2020/06/28

メグレ警視シリーズ完読計画

メグレ物が、今日人気がある警察小説に与えた影響は、計り知れない。メグレ物の長所は、推理の手際の良さ、雰囲気描写と登場人物の心理描写の妙味にあるといえるが、しかし最大の魅力は、なんといってもメグレ警視その人にあるといえるだろう。
(長島良三)(*)
(*)シムノン『メグレ警視の事件簿 1』偕成社文庫の解説より

メグレ警視シリーズ(長短合わせて103篇)の完読を目指しています。意外にも? メグレ警視シリーズはすべての作品が翻訳されているのですが、ほぼ絶版の状態です。そのため、できるだけ地元の図書館で借りて読みつつ、所蔵されていなかった数冊は、古書や電子書籍を買いました。電子書籍では30冊弱が刊行されています。ただ、古本の価格がやたら高いものや雑誌に掲載されたきりのものなどについては、フランス語で読んでいます。本当はすべての作品をフランス語で読みたいところですが......
以下、まだ読んでいない作品は灰色で表記しています。読み了えたら黒くしていきます。あとどのくらいで完読できるかしら?...

追記:2021年10月、全作品を一通り読むことができました!

(長篇)75篇
 1. 『怪盗レトン』(ラトビア人ピエトル)
 2. 『メグレと運河の殺人』(プロヴィダンス号の船曳き)
 3. 『死んだギャレ氏』 (ガレ氏、死す)
 4. 『サン・フォリアン寺院の首吊人』(サン=フォリアン教会の首吊り)
 5. 『男の首』(ある男の首)
 6. 『黄色い犬』(黄色い犬)
 7. 『メグレと深夜の十字路』(深夜の十字路)
 8. 『オランダの犯罪』(オランダの犯罪)
 9. 『港の酒場で』(酒場「ニューファンドランドの集合場所で」)
10. 『ゲー・ムーランの踊り子』(ナイトクラブ「ゲー・ムーラン」の踊り子)
11. 『三文酒場』(安値の郊外酒場ギャンゲット
12. 『霧の港のメグレ』(霧の港)
13. 『メグレと死者の影』(影絵芝居)
14. 『サン・フィアクル殺人事件』(サン=フィアクル事件)
15. 『メグレ警部と国境の町』(フラマン人の家)
16. 『メグレを射った男』(ベルジュラックの狂った男)
17. 『紺碧海岸のメグレ』(酒場「リバティー・バー」)
18. 『第1号水門』(第1号水門)
19. 『メグレ再出馬』(メグレ)
20. 『メグレと超高級ホテルの地階』(ホテル「マジェスティック」の地下室)
21. 『メグレと判事の家の死体』(判事の家)
22. 『メグレと死んだセシール』 (セシルは死んだ)
23. 『メグレと謎のピクピュス』(署名ピクピュス)
24. 『メグレと奇妙な女中の謎』(フェリシーはそこにいる)
25. 『メグレと死体刑事』(死体刑事)
26. 『メグレ激怒する』(メグレ腹を立てる)
27. 『メグレ、ニューヨークへ行く』(ニューヨークのメグレ)
28. 『メグレのバカンス』(メグレのバカンス)
29. 『メグレと殺人者たち』 (メグレと彼の死者)
30. 『メグレの初捜査』(メグレの初めての捜査、1913年)
31. 『メグレ式捜査法』(我が友メグレ)
32. 『メグレ保安官になる』(検死審問法廷のメグレ)
33. 『メグレと老婦人』(メグレと老婦人)
34. 『メグレ夫人と公園の女』(メグレ夫人の友だち)
35. 『メグレの回想録』(メグレの回想録)
36. 『モンマルトルのメグレ』(ストリップ劇場「ピクラッツ」でのメグレ)
37. 『メグレ夫人のいない夜』(間借り中のメグレ)
38. 『メグレと消えた死体』(メグレと「のっぽ」と呼ばれる女)
39. 『メグレ警視と生死不明の男』(メグレとロニョンとギャングスターたち)
40. 『メグレの拳銃』(メグレのリボルバー)
41. 『メグレとベンチの男』(メグレとベンチの男)
42. 『メグレの途中下車』(メグレ怖れる)
43. 『メグレ間違う』(メグレ間違う)
44. 『メグレと田舎教師』(学校のメグレ)
45. 『メグレと若い女の死』(メグレと死んだ若い女)
46. 『メグレと政府高官』(大臣邸のメグレ)
47. 『メグレと首無し死体』(メグレと首なし死体)
48. 『メグレ罠を張る』(メグレ罠を張る)
49. 『メグレの失態』(メグレの失敗)
50. 『メグレ推理を楽しむ』(メグレ楽しむ)
51. 『メグレとかわいい伯爵夫人』(メグレ旅に出る)
52. 『メグレと火曜の朝の訪問者』(メグレのためらい)
53. 『メグレと口の固い証人たち』(メグレと強情な証人たち)
54. 『メグレの打明け話』(メグレの打明け話)
55. 『重罪裁判所のメグレ』(重罪院のメグレ)
56. 『メグレと老外交官の死』(メグレと老人たち)
57. 『メグレと優雅な泥棒』(メグレと不精な泥棒)
58. 『メグレと善良な人たち』(メグレと善良な人々)
59. 『メグレと妻を寝とられた男』(メグレと土曜日の依頼人)
60. 『メグレとルンペン』(メグレと浮浪者)
61. 『メグレと殺された容疑者』(メグレの怒り)
62. 『メグレと幽霊』(メグレと幽霊)
63. 『メグレたてつく』(メグレ自分を守る)
64. 『メグレと宝石泥棒』(メグレの忍耐)
65. 『メグレと賭博師の死』(メグレとナウール事件)
66. 『メグレの財布を掏った男』(メグレの泥棒)
67. 『メグレとリラの女』(ヴィシーのメグレ)
68. 『メグレと殺人予告状』(メグレためらう)
69. 『メグレの幼な友達』(メグレの幼なじみ)
70. 『メグレと録音マニア』(メグレと殺人者)
71. 『メグレとワイン商』(メグレとワイン商)
72. 『メグレと老婦人の謎』(メグレの狂婦人)
73. 『メグレとひとりぼっちの男』(メグレとひとりぼっちの男)
74. 『メグレと匿名の密告者』(メグレと密告者)
75. 『メグレ最後の事件』(メグレとシャルル氏)

