、小説好きのディレッタントには、岩波文庫版の日本語は少々味気ないかもしれません。原文に忠実なところに少々説明的に感じられる一方(決して直訳ではないのだけど)、筑摩書房版や光文社古典新訳文庫版のほうが、日本語として詩的で薫り高いと感じるのではないのでしょうか。後者の訳者の方々は研究者であるとともに、若い頃には作家を志望していたのかもしれません。自分の作家魂をプルーストの小説に仮託している、訳文からそのような印象を受けます。一方、岩波文庫版は、あくまでプルーストの態度に忠実であろうとし、詩的な雰囲気を保ちつつも冷徹な評論家としての文体、あるいはモラリスト調の文体に近い翻訳という印象があります。

***
集英社版
つい岩波文庫版をひいきにしてしまうのは、ある市民講座で、訳者である吉川一義さんご本人のお話を実際にうかがったからかもしれません。枕頭の書はモンテーニュの『エセー(随想録)』だとおっしゃっていた覚えがあります。受講者からのどんなにとんちんかんな? 質問にも懇切丁寧にお答えくださるだけでなく、そういった質問からさらに新しい発見を引き出されるすばらしい方だと思います。ちなみに、氏はフランス語初学者向けの仏和辞典として好評な「ディコ仏和辞典」(白水社)の編集責任者でもあり、私が学習したフランス語の教科書にもお名前が載っていました。私がフランス語を始めたときから、そしてプルーストを知る以前から、すでに「お世話になっていた」ことになります。

学生時代に集英社版(鈴木道彦訳)で初めて通読した『失われた時を求めて』の長い長い旅程を、今は吉川一義さんの導きで改めてたどっているところです。

〔『失われた時を求めて』の主な翻訳〕
  • 井上究一郎訳 『失われた時を求めて』筑摩書房/ちくま文庫
  • 鈴木道彦訳 『失われた時を求めて』集英社/集英社文庫
  • 高遠弘美訳 『失われた時を求めて』光文社古典新訳文庫(刊行中)
  • 吉川一義訳 『失われた時を求めて』岩波文庫(2019年11月完結)