ぼくたちが出発したとき、ぼくはマストを取り替えましたよと言った。最後の鳶 milan を見たのはアレキサンドリアを出発した時だった、父はフェルトの球帽をかぶっていたっけ、そして手で触れてみると壁は崩れ落ちた。 (p.221)
原題は« Passage de Milan » 。「ミラノ通り」の上空に「トビ(鳶)の渡り」の影が射す。ビュトールの文壇デビュー作であり、『時間割』や『心変わり』の登場を予告する小説である。
小説の構成をXY座標で表してみると......
- X軸:時間軸。午後7時から午前7時までの12時間。これに合わせた12章の構成。1時間ごとの出来事、登場人物の言葉・心のうちが語られる。
- Y軸:垂直方向の空間軸。7階建ての建物。フランスの都会に一般的なアパルトマンと思われる。複数の世帯が同じ屋根の下で暮らす。
X軸は小説のプロットにじかに関わるので詳述しない。Y軸上の分布、つまり階層ごとに登場する人物を点描してみると......
- 7階:このアパルトマンで働く女中や使用人の部屋(フィリス夫人、シャルロット・トゥナン、ジェルトリュード、引退したエリザベート・メルカディエ)。モーニュ家の兄弟で学生のヴァンサンとジェラールも、この階で寝起きする。ルイ・レキュイエ。
- 6階:ドゥ・ヴェール家。画家のマルタンとその妻リュシー。夫婦には小さな子供が3人いる。ガストン・ムールが下宿人として間借りする。
- 5階:ヴェルティーグ家。ブルジョワジー。レオンとリディ、その娘アンジェールが住む。アンジェールが20歳を迎えるにあたり、今夜誕生日パーティが開かれる。多くの招待客。ベネディクト、クララ、ギュスターヴ、フィリップ、マクシム、アンリ・ドゥレタン...、さまざまな名前。招待客の中には同じアパルトマンの住人(モーニュ家の兄弟姉妹、4階のアンリエット・ルデュ、ルイ・レキュイエ)も数人含まれる。
- 4階:真ん中の階。富裕なユダヤ人でエジプト愛好家のサミュエル・レオナールが住む。彼の家には姪?のアンリエット・ルデュと、謎のエジプト人少年アーメッドが同居する。ここにも数名の招待客がやって来る。
- 3階:モーニュ家。三世代の大家族だが5階と同様にそれなりに裕福とみられる。夫フレデリックと妻ジュリーのあいだには5人の子供。ヴァンサン、ジェラール、フェリックス、ヴィオラ、マルティーヌ。三男のフェリックスがこの兄弟姉妹の末っ子かと思われる。フレデリックの父ポール・モーニュ、ジュリーの母マリー・メレダ。
- 2階:ラロン家。兄弟の神父ジャンとアレクシス、彼らの母ヴィルジニーの家。孤児ルイ・レキュイエは神父たちの従弟で、この家の世話になっている。
- 1階:アパルトマンの出入り口。ゴドフロワとエレオノールのプーレ夫妻は住み込みの管理人。
小説にはこのように数多くの人物が登場するが、彼らの心理や行動を断片的にデッサンするだけの内容ではなく、さまざまな暗示や象徴が接ぎ木となり、次第に「何か」が明るみになっていく。同じような手法は、後のビュトール小説でもみることができる。
作者は意図的に、語り手の主語をゆるがせる。唐突に「あなたは」と呼びかけてくることもあれば、三人称だけで叙述を運び、具体的に誰の内心なのかは、前後の文脈を探らないと分からないこともある。しかし、特異な状況に置かれているわけでも、瞠目すべき人物が現れるわけでもない。一見変哲もない小説世界になじむため、はじめの1、2時間は根気を要する。
〔蛇足〕
- Dictionnaire BUTOR :ビュトール事典 (フランス語):日本語翻訳者の名前が事典項目にあるだけでなく、ビュトールが2008年に来日し、日仏学院や立教大学で講演したことなども掲載されている。
- ビュトール『即興演奏』清水徹・福田育弘訳(河出書房新社), p.71-87 :著者自身による作品解説あり。
ミシェル・ビュトール『ミラノ通り』松崎芳隆訳 (竹内書店)
Michel Butor, Passage de Milan, 1954