2020/02/29

ラ・ロシュフコー『マクシム』 (2)

ラ・ロシュフコーの翻訳

(翻訳において)いたずらに見慣れないことばを用いたり、自分だけにしか通用しない造語を用いることはよくないが、いいかげんに平凡な日本の慣用語を用いて、くだけた練れた訳文だと自負することもよくない。なんと言っても日本語本来の語彙だけでは(仏教用語でもかりないことには)、モラリストの思想は完全に翻訳できない。
(関根秀雄)

ラ・ロシュフコーの『マクシム』には、多くの翻訳がある。私には、1998年にリクエスト復刊で出た白水社の『ラ・ロシュフコー 格言集』がたいへん良い(もともとは1949年、1962年に出版されたもの)。ラ・ロシュフコーの肉声に最も迫っているように感じられる。単にフランス文学の翻訳家であるというだけでなく、国文・漢籍の教養を背景にしつつ(*1)、モンテーニュを中心に一貫してモラリスト文学を研究した人としての言葉選びには、すぐれた的確さや趣きがあると思う。

(*1) 訳者関根秀雄の父は高名な国文学者、関根正直(1860-1932)。

それぞれの格言に、解説や比較参照のできるほかの格言の番号が付いていたり、モンテーニュやパスカル、とりわけヴォーヴナルグ、ラ・ブリュイエールら、ほかのモラリストの言葉との類似対照が付してあるところなどは、入門者にとても適切だと思う。

俳句や短歌のように、ラ・ロシュフコーの格言を一つ一つ読むかぎりでは、その切れ味や妙味に感心でき堪能することができるし、その言葉に常識や普遍性も多く汲み取れる。ただ、これを番号順にひたすら読んでいると、次第に著者の狂気が垣間見えてきて、なにやら目眩いがしてくる(*2)。もし、500以上もある格言(これに著者没後に加えられたものや、著者自身が削ったものを含めれば600以上)をどうしても立て続けに読みたいのであれば、なおさら、訳者による導きあるいは一呼吸は、お節介であるより親切のように感じられる。モラリストの言葉をいかにして日本語に移し換えられるか、その苦労難儀もところどころで垣間見えるのも面白い。

(*2) 著者自身の狂気はさておき、ラ・ロシュフコーは理性に絶対的な信頼を置いておらず、むしろ(近代的な意味での)狂気なるものを肯定している節がある。「オネトム[教養ある紳士]は気ちがいのように恋をしてもよいが、ばかのように恋をしてはならぬ。」(格言353)

とはいえ、そのような仲介なしでひたすら読みたい、むしろラ・ロシュフコーの「狂気」とやらを拝んでやろうというのであれば、書誌的な情報も豊富な岩波文庫版であったり、最近刊行された講談社学術文庫版を繙かれるのがよいと思う。とくに後者は、ここに挙げたバージョンの中で最も読みやすい印象。あとがきも一読の価値がある(*3)

(*3) ラ・ロシュフコーは自愛・自己愛を繰り返し語っているものの、だからといって、それは決して人間の本性・自然なものではないということを解説している。「天性の残忍は自愛ほどに残忍な人間をつくらない。」(格言604)


〔参考〕『マクシム』の主な邦訳
  • 『ラ・ロシュフコー格言集』関根秀雄訳(白水社)
  • 『ラ・ロシュフコー箴言集』二宮フサ訳(岩波文庫)
  • ラ・ロシュフコー『箴言集』武藤剛史訳(講談社学術文庫)
  • ラ・ロシュフコー『運と気まぐれに支配される人たち ラ・ロシュフコー箴言集』吉川浩訳(角川文庫)
(つづき)ラ・ロシュフコー『マクシム』 (3)

『ラ・ロシュフコー格言集』関根秀雄訳(白水社)
François de La Rochefoucauld, Réflexions ou sentences et maximes morales, 1665

2020/02/22

ラ・ロシュフコー『マクシム』 (1)

ラ・ロシュフコーの一撃

ラ・ロシュフコーのマクシム(格言・箴言)は、われわれにとって心強い武器である。自分を取り巻く世界を正しく観察するための術にも、世の中の偽善や欺瞞、あるいは悪徳に対抗するための手段にさえにもなると思う。ラ・ロシュフコーの言葉それ自体、相手・敵の急所を一撃に突くことのできる力を秘めている。

だが一方で、これは、まさに言葉どおりの「諸刃の剣」にもなることも忘れてはいけない。相手・敵とは、必ずしも他者とは限らない。言うまでもなく、それは自分自身にもあたる。日々の暮らしで野放しにしている自己愛を筆頭に、高慢、虚栄、嫉妬、弱さなど、ラ・ロシュフコーは、他者だけでなくわれわれの心内にも容赦なく襲いかかってくる。人間観察の対象は、他者と自己との両方なのだ。
世の多くの人がだまされている、いな自分自身もよくだまされたがる、われわれの行為の奥底にもぐりこみかくれている利己心や打算が、そこ[ラ・ロシュフコーのマクシム]に小気味よくえぐり出され、はっきりと照明をあてられている。
(関根秀雄)