(中短篇)28篇
 1. 「メグレ夫人の恋人」(メグレ夫人の恋人)
 2. 「死刑」(死刑)
 3. 「開いた窓」(開いた窓)
 4. 「首吊り船」(二人の首吊りのいる河船)
 5. 「蝋のしずく」(蝋燭の滴)
 6. 「メグレの失敗」(メグレの誤ち)
 7. 「ボーマルシェ大通りの事件」(ボーマルシェ大通りの事件)
 8. 「停車─五十一分間」(ジュモン駅、51分間の停車!)
 9. 「殺し屋スタン」(殺し屋スタン)
10. 「月曜日の男」(月曜日の男)
11. 「ピガール通り」(ピガール通り)
12. 「バイユーの老婦人」(バイユーの老婦人)
13. 「ホテル北極星」(ホテル「北極星」)
14. 「マドモワゼル・ベルトとその恋人」(マドモワゼル・ベルトとその恋人)
15. 「メグレの退職旅行」(英仏海峡の大嵐テンペスト
16. 「メグレと無愛想な刑事」(無愛想な刑事)
17. 「児童聖歌隊員の証言」(児童聖歌隊員の証言)
18. 「世界一ねばった客」(世界一ねばった客)
19. 「誰も哀れな男を殺しはしない」(誰も哀れな男を殺しはしない)
20. 「メグレ警視のクリスマス」(メグレのクリスマス)
21. 「メグレと溺死人の宿」(オーベルジュ「溺死人の宿」)
22. 「メグレのパイプ」(メグレのパイプ)
23. 「メグレとグラン・カフェの常連」(「グラン・カフェ」の人々)
24. 「街中の男 」(町中にいる男)
25. 「競売の前夜」(ロウソク競売)
26. 『メグレと消えたミニアチュア』(シャトーヌフから来た公証人)
27. 『メグレと消えたオーエン氏』(ありえないオーウェン氏)
28. 『死の脅迫状』(殺しの脅迫)


2020/04/18

ラ・ロシュフコー『マクシム』 (4)

わたしは他人から与えられるものほど、そのために報恩という名目で自分の意志を抵当に入れなければならないことほど、高価なものはないと思う。 
『モンテーニュ随想録』第3巻第9章より(関根秀雄訳)

恩誼について

ラ・ロシュフコーは恩誼(恩義)や義理について、次のようなことを言っている。
ほとんどみなの人たちが小さな義理を返したがる。たくさんの人たちが中くらいな義理に対しては感謝の念を抱く。だが、大きな恩恵に対しては恩知らずのふるまいに出ない者はほとんどない。(格言299)
恩を受けておきながら、一度もその恩に報いることがないのは忘恩の徒以外の何ものでもないだろう。とはいうものの、命を救ってもらったとか、人生の重大事を助けてもらったなど、恩誼が大きければ大きいほど、そのお返しをするというのはたいへん難しいものである。
われわれは人から恩をこうむると、その人からどんなにひどいことをされてもありがたく思わなければならない。(格言229)
その一方で、恩誼を感じることは当然だとしても、その恩にいつまでも縛られるとなると、それは正しいことのように思われない。ましてや、その恩を言いがかりに、恩人からさらなる恩返しを求められるようなことがあれば、それはこちらの忘恩ではなく、もはや相手(恩人)のほうこそが恩知らずだ言っても良い。
自分のためによくしてくれた人ほどに自分を恩知らずだとは思わない人こそ、恩知らずである。(格言96) 

