2023/10/17

シムノン『罰せられざる罪』

(小説のイントロダクション)
1926年、日に日に寒さが厳しくなる時季のリエージュ。この町の大学に通う留学生エリ・ヴァスコヴは、ランジュ夫人の家に下宿している。ランジュ夫人は戦争で夫をなくし、娘のルイーズと二人きりだが、生活のためにエリをはじめ外国人の学生を家に受け入れている。エリは下宿代を安くしてもらう代わりにランジュ夫人の家事を手伝ったりするものの、夫人との会話はいつも素っ気なく、できるだけ人との関わりを避けているように見える。ほかの下宿人と親しく交わろうとすることもない。

だが、ランジュ夫人の家の台所は、いつもストーヴの火が燃えており、彼にとって何よりもの「隅っこ coin」、唯一安らぎを与えてくれる居場所であった。エリの孤独な振る舞いに眉をひそめつつも彼のことを家族のように気にかける夫人、そして彼の醜い容貌(本人はそう思い込んでいる)にも嫌悪することなく接してくれるルイーズ。

出身地ヴィルナ(ヴィリニュス、現在のリトアニアの首都)はリエージュよりも寒さが厳しく、また兄弟姉妹の多い貧しい家庭のなかで、温かい場所もなく母親の愛情を感じることもなく育ったエリにとって、夕食後の彼女たちのいる台所で、会話もほとんど交わされることなく静かに過ごす一時は、これからも毎日訪れてほしいと願うほどに大切であった。

だが、そんなささやかな、誰にも気づかれないひそかな幸せは、金持ちのルーマニア人留学生ミシェル・ゾグラフィがこの家にやってきたことで失われようとしていた......

オランダ語版の表紙(ディック・ブルーナによる装丁)

***

リエージュは作者の生まれ育った町。シムノンの家では外国から来た学生を多く下宿させていたという。もしかしたら、その中には実際にエリ Elie という名前で、ヴィルナ出身のユダヤ系ポーランド人がいたのかもしれない。エリがつかの間の温もりを感じる場面、心理描写は、故郷を離れて孤独に学業に励む学生たちの姿に共感したものなのか、あるいは母との間でわだかまりがあった作者自身の心情を反映したものなのか。

本作は大きく二部に分かれている。1926年のリエージュと、26年後の米国アリゾナ州に位置する架空の鉱山町。寒さの厳しいヨーロッパの冬と、砂漠の町の夏。主人公エリ自身もリエージュ時代とアリゾナに来てからでは、随分と外見や心持ちが変わる。しかし、ある出来事をきっかけに、エリの心中は1926年のリエージュに連れ戻される。しかも彼は、それがいつか起こり得ると心のどこかで予期していたようだ。だが、その結末は果たして、彼が漠然と抱いていたイメージのとおりに進むのだろうか?......


ジョルジュ・シムノン『罰せられざる罪』
Georges Simenon, Crime impuni, 1954

2023/09/09

シムノン『妻は二度死ぬ』

シムノンが最後に書いた「運命の小説」。

(小説のイントロダクション)
宝飾デザイナーのジョルジュ・セルランはアトリエで仕事をしているときに警察官の訪問を受ける。妻のアネットが交通事故に遭い亡くなったという報せであった。アネットと結婚してからの二十年間、好きな仕事で成功し愛する家族をもち幸せに暮らしていたはずのセルランは、突然の事態に際限のない悲しみにくれる。妻の面影を追い続けるなか、セルランはふと、自分はまちがいなくアネットを愛し幸せだったが、彼女のほうはセルランを愛していたのだろうか、彼と家庭を築いて本当に幸せだったのだろうか、という疑問が湧く。これまで思い出すことのなかった過去の出来事がさまざまに脳裡をかすめ、その疑念はますます増幅する。「ひとつの思いが......、二十年もいっしょに暮らしていながら、アネットのことが何もわかっていなかった......、その思いが鋭くセルランの胸をえぐりはじめる。」 やがて、それまで目を背けていた事実──アネットはなぜそんな場所にいたのか、普段行くはずもないところでトラックに轢かれたのか──に、セルランは向き合うことになる。

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日々の暮らしにすっかり馴染んでしまうと、夫であれ妻であれ、パートナーについて改めて考えることなど億劫になってしまう。けれども、何かふとしたきっかけで今まで知らなかった側面を知り、突如相手が別人にみえたりすることはないだろうか? そのような時、長年付き添っているにもかかわらず、パートナーほど不可解な存在はないのではないか。セルランを襲った出来事は、殺人などよりよっぽど、実際の生活のなかで誰にでも遭遇しそうな事態かもしれない。

原題の «Les Innocents» は、辞書の通りに訳せば「無実の人々」「純真無垢な人々」「お人好しども」などになる。セルラン一人であれば、確かに彼はお人好しだったかもしれないが、タイトルでは複数形になっている。セルランとアネットの子供たちも含まれるのかもしれない。秘密を何も知らなかった人々、という解釈でよいだろうか?

