2018/08/12

佐野仁美『ドビュッシーに魅せられた日本人』

ドビュッシーだけでなくラヴェルやサン=サーンス、フランク、さらにはイベールにルーセル… 関心の高い作曲家の名ばかりが当然のように次々と出てくるので、読んでいて本当に楽しかった。

かつて、多くの日本人音楽家にとって、延いては聴衆にとっても、ドビュッシーが特別な存在であったことが垣間見えたし、受容の面ではその影響は今も脈々と続いていると感じる。20世紀の前半、西欧音楽に触れ、新しい日本の音楽を模索していたパイオニアたちにとって、ドビュッシー、そしてラヴェルは同時代に生きる憧れの芸術家たちであったことがよく分かる。

サン=サーンスもわりと早くから日本で聞かれ始めていたようだ(1893年/明治26年)。著作の一部が、死後4年という早い段階(1925年/大正14年)で翻訳されたのも、国内にすでにある程度受容の下地ができていたからなのだと納得。さらに「へぇ」と思ったのが、早坂文雄が昭和初期にサティを(東京ではなく)札幌で演奏したという事実。秋山邦晴や高橋アキよりさらに先駆けがいたのかとびっくり。よく楽譜が手に入ったものだ。


佐野仁美『ドビュッシーに魅せられた日本人 ─ フランス印象派音楽と近代日本』
(昭和堂)

2018/07/14

育児休業のとき

育児休業は思った以上に忙しかった。もっと精確に言えば、まとまった空き時間がとれない。

家事や子どもの面倒のかたわら、普段よりも本が読めるだろうとなどと思っていたのだが、読みが甘かった。ちょうど子どもがハイハイをするようになった時期で、目が離せなくなったのだ。いつもはおもちゃで大人しく遊んでいるものの、それに飽きると「侵攻」が始まる。柵を越え、部屋を渡り、机の下にもぐり、台所にやってきて…。落ち着いて食事の支度もできない。ときおり立っちも試みているから、歩き出すのも時間の問題だ。そうなれば、まさに「留まることを知らない」事態と化すだろう。

だから、仕事やいつもの家事のように、ここまでやったらから一服、ちょっと一休みが、ままならない。それに、赤ん坊もいつも同じ時間に寝るとは限らない。気分が良くて、午後になっても眠くならずに動き回っていることもままある。眠ったかと思えば、一時間も経たないうちに目がパチっと開いたりもする。いつも同じ時間におしっことうんちをするわけではないから、時折お尻をチェックをしてはオムツを替えてやる。

そのうちに、たまに時間が空いても、じゃあ本でも読もうなどと思う前に、家事育児で今のうちにやれることはないだろうかとつい考えるようになり。離乳食の準備、夕食の支度、普段より大掛かりな掃除、エトセテラエトセテラ...。それらをある程度やり終えて、今度こそ自由時間だとソファにどっかと座った途端、寝室のほうから赤ん坊の泣き声が聞こえてくるのだった。

外出するのも一仕事。自分の体を運ぶだけであれば、鍵をもって玄関まで数秒かもしれないが、小さい子を連れて行くときにはそれなりの支度が必要で、ある程度の段取りも踏まなくてはいけない。外套を着せて靴下を履かせ(靴下は嫌いだから隙あらばひっぱって脱いでしまう)、玄関には迎車ならぬ乳母車を控えさせ(ベビーカーでないときは抱っこひもを使う)。少し遠出であれば、いざというときのためのミルクセット(粉末とお湯と湯冷まし)、オムツやお尻拭き、ガーゼやタオルも事前に準備しておき。さあ、これで出かけられると思いきや、自分自身の支度がおろそかなことになっていて、お財布はどこだ、鍵はどこだと、あれやこれやと家中をかけめぐることもしばしば。

育児はまさにジェットコースター。こんな大変な「業務」、一人だけでやるのは本当にしんどい...