「つまり、人はむかし世話になった人からひどくあしらわれても、我慢するのが普通である。その我慢をしないと、あれは恩知らずだと言われる。「昔の恩は昔の恩、いま自分のしていることは当然なことだ」とでも考えようものならそれこそ大忘恩者、前代未聞の人非人にされてしまう。つまり一度恩を施した人は、恩を受けたもののわずかな報恩では満足せず、その人をすぐに恩知らずと呼ぶが、その人のほうこそ恩知らずという言うべきだ、とラ・ロシュフコーは言うのである。」(白水社版の注釈より)

もし不正な行為・恥ずべき行為を成すような人々に、図らずも何か借りができてしまったとしても、われわれはやはり恩誼を感じ続けるべきなのだろうか。たとえ何かしら恩返しができたとしても、彼らのような人間はさらなる「恩返し」を、陰に陽に繰り返し迫るのではないだろうか。

恩知らずの人たちのために尽くすのは大きな不幸ではないが、不義不正の人の恩にきることは耐え難い不幸である。(格言317)

***

世の中は持ちつ持たれつであり、互いの義理や恩に報い合うことで成り立っているものとみるのは、とくに我が国では当たり前のことのようにと思われる。確かにそうかもしれない。だが、恩誼や義理のつながりを越えて互いの自由を認め合うこともまた、信頼関係を保つには欠かせぬ形であり、世の中を健やかに成り立たせるためには一層大事なのではないだろうか。そこに忠誠といった言葉に偽装された隷従があってはならない。


『ラ・ロシュフコー格言集』関根秀雄訳(白水社)
François de La Rochefoucauld, Réflexions ou sentences et maximes morales, 1665

2020/03/21

ラ・ロシュフコー『マクシム』 (3)

虚栄の種類はとても数えつくせない

ラ・ロシュフコーの人間をめぐる考察では、各翻訳書の索引にみるように、さまざまなテーマが扱われている。おそらく自愛・自己愛 « amour-propre » こそが、その著作におけるもっとも中心的な旋律なのだと思うが、私はほかに、虚栄・見栄っ張り « vanité » のモチーフにも惹かれる。

きょえい【虚栄】①実質の伴わない、外見だけの栄誉。②うわべだけ飾って、自分を実際より良く見せようとすること。みえ。「虚栄を張る」「虚栄の巷」
きょえいしん【虚栄心】みえを張りたがる心。
(広辞苑)

人との会話、他人の身なりや振る舞い、テレビやインターネットなどのメディアから聞こえてくる意見やコメント、書籍やブログ記事といった文章の類にいたるまで、世の中のあらゆるところで人びとの虚栄を見出すことができる。とはいえ、私が人びとの言動や挙動から虚栄を感じ取るのは、ひとえにそれらを映す鏡、つまり私のなかにも虚栄心が棲んでいるからにほかならない。パスカルもそのようなことを言っている(虚栄のスパイラル)。

そうは言いつつも、このところは少々度が過ぎているような気がする。自分の虚栄をいけしゃあしゃあとひけらかす人が実に多いけれど、あまりに自分自身を正当化し過ぎてしまって、それを虚栄だとさえ自覚していない節がある。「承認欲求」が強すぎて、もはや盲目になってしまっているのでないだろうか。ラ・ロシュフコーに言わせれば、虚栄も自愛の一つのヴァリエーションである。

ちなみに、フランス語の « vanité » には空虚、はかなさなどの意味もある。「コヘレトは言う。なんという空しさ、なんという空しさ、すべては空しい。」« Vanité des vanités, dit l’Ecclésiaste, vanité des vanités, tout est vanité. »(コヘレトの言葉 I :2) 虚栄を張り続けることの何と虚しいこと!...