もし途中の第5章で物語が終わっていたとしたら、謎は解明されないままでも、セルランは最愛の人の喪失から立ち直り、人生を再び歩み直せたかもしれない。妻が二度死んだという現実など知らずに過ごせたかもしれない。

***

1972年2月に本作が出版され、同年7月に『メグレ最後の事件』(メグレとシャルル氏)を出した後、シムノンは小説の執筆をやめてしまう。

〔参考〕


ジョルジュ・シムノン『妻は二度死ぬ』中井多津夫訳(晶文社)
Georges Simenon, Les Innocents, 1972

2023/08/12

シムノン『ちびっこ三人のいる通り』

 «La Rue aux trois poussins» (ちびっこ三人のいる通り)はシムノンが書いた短篇の一つ。第2次世界大戦中の1941年に «Gringoire» という週刊新聞に掲載された後、1963年に同作を表題にした短篇集に収録、出版された。

物語の冒頭、陽の光がまばゆく感じられる午前中、三人の小さい子どもが道端にしゃがみこんで遊んでいる様子が描かれる。「頭を下げ、お尻は空のほうにつきだし、脚を開いている。三羽のひよこが餌をついばんでいるよう。」歩道の水浸しになった敷石の隙間をほじくり返し、どうやら大運河の建設工事にいそしんでいるらしい。ところが、そのうちの一人ビロに、不気味な影が射して......

無邪気な子どもの一言が状況を一変させる、取り返しのつかない事態に追い込むといった話はほかの小説にもありそうだが、そこはやはりシムノン。衝撃的な破局とまではいかないまでも、陽射しが眩しいと感じていたのに急に翳り、そのうち雨が降り出してくるといったような展開を予感させる。

〔収録篇〕

  • 「ちびっこ三人のいる通り」La Rue aux trois poussins 
  • 「《聖アントワーヌ号》の喜劇」Le Comique du « Saint-Antoine » 
  • 「メリーの夫」Le Mari de Mélie 
  • 「ヴァスコ号の船長」Le Capitaine du Vasco 
  • 「無愛想者の犯罪」Le Crime du Malgracieux 
  • 「キルケネスの医師」Le Docteur de Kirkenes 
  • 「オランダ人の足取り」La Piste du Hollandais 
  • 「《雌牛のしっぽ》農場の未婚姉妹」Les Demoiselles de Queue-de-Vache 
  • 「三度の赦祷を行なった朝」Le Matin des trois absoutes (*1)
  • 「《鏡付き衣装棚》号の沈没」Le Naufrage de « l’Armoire à glace » 
  • 「両手いっぱい」Les Mains pleines 
  • 「ニコラ」Nicolas 
  • 「アネットとブロンド髪の婦人」Annette et la Dame blonde 
  • 「フォンシーヌの喪」Le Deuil de Fonsine (*2)

(*1) 初出時の題名は「児童聖歌隊員の自転車」Le vélo de l'enfant de chœur 。
(*2) 短篇集『メグレとしっぽのない小豚』にも収録。


ジョルジュ・シムノン「ちびっこ三人のいる通り」
(短篇集『ちびっこ三人のいる通り』所収)
Georges Simenon, La rue aux trois poussins, 1963

2023/07/29

山上浩嗣『モンテーニュ入門講義』

有名な哲学者が世界や人間についてどのように考えをめぐらせたのか、それはとても興味深いことです。けれども、翻訳であれその著作を直接読んだみたところで難解な文章に面食らい、かえって理解が遠く及ばないことがよくあります。そのため私の場合は、つい入門書だとかダイジェストといったものを手にして、それでもって解かったつもりになって満足してしまうことが......

本書『モンテーニュ入門講義』でも、『エセー(随想録)』について懇切丁寧な解説や考察を読むことができます。『エセー』の主要な章から文章を豊富に引用して、死・教育・他者・友愛・政治・身体といったテーマを観点にモンテーニュの考えたこと、彼がそのように考えるにいたった時代背景、あるいは当時としては画期的・現代的ともいえる彼の見解について論じています。テーマとしてはオーソドックスな構成といえますが、『エセー』の最大の愛読者の一人であったパスカルの『パンセ』との関連や、モンテーニュの最高の友人であったラ・ボエシの『自発的隷従論(奴隷根性について)』との比較などは、著者ならではの特色であり、読みどころでもあると思います。

冒頭でも述べたように、これだけでモンテーニュを解かった気になってしまいそうです。とはいえ、それは著者の本意ではなく、この本に感心した読者はみな、いよいよ『エセー』を手に取るべきでしょう。多くの識者が言うように、『エセー』は何の予備知識がなくても読み始めることができる書物だと思います。一方で、全3巻全107章の浩瀚な書物であることも事実です。第1巻のはじめから読み始めたものの、この本がなぜ面白いのか・どこに魅力があるのかがつかめないうちに飽きてしまうとか、「『エセー』はどこから読み始めてもよい」という意見はあるものの、実際どこから読めばよいのかやはり迷う、という向きもあるのではないかと思います。私自身、初めて『エセー』を読んだときがそうでした。