だから、仮に、今ここでラ・ロシュフコーの言葉を取り上げて、私がこれを笠に着て世の中の不正を批判してみたとしても、そして、それを読んで読者の溜飲を下げることができたとしても、両者とも決して第三者の立場から達観できるわけでも、特別待遇で何か免除されるわけでもない。批判の矛先は常にわれわれにも向けられ得るのである。ラ・ロシュフコーほど、そういうことをはっきりと意識させるモラリストはいないのではないかと思う。



『ラ・ロシュフコー格言集』関根秀雄訳(白水社)
François de La Rochefoucauld, Réflexions ou sentences et maximes morales, 1665

2020/02/15

シムノン『メグレと謎のピクピュス』(署名ピクピュス)

明日、午後五時、占い師を殺す。署名:ピクピュス。

8月、暑い盛りのある日、不動産会社に勤務するジョゼフ・マスクヴァンという男が、カフェでこの殺人予告を見つけたという。しかも彼は会社の金を横領したと警察に出頭してきたのである。

ピクピュスとは誰か? どの占い師のことか? 起こりそうもなく動機も見当たらないこの犯罪は何のためなのか? 馬鹿げていると思われるものの、メグレは敢えてパリ市中を警戒させる。彼は、きっと殺人が起こるだろうと予期するにいたる。実際、それは発生する。マドモアゼル・ジャンヌなる占い師が、自宅の私室で短刀で刺殺されたのだ。そして部屋の隣には鍵のかかった台所があり、そこにはこのような季節に外套を着た老人が、椅子に静かに座ったまま、閉じ込められていた。その老人、オクターヴ・ル・クロアゲンはただじっと待っている。彼は犯罪について何も見なかったようだが、事件のことを知りひっそりと涙する…(*1)

(*1) 原語版ペーパーバックの作品紹介文に少し脚色をして書いた。 

例に漏れず、この犯罪にも金銭が絡んでくるのだが、次のような台詞を吐くほどに、メグレの目には異常な事態として映る。「それでもやはり、私の刑事生活のなかで、金への執着がこれほど極限までに押し進められ、これほど卑劣な振る舞いに及んだのを目の当たりにしたのは、今回が初めてです…」そして、一見突拍子もない物語設定には喜劇的な様相が幾分見られるものの、根底には救いがたい人間の業による悲劇もまた潜んでいる。これをつぶさに観察してきたメグレは呆れ、憤慨し、憐れむのだった。「愚かすぎる! まったく誰も彼も愚かすぎる… (…) とはいえ、彼らがそれほど愚かでなかったら、警察など要らないだろうが…」

犯罪の裏には、殺人に至る直接的な動機と、そもそもそれを惹き起こした事実とがある。小説の後半、まず最初に後者、隠された事実については、関係者が一堂に会してその真実が明るみに出るのだが(いわばミステリー小説の常套)、前者、つまりなぜ殺人が起こったのかについては、そのような場は設けられない。読者の眼前には、タクシーの後部座席に沈み込んで目を瞑っているメグレの姿がある。彼の心中の想像なのかそれとも回想なのかがはっきりしない形で、事件の経緯が語られるのである。このような表現の仕方は、小説だからこそ効果が出るのではないかと思う(*2)。

(*2) 翻案のテレビドラマ(ジャン・リシャール主演版、ブリュノ・クレメール主演版)では、いずれもメグレが実際に誰かしらと会話するなかで、殺人事件の全容が明らかになる。翻ってみれば、そのあたりの工夫具合がドラマならではの楽しみとも言える。

〔余談〕
  • ピクピュス Picpus はパリ南東(12区)にある地区 quartier の名称。ヴァンセンヌの森に隣接している。小説の筋にはほとんど関係がない。
〔参考〕書誌情報
  • 1941年6月、フランス西部大西洋岸沿い、ヴァンデ地方のフォントネー=ル=コントにあるテール=ヌーヴ城館で執筆(シムノンはこのシャトーに1940年から2年ほど居を構えていた)。
  • 初出:日刊紙「パリ・ソワール」に1941年12月11日から翌1月21日まで、『署名ピクピュス、もしくはメグレの激怒』のタイトルで連載。
  • 初版:1944年ガリマール書店より。1944年1月5日印刷。
  • 発行:『署名ピクピュス』のタイトルで、本作と『死体刑事』『フェリシーはそこにいる』『異国風短編集』を含んだ作品集として刊行。
〔参考〕

〔同じ作家の作品〕


ジョルジュ・シムノン『メグレと謎のピクピュス』長島良三訳
(光文社「EQ」1983年7月号)
Georges Simenon, Signé Picpus, Gallimard, 1944