***

以下は、« vanité »にもとづいて引いてみたラ・ロシュフコーの格言(『道徳的反省』より)。邦訳は白水社版による。好きなのは格言389。

16 
Cette clémence dont on fait une vertu se pratique tantôt par vanité, quelquefois par paresse, souvent par crainte, et presque toujours par tous les trois ensemble.
かの寛仁は、人これを一つの徳と見るけれども、ときには虚栄によって、ときには怠惰によって、しばしば危惧によって、ほとんど常に以上三つの原因の合力によって、行われる。

24 
Lorsque les grands hommes se laissent abattre par la longueur de leurs infortunes, ils font voir qu’ils ne les soutenaient que par la force de leur ambition, et non par celle de leur âme, et qu’à une grande vanité près les héros sont faits comme les autres hommes.
偉大な人たちも長びく不運にはついに打ち負かされるところを見ると、かれらはそれまでただ野心の力で耐えてきたので、決して霊魂の力ではなかったことがわかる。そして、大きな虚栄を別にすれば英雄もまたただの人間と同じにできているということがわかる。

27 
On fait souvent vanité des passions même les plus criminelles ; mais l’envie est une passion timide et honteuse que l’on n’ose jamais avouer.
人はしばしばもっとも罪悪的な情念までも自慢にする « faire vanité de… » 。だが嫉み心だけは臆病なはにかみ屋の情念なので、人は決してそれを漏らそうとしない。

33 
L’orgueil se dédommage toujours et ne perd rien lors même qu’il renonce à la vanité.
高慢はいつも埋め合わせをつけて何一つ損をしない。虚栄を捨てるときも。

56 
Pour s’établir dans le monde, on fait tout ce que l’on peut pour y paraître établi.
世間ではゆるがぬ地位を得ようとすると、人はあらゆる手段をつくして、そういう地位をすでに得ているかのように見せかける。
(*) « vanité » の語は出てこないが、これも虚栄の一種だと思う。

137 
On parle peu quand la vanité ne fait pas parler.
人はほとんど口を利かない。虚栄が話せとそそのかさないかぎり。

158 
La flatterie est une fausse monnaie qui n’a de cours que par notre vanité.
おべっかは我々に虚栄がなければ通用しない贋金である。

200 
La vertu n’irait pas si loin si la vanité ne lui tenait compagnie.
得は、虚栄がお供しなければ、たいして遠くまではいかないであろう。

220 
La vanité, la honte, et surtout le tempérament, font souvent la valeur des hommes, et la vertu des femmes.
虚栄と羞恥、そしてとくに体質が、男にあっては武勇を、女にあっては貞操を作る。

232 
Quelque prétexte que nous donnions à nos afflictions, ce n’est souvent que l’intérêt et la vanité qui les causent.
我々は我々の悲嘆にどんなこじつけをしてみても、そのもとはたいてい欲得と虚栄に過ぎない。

233 
Il y a dans les afflictions diverses sortes d’hypocrisie. Dans l’une, sous prétexte de pleurer la perte d’une personne qui nous est chère, nous nous pleurons nous-mêmes ; nous regrettons la bonne opinion qu’il avait de nous ; nous pleurons la diminution de notre bien, de notre plaisir, de notre considération. Ainsi les morts ont l’honneur des larmes qui ne coulent que pour les vivants. Je dis que c’est une espèce d’hypocrisie, à cause que dans ces sortes d’afflictions on se trompe soi-même. Il y a une autre hypocrisie qui n’est pas si innocente, parce qu’elle impose à tout le monde : c’est l’affliction de certaines personnes qui aspirent à la gloire d’une belle et immortelle douleur. Après que le temps qui consume tout a fait cesser celle qu’elles avaient en effet, elles ne laissent pas d’opiniâtrer leurs pleurs, leurs plaintes, et leurs soupirs ; elles prennent un personnage lugubre, et travaillent à persuader par toutes leurs actions que leur déplaisir ne finira qu’avec leur vie. Cette triste et fatigante vanité se trouve d’ordinaire dans les femmes ambitieuses. Comme leur sexe leur ferme tous les chemins qui mènent à la gloire, elles s’efforcent de se rendre célèbres par la montre d’une inconsolable affliction. Il y a encore une autre espèce de larmes qui n’ont que de petites sources qui coulent et se tarissent facilement : on pleure pour avoir la réputation d’être tendre, on pleure pour être plaint, on pleure pour être pleuré ; enfin on pleure pour éviter la honte de ne pleurer pas.
人々の悲嘆の底にはさまざまな偽善が隠れている。ある一つの悲嘆を見るに、我々は我々の大切な人の死に涙をそそいでいるのだと言いながらその実我々自身の涙をそそいでいる。つまりその人の我々に対する同情理解を惜しんでいる。我々の宝、我々の楽しみ、我々の尊重が、減ったことに涙している。だから死んだ者は、ただ生きている者のためにのみ流される涙のお裾分けにあずかるだけである。わたしがこれを一種の偽善だと言うのは、この種の悲嘆の中で、人は自分自身を欺いているからである。ところがもう一つそれとはちがった偽善がある。このほうは皆の人を騙すのであるから、いまほどに罪のないものではない。はっきり言うと、それは美しく不朽な悲痛を示して褒められようと願う人々の悲嘆のことである。いっさいを消耗する時が彼らのほんとうに抱いていた悲痛を消耗させたのちにも、彼らはいつまでもしつこく涙しかきくどき吐息する。かれらは悲愁やる方なき態をよそおい、あらゆる所作によって、その悲哀が命とともにでなければ終るまじきことを、なんとかしてわからせようと懸命になる。この哀切にして執拗な虚栄は、ふつう野心に満ちた女たちのもとに見いだされる。女というものは光栄に達するすべての道を塞がれているので、彼女らは慰められない悲嘆を見せびらかすことによって有名になろうと努めるのである。それからなおもう一つの別種の涙がある。その源泉はごく小さなものにすぎず、溢れ出たかと思うとじきに涸れる。つまり人は、涙もろい人よと評判されようとして泣く。おかわいそうにと言われたくて泣く。もらい泣きをしてもらおうとして泣く。つまり涙のない者という恥を避けるために泣くのである。