***

これは以前、仕事に復帰する妻とバトンタッチして育児休業を取ったときに書いたものに、いくらか手を加えたもの。当時の「私」が、子育てのごく当たり前のことを偉そうに分析しているのが何だか面白い。今から顧みると、子供と二人で近所を花見しながら散歩したとか、楽しかったこともいろいろあったのだけど、そのときは「大変さ」のほうがまさっていたのだなあと思う。

2018/07/07

短篇のメグレ

メグレ・シリーズといえば大半が長篇だが、短篇もある。長篇の方は、これはちょっと手を抜いているなと思う作品がたまに見られるなか、短篇については、どれも秀作揃いだと思う。

メグレの短篇は28篇を数える。そのうち、以下の短編集で22篇が翻訳で読むことができる。
  1. 『メグレ夫人の恋人』(角川文庫)
  2. 『メグレの退職旅行』(角川文庫)
  3. 『メグレ警視のクリスマス』(講談社文庫)
  4. 『メグレと無愛想な刑事』(ハヤカワ・ポケット・ミステリ)

例によって軒並み絶版状態であるけれど、多くは町の図書館に所蔵されていたり、古本で容易く手にすることができる。上記最初の3冊は、電子書籍でも刊行されている。

さらに『メグレ警視 世界の名探偵コレクション10』(集英社文庫)と『ディナーで殺人を 下』(創元推理文庫)を開けば、メグレもの3篇(「メグレとグラン・カフェの常連」と「街中の男」、「競売前夜」)を読むことができる。残りの3篇(「メグレと消えたミニアチュア」「メグレと消えたオーエン氏」「死の脅迫状」)については、翻訳は出ているものの、これらはミステリー雑誌に掲載されたきりのようだ。

もう一つ。本来はメグレが登場しないのだが、メグレものとして翻訳されているものに、「メグレとパリの通り魔」というのがあり(原題は« Sept petites croix dans un carnet » 手帳のなかの七つの小さな十字印)、偕成社文庫の『メグレ警視の事件簿 2』に収められている。メグレであるなしにかかわらず、名作に数えてもよい逸品だと思う。

〔メグレ短篇作品一覧〕 原語版の短編集にもとづいて
  • 『メグレの新しい事件簿』Les Nouvelles Enquêtes de Maigret, 1944
    • 首吊り船 (La Péniche aux deux pendus)
    • ボーマルシェ大通りの事件 (L'Affaire du boulevard Beaumarchais)
    • 開いた窓 (La Fenêtre ouverte)
    • 月曜日の男 (Monsieur Lundi)
    • 停車 ─ 五十一分間 (Jeumont, cinquante et une minutes)
    • 死刑 (Peine de mort)
    • 蝋のしずく (Les Larmes bougie)
    • ピガール通り (Rue Pigalle)
    • メグレの失敗 (Une erreur de Maigret)
    • メグレ夫人の恋人 (L'Amoureux de Madame Maigret)
    • バイユーの老婦人 (La Vieille dame de Bayeux)
    • メグレと溺死人の宿 (L'Auberge aux noyes)
    • 殺し屋スタン (Stan le tueur)
    • ホテル北極星 (L'Etoile du Nord)
    • メグレの退職旅行 (Tempete sur la Manche)
    • マドモワゼル・ベルトとその恋人 (Mlle Berthe et son amant)
    • メグレと消えたミニアチュア (Le Notaire de Châteauneuf)
    • メグレと消えたオーエン氏 (L'Improbable Monsieur Owen)
    • メグレとグラン・カフェの常連 (Ceux du Grand-Café)
    • 死の脅迫状 (Menaces de mort)
  • 『メグレ激怒する』Maigret se fâche, 1947
    • メグレのパイプ (La Pipe de Maigret)
  • 『メグレと無愛想な刑事』Maigret et l'Inspecteur malgracieux, 1947
    • メグレと無愛想(マルグラシウ)な刑事 (Maigret et l'inspecteur Malgracieux)
    • 児童聖歌隊員の証言 (Le Témoignage de l'enfant de choeur)
    • 世界一ねばった客 (Le client le plus obstiné du monde)
    • 誰も哀れな男を殺しはしない (On ne tue pas les pauvres types)
  • 『メグレとしっぽのない小豚』Maigret et les Petits Cochons sans queue, 1950
    • 街中の男 (L'homme dans la rue)
    • 競売の前夜 (Vente à la bougie)
  • 『メグレのクリスマス』Un Noël de Maigret, 1951
    • メグレ警視のクリスマス (Un Noël de Maigret)
    • メグレとパリの通り魔 (Sept petites croix dans un carnet)


2018/06/30

『失われた時を求めて』の翻訳あれこれ

『失われた時を求めて』には複数の翻訳バージョンがある。読書の快楽を求めるのであれば、自分の好みに合わせてどれを選んでも良いと思う。訳者が作家的感性で吟味して丹念に紡いだ日本語で小説を味わいたいとか、長大な小説世界を平明な文章で駆け抜けてみたいとか。