そこで、本書で多く引用されたり、あるいは考察においてとくに重要視していると思われる『エセー』の代表的な章をいくつか並べてみたいと思います。題名は国書刊行会版にもとづいています。

  • 第1巻
    • 第14章「幸不幸の味わいは大部分我々がそれについて持つ考え方の如何によること」
    • 第20章「哲学するのはいかに死すべきかを学ぶためであること
    • 第23章「習慣のこと及びみだりに現行の法規をかえてはならないこと」
    • 第26章「子供の教育について
    • 第28章「友愛について
    • 第31章「カンニバルについて
  • 第2巻
    • 第12章「レーモン・スボン弁護」
    • 第17章「自惚れについて
    • 第37章「父子の類似について」
  • 第3巻
    • 第5章「ウェルギリウスの詩句について
    • 第6章「馬車について」
    • 第8章「話合いの作法について」
    • 第9章「すべて空なること
    • 第10章「自分の意志を節約すること
    • 第12章「人相について」
    • 第13章「経験について」

上記に加えて、第2巻第10章「書物について」と第3巻第3章「三つの交わりについて」も、初めてモンテーニュに接する方に興味深く読める章なのではないかと思います。また、著者がまえがきで触れているように、第3巻(全13章)から読むのも一手だと思います。そして「モンテーニュ、面白い人だな」と感じられたら、さっそく『エセー』最大の雄篇である第2巻第12章「レーモン・スボン弁護」にとりかかってみるのも良い気がします。あるいは章立てにこだわらず、本書が構成したように、人間性の評価とか性愛、病気、社交生活、あるいは政治観といった観点でもうしばらく概観的にアプローチしてみるのであれば、『新選モンテーニュ随想録』(関根秀雄訳、白水社)などもおすすめです。

〔参考〕


山上浩嗣『モンテーニュ入門講義』(ちくま学芸文庫)

2023/07/22

シムノン『新しい人生』

ずっと前から、彼は何か破局が起こることを予想していた。それも、ちょうどこんな瞬間に生ずる破局を予想していた。

(小説のイントロダクション)
モーリス・デュドンは長年同じアパルトマンの一室に独りで暮らしている。一人の友人もなく、今だかつて一人の恋人もなく、誰も彼の部屋に入ったことがない。食事も外でとらない。勤め先から離れているパリ14区のサン=ゴダール通り沿いに住んでいるのは、目の前が鉄道の線路で、向かい側の住民と顔を突き合わせるということがないからであろう。

デュドンはマラール氏の会社で経理をしているのだが、毎週金曜日、帳簿をごまかして1,000フランから2,000フラン盗んでいる。その金を持ってショロン通りにある娼館に行く。そして、その後彼は教会に寄る。金に困っているわけでもなく、強い欲望に取り憑かれているわけでもないようだ。彼は罪を犯し続け、その罪が暴かれて罰を受けることを待ち望んでいるのだろうか? それは、カトリック信者として敬虔であれという口実のもと、母親に抑圧的に育てられたことが原因なのだろうか?

そして、金曜日。いつものようにマダム・ジェルメーヌのところへ行った後、建物から出てまもなく、デュドンは車に轢かれて瀕死の重傷を負う。「毎週金曜日、ショロン通りを離れるときには、いつも告解をする習慣だったのに、今度は運悪く、そうするひまがなかった。彼は罪にまみれていた。罪でべとべとに汚れているような気持ちだった。」一方でデュドンは、これこそが待ち望んでいた「破局」かもしれないと考えつつ、病院に運び込まれる。意識が戻ったとき、病室には彼を看護するアンヌ・マリーがいた。

オランダ語版の表紙(ディック・ブルーナによる装丁)

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自分は罪で穢れている──『伯母のジャンヌ』や『ベティー』の主人公たちと同じように、デュドンもそのような意識を抱いているように見える。キリスト教という原罪の宗教を信奉してきた人々にとって、信仰を失った現代においてもなお深く根付いた心性として贖罪の意識は拭いきれないということなのか?

しかし、デュドンが抱く罪の意識は、もっと個人的な感情に由来しているようだ。彼の父親は酒に溺れ家を捨て、挙句に情婦のかたわらで自殺をしてしまった。そのために苦労を強いられた母親は、死後も夫の「罪」を責め立てた上、何の責任もないはずの息子に対してもこんなことを口にする:「おまえは、お父さんとおんなじようになって、告解もしないで死ぬんだわ!」

わざと「罪」を犯しその度に神父への告白をするという行為を繰り返すのは、デュドンに呪いをかけた母親への復讐なのだろうか? そして、彼が「罪」とすることを何のためらいもなく、何ら罪悪など感じることもなく犯し続けるアンヌ・マリーに出会い、デュドンはその呪縛から解かれた新たな人生、新しいかのような暮らしを始められると考えたのだろうか? 

〔参考〕

ジョルジュ・シムノン『新しい人生』粟津則雄・今井裕訳(集英社)
Georges Simenon, Une vie comme neuve, 1951