239 
Rien ne flatte plus notre orgueil que la confiance des grands, parce que nous la regardons comme un effet de notre mérite, sans considérer qu’elle ne vient le plus souvent que de vanité, ou d’impuissance de garder le secret.
身分の高い人たちから胸の中を打ち明けられることくらい、我々の自尊心を嬉しがらせるものはない。つまり我々はそれを我々の真価の結果だと見るからであって、決してそれがもっともしばしば虚栄から来るとか、秘密を胸に畳んでおけないことのためであるとか、考えないからである。

263 
Ce qu’on nomme libéralité n’est le plus souvent que la vanité de donner, que nous aimons mieux que ce que nous donnons.
いわゆる気前が良いというのは、もっともしばしば、ただ人に物をやりたいという虚栄に過ぎない。われわれはその虚栄を愛するあまり、与えてあえて惜しまないのである。

388 
Si la vanité ne renverse pas entièrement les vertus, du moins elle les ébranle toutes.
虚栄は徳行を完全にひっくり返しはしないけれども、少なくともそれらすべての根元をゆすぶる。

389 
Ce qui nous rend la vanité des autres insupportable, c’est qu’elle blesse la nôtre.
我々に人の虚栄を耐え難く思わせるのは、それが我々の虚栄を傷つけるからである。

425 
La pénétration a un air de deviner qui flatte plus notre vanité que toutes les autres qualités de l’esprit.
洞察にはちょっと予言みたいなところがある。それは精神のほかのどんな特質にも増してわれわれの虚栄心を喜ばす。

443 
Les passions les plus violentes nous laissent quelquefois du relâche, mais la vanité nous agite toujours.
もっとも激烈な情念にもときには中だるみが来るが、虚栄のほうはしょっちゅう我々をかきたてて休むことがない。

446 
Ce qui rend les douleurs de la honte et de la jalousie si aiguës, c’est que la vanité ne peut servir à les supporter.
恥や嫉妬の苦痛があんなにも鋭く感じられるのは、虚栄もそれらに耐える力になってくれないからだ。

467 
La vanité nous fait faire plus de choses contre notre goût que la raison.
虚栄は理性以上に我々に何かと我々の好みに反することをさせる。

483 
On est d’ordinaire plus médisant par vanité que par malice.
人はふつう意地悪によってよりも思い上がりによって« par vanité »いっそう悪口を言う。

(506) 
On ne saurait compter toutes les espèces de vanité.
虚栄の種類はとても数えつくせない。(著者の死後に公にされた格言 6)

(536) 
Les véritables mortifications sont celles qui ne sont point connues ; la vanité rend les autres faciles. 
ほんとうの苦行は人目につかぬ苦行である。人目につく苦行は虚栄心さえあれば楽にできる。(著者の死後に公にされた格言 37)

(609) 
Nous n’avouons jamais nos défauts que par vanité.
我々は虚栄によってでなければ決して自分の欠点を認めない。(著者がみずから削除した格言 35)

(612)
La pompe des enterrements regarde plus la vanité des vivants que l’honneur des morts.
葬式の壮麗は生きている人の虚栄のためであって、死んだ人の栄誉のためではない。(著者がみずから削除した格言 38)

(649) 
La raillerie est une gaieté agréable de l’esprit, qui enjoue la conversation, et qui lie la société si elle est obligeante, ou qui la trouble si elle ne l’est pas. Elle est plus pour celui qui la fait que pour celui qui la souffre. C’est toujours un combat de bel esprit, que produit la vanité ; d’où vient que ceux qui en manquent pour la soutenir, et ceux qu’un défaut reproché fait rougir, s’en offensent également, comme d’une défaite injurieuse qu’ils ne sauraient pardonner. C’est un poison qui tout pur éteint l’amitié et excite la haine, mais qui corrigé par l’agrément de l’esprit, et la flatterie de la louange, l’acquiert ou la conserve ; et il en faut user sobrement avec ses amis et avec les faibles.
冗談(からかい)は英知から発する愉快な戯れであって、会話を楽しくする。そして、仲間が和やかな人たちであれば彼らを一層結びつけるが、そうではにときは仲間を混乱させる。冗談はそれを言い出す者のためになることのほうが、それを受ける者のためになることより多い。それはやはり、虚栄が生み出す一種の機知の戦いである。だから受け答えをしようにもそれだけの機知を持たない者や、自分の欠点を突かれて顔を赤くする人たちは、いずれも許すべからざる不当な敗北をさせられたように恨みを抱くことになる。それは一種の毒である。まったく純粋であれば、友愛を消滅し憎しみを激発する。けれども面白い機知や、へつらうような賞賛がそれを和らげていれば、友情を得るもととなり、あるいはそれを保存する。だから、冗談は、友人や弱い人々に対しては、控えめに用いなければならないのである。(著者の死後に公にされた格言 34)


『ラ・ロシュフコー格言集』関根秀雄訳(白水社)
François de La Rochefoucauld, Réflexions ou sentences et maximes morales, 1665

2020/02/29

ラ・ロシュフコー『マクシム』 (2)

ラ・ロシュフコーの翻訳

(翻訳において)いたずらに見慣れないことばを用いたり、自分だけにしか通用しない造語を用いることはよくないが、いいかげんに平凡な日本の慣用語を用いて、くだけた練れた訳文だと自負することもよくない。なんと言っても日本語本来の語彙だけでは(仏教用語でもかりないことには)、モラリストの思想は完全に翻訳できない。
(関根秀雄)

ラ・ロシュフコーの『マクシム』には、多くの翻訳がある。私には、1998年にリクエスト復刊で出た白水社の『ラ・ロシュフコー 格言集』がたいへん良い(もともとは1949年、1962年に出版されたもの)。ラ・ロシュフコーの肉声に最も迫っているように感じられる。単にフランス文学の翻訳家であるというだけでなく、国文・漢籍の教養を背景にしつつ(*1)、モンテーニュを中心に一貫してモラリスト文学を研究した人としての言葉選びには、すぐれた的確さや趣きがあると思う。

(*1) 訳者関根秀雄の父は高名な国文学者、関根正直(1860-1932)。

それぞれの格言に、解説や比較参照のできるほかの格言の番号が付いていたり、モンテーニュやパスカル、とりわけヴォーヴナルグ、ラ・ブリュイエールら、ほかのモラリストの言葉との類似対照が付してあるところなどは、入門者にとても適切だと思う。

俳句や短歌のように、ラ・ロシュフコーの格言を一つ一つ読むかぎりでは、その切れ味や妙味に感心でき堪能することができるし、その言葉に常識や普遍性も多く汲み取れる。ただ、これを番号順にひたすら読んでいると、次第に著者の狂気が垣間見えてきて、なにやら目眩いがしてくる(*2)。もし、500以上もある格言(これに著者没後に加えられたものや、著者自身が削ったものを含めれば600以上)をどうしても立て続けに読みたいのであれば、なおさら、訳者による導きあるいは一呼吸は、お節介であるより親切のように感じられる。モラリストの言葉をいかにして日本語に移し換えられるか、その苦労難儀もところどころで垣間見えるのも面白い。

(*2) 著者自身の狂気はさておき、ラ・ロシュフコーは理性に絶対的な信頼を置いておらず、むしろ(近代的な意味での)狂気なるものを肯定している節がある。「オネトム[教養ある紳士]は気ちがいのように恋をしてもよいが、ばかのように恋をしてはならぬ。」(格言353)

とはいえ、そのような仲介なしでひたすら読みたい、むしろラ・ロシュフコーの「狂気」とやらを拝んでやろうというのであれば、書誌的な情報も豊富な岩波文庫版であったり、最近刊行された講談社学術文庫版を繙かれるのがよいと思う。とくに後者は、ここに挙げたバージョンの中で最も読みやすい印象。あとがきも一読の価値がある(*3)

(*3) ラ・ロシュフコーは自愛・自己愛を繰り返し語っているものの、だからといって、それは決して人間の本性・自然なものではないということを解説している。「天性の残忍は自愛ほどに残忍な人間をつくらない。」(格言604)


〔参考〕『マクシム』の主な邦訳
  • 『ラ・ロシュフコー格言集』関根秀雄訳(白水社)
  • 『ラ・ロシュフコー箴言集』二宮フサ訳(岩波文庫)
  • ラ・ロシュフコー『箴言集』武藤剛史訳(講談社学術文庫)
  • ラ・ロシュフコー『運と気まぐれに支配される人たち ラ・ロシュフコー箴言集』吉川浩訳(角川文庫)
(つづき)ラ・ロシュフコー『マクシム』 (3)

『ラ・ロシュフコー格言集』関根秀雄訳(白水社)
François de La Rochefoucauld, Réflexions ou sentences et maximes morales, 1665

2020/02/22

ラ・ロシュフコー『マクシム』 (1)

ラ・ロシュフコーの一撃

ラ・ロシュフコーのマクシム(格言・箴言)は、われわれにとって心強い武器である。自分を取り巻く世界を正しく観察するための術にも、世の中の偽善や欺瞞、あるいは悪徳に対抗するための手段にさえにもなると思う。ラ・ロシュフコーの言葉それ自体、相手・敵の急所を一撃に突くことのできる力を秘めている。

だが一方で、これは、まさに言葉どおりの「諸刃の剣」にもなることも忘れてはいけない。相手・敵とは、必ずしも他者とは限らない。言うまでもなく、それは自分自身にもあたる。日々の暮らしで野放しにしている自己愛を筆頭に、高慢、虚栄、嫉妬、弱さなど、ラ・ロシュフコーは、他者だけでなくわれわれの心内にも容赦なく襲いかかってくる。人間観察の対象は、他者と自己との両方なのだ。
世の多くの人がだまされている、いな自分自身もよくだまされたがる、われわれの行為の奥底にもぐりこみかくれている利己心や打算が、そこ[ラ・ロシュフコーのマクシム]に小気味よくえぐり出され、はっきりと照明をあてられている。
(関根秀雄)

だから、仮に、今ここでラ・ロシュフコーの言葉を取り上げて、私がこれを笠に着て世の中の不正を批判してみたとしても、そして、それを読んで読者の溜飲を下げることができたとしても、両者とも決して第三者の立場から達観できるわけでも、特別待遇で何か免除されるわけでもない。批判の矛先は常にわれわれにも向けられ得るのである。ラ・ロシュフコーほど、そういうことをはっきりと意識させるモラリストはいないのではないかと思う。



『ラ・ロシュフコー格言集』関根秀雄訳(白水社)
François de La Rochefoucauld, Réflexions ou sentences et maximes morales, 1665

2020/02/15

シムノン『メグレと謎のピクピュス』(署名ピクピュス)

明日、午後五時、占い師を殺す。署名:ピクピュス。

8月、暑い盛りのある日、不動産会社に勤務するジョゼフ・マスクヴァンという男が、カフェでこの殺人予告を見つけたという。しかも彼は会社の金を横領したと警察に出頭してきたのである。

ピクピュスとは誰か? どの占い師のことか? 起こりそうもなく動機も見当たらないこの犯罪は何のためなのか? 馬鹿げていると思われるものの、メグレは敢えてパリ市中を警戒させる。彼は、きっと殺人が起こるだろうと予期するにいたる。実際、それは発生する。マドモアゼル・ジャンヌなる占い師が、自宅の私室で短刀で刺殺されたのだ。そして部屋の隣には鍵のかかった台所があり、そこにはこのような季節に外套を着た老人が、椅子に静かに座ったまま、閉じ込められていた。その老人、オクターヴ・ル・クロアゲンはただじっと待っている。彼は犯罪について何も見なかったようだが、事件のことを知りひっそりと涙する…(*1)

(*1) 原語版ペーパーバックの作品紹介文に少し脚色をして書いた。 

例に漏れず、この犯罪にも金銭が絡んでくるのだが、次のような台詞を吐くほどに、メグレの目には異常な事態として映る。「それでもやはり、私の刑事生活のなかで、金への執着がこれほど極限までに押し進められ、これほど卑劣な振る舞いに及んだのを目の当たりにしたのは、今回が初めてです…」そして、一見突拍子もない物語設定には喜劇的な様相が幾分見られるものの、根底には救いがたい人間の業による悲劇もまた潜んでいる。これをつぶさに観察してきたメグレは呆れ、憤慨し、憐れむのだった。「愚かすぎる! まったく誰も彼も愚かすぎる… (…) とはいえ、彼らがそれほど愚かでなかったら、警察など要らないだろうが…」

犯罪の裏には、殺人に至る直接的な動機と、そもそもそれを惹き起こした事実とがある。小説の後半、まず最初に後者、隠された事実については、関係者が一堂に会してその真実が明るみに出るのだが(いわばミステリー小説の常套)、前者、つまりなぜ殺人が起こったのかについては、そのような場は設けられない。読者の眼前には、タクシーの後部座席に沈み込んで目を瞑っているメグレの姿がある。彼の心中の想像なのかそれとも回想なのかがはっきりしない形で、事件の経緯が語られるのである。このような表現の仕方は、小説だからこそ効果が出るのではないかと思う(*2)。

(*2) 翻案のテレビドラマ(ジャン・リシャール主演版、ブリュノ・クレメール主演版)では、いずれもメグレが実際に誰かしらと会話するなかで、殺人事件の全容が明らかになる。翻ってみれば、そのあたりの工夫具合がドラマならではの楽しみとも言える。

〔余談〕
  • ピクピュス Picpus はパリ南東(12区)にある地区 quartier の名称。ヴァンセンヌの森に隣接している。小説の筋にはほとんど関係がない。
〔参考〕書誌情報
  • 1941年6月、フランス西部大西洋岸沿い、ヴァンデ地方のフォントネー=ル=コントにあるテール=ヌーヴ城館で執筆(シムノンはこのシャトーに1940年から2年ほど居を構えていた)。
  • 初出:日刊紙「パリ・ソワール」に1941年12月11日から翌1月21日まで、『署名ピクピュス、もしくはメグレの激怒』のタイトルで連載。
  • 初版:1944年ガリマール書店より。1944年1月5日印刷。
  • 発行:『署名ピクピュス』のタイトルで、本作と『死体刑事』『フェリシーはそこにいる』『異国風短編集』を含んだ作品集として刊行。
〔参考〕

〔同じ作家の作品〕


ジョルジュ・シムノン『メグレと謎のピクピュス』長島良三訳
(光文社「EQ」1983年7月号)
Georges Simenon, Signé Picpus, Gallimard, 1944

2020/01/04

オデットはジュピアンの...

『失われた時を求めて』を読みながら

しかしフォルシュヴィル男爵夫妻は、このように一見間違っているように見えるにもかかわらず、その名前が記されていたのは、たしかに新婦の側であって、カンブルメールの側ではなかった。これはじつはゲルマント家とは関係なく、ジュピアンとの関係ゆえであり、事情に明るい本作の読者はご存じのようにオデットはジュピアンの従姉妹だったからである。
第六篇《消え去ったアルベルチーヌ》岩波文庫, p.575
  • オデット(スワン夫人)... 元粋筋の女(ココット)。スワンの死後、フォルシュヴィル伯爵と再婚。ジルベルトはスワンとの間にできた娘。
  • ジュピアン ... ゲルマント館の中庭のチョッキの仕立屋。シャルリュス氏と関係を持った。その姪は、シャルリュスの世話でオロロン嬢の称号を獲得。

ジュピアンの姪は、シャルリュス男爵の養女オロロン嬢としてカンブルメール家に嫁いだものの、結婚式の数週間後に亡くなってしまう。その死亡通知はシャルリュスとのつながりからゲルマント家にも送られたが、通知にはフォルシュヴィル男爵[正しくは伯爵]夫妻の名も記されていた。これは一見、フォルシュヴィル男爵夫人であるオデットが、娘のジルベルトがサン=ルー侯爵の妻になって、ゲルマント家の遠戚となったためと思われるのだが、実はそうではなくて「オデットはジュピアンの従姉妹だった」、しかも、血の繋がりまである関係 « la cousine germaine » (少なくとも祖父母の一人を同じくする「本いとこ」同士)だったから、だというのである。

「事情に明るい本作の読者はご存じのように」と言っているが、全篇にわたってここで初めて明かされる。本筋にほとんど影響のないようにみえるが、読者からすれば驚愕の事実というか、唐突な話である。この事実は果たしてこの箇所で述べるためだけに設定されたものなのだろうか?

オデットとジュピアンはいわば平民の出自であるが、ブルジョワや貴族と懇意になることで、だいぶ怪しげではあるものの自分たちの意志で社会的地位の上昇を図った者たちと言える。一方、次世代のジルベルトとジュピアンの姪は、前の世代に比べるとたやすく貴族と姻戚関係を持つ(ジュピアンの姪についてはほとんど「棚からぼた餅」か)。このあたりの関係や地位の変化を浮き彫りにするために、作者はオデットとジュピアンとを血縁のいとこ同士としたうえで、物語を遡って何か伏線を加えようとでもしていたのだろうか。

物語が《消え去ったアルベルチーヌ》まで進むと、コンブレーでの散歩道と同様、一見まったく交わりのない「スワン家のほう」と「ゲルマントのほう」との人間関係が、交わらないどころか「はしばみの木にからむ、すいかずらのごとく」(マリー・ド・フランス)絡み合っていく様子が明らかになってくる。プルーストのことだから、こういった小説構造にかかわりのある加筆を企て、結局は行われなかったものの、ひとまず「本いとこ」の設定をここに付してみたのかもしれない。

ちなみに、シャルリュス男爵談によれば、オデットには妹もいるらしい。

〔参考〕
  • プルースト『失われた時を求めて 12 消え去ったアルベルチーヌ』吉川一義訳(岩波文庫)