もし、読書の快楽に終始せず、フランス語に疎くても、プルーストが小説に込めた秘義というか真髄のようなものにもっと近づきたい、研究者的好奇心も追ってみたいのなら、岩波文庫版(吉川一義訳)を手にするのが最良だと思う。適切な注釈に秀逸な読書ガイド、豊富な図版にみる史料価値の高さ。翻訳それ自体も、とても野心的だと思う。日本語としての読みやすさを保ちつつ原文の語順を尊重するという試み。例としても挙げられている「コンブレー」での鈴の音とか、雨が降り出してくる情景などは、ほかの訳文よりも情景が鮮やかに浮かんでくる。

あくまで推測だが、小説好きのディレッタントには、岩波文庫版の日本語は少々味気ないのかもしれない。原文に忠実なあまり(決して直訳ではないのだけど)、説明的に感じられる一方、筑摩書房版や光文社版のほうが、より文学的で詩的な薫りが高いと感じるのではないだろうか。後者の翻訳者たちは、研究者である以前に若い頃に作家志望だった人々なのかもしれない。自分の作家魂をプルーストの小説に仮託している、訳文からそのような印象を受ける。一方、岩波文庫版は、あくまで研究者による翻訳で、プルーストの態度に忠実であろうとする評論家的あるいはモラリスト調の文体に近い翻訳という印象がある。

***

つい岩波文庫版をひいきにしてしまうのは、市民講座で、訳者である吉川一義さんのお話を実際にうかがったことがあるからかもしれない。謙虚で実直なお人柄と感じる(プルースト研究の世界的権威をつかまえて、こんな物言いは失礼ですが…)。愛読書はモンテーニュの『随想録』だとおっしゃっていた。学生時代に集英社版(鈴木道彦訳)で初めて通読した『失われた時を求めて』の長い長い旅程を、今は吉川一義さんの導きで改めてたどっているところである。


〔参考〕
  • 井上究一郎訳 『失われた時を求めて』筑摩書房/ちくま文庫
  • 鈴木道彦訳 『失われた時を求めて』集英社/集英社文庫
  • 高遠弘美訳 『失われた時を求めて』光文社古典新訳文庫(刊行中)
  • 吉川一義訳 『失われた時を求めて』岩波文庫(刊行中)

2018/06/09

ラシーヌ『フェードル』

『失われた時を求めて』を読んでいると、多くの文学作品に出くわす。詩・小説・演劇、あるいは聖書の一節から引用するだけにとどまらず、作家論にまで発展したり、なかにはベルゴットという、この小説世界だけの架空の文豪まで登場したりする。ちなみに小説中では、音楽や絵画でも同じような現象がみられる。

その中でもジャン・ラシーヌ、特に『フェードル』の悲劇は、『失われた時を求めて』の語り手にとって一際思い入れの強い作品で、ほぼ全篇に渡って登場する。(同じくラシーヌの『エステル』も、語り手が何度も言及する史劇。) 

若い頃(小説の前半)は、憧れの女優ラ・ベルマがそのまま悲劇のヒロイン・フェードルと重なり合いつつ、夢想の中での熱烈な賛美、実際に観劇したさいに味わう容赦ない幻滅、そして精神の探求を経て再び高揚する称讃の思いが、つづられてゆく。

特に彼の幻滅ぶりは面白い(第二篇《花咲く乙女たちの蔭に》前半部分参照)。小説の構成にとっても、あらゆる場面で行われる【期待→幻滅→再評価】プロセスの、最も典型的なサンプルではないかと。否、もしかしたら、このプロセスを体系的に語った最初の作家がプルーストなのかもしれない? ちなみに最終篇になると、ラ・ベルマの姿は、かつて友人の愛人であったラシェルという人物に移り代わっている。

作品あるいは作家の芸術性はともかく、語り手がなぜこれほどまでにラシーヌ悲劇を愛してやまないのかは、正直良く分からない。私たちが能楽や歌舞伎を大事に思う心性に通じるものがあるのだろうか。

〔画像〕レオン・バクストによる衣装デザイン
ジャン・ラシーヌ 『フェードル アンドロマック』
渡辺守章訳 (岩波文庫)
Jean Racine, Phèdre (1677)

2018/05/26

私流シムノンの歩き方

シムノンの小説を読みたいときは、まず町の図書館に行く。といっても、書棚に並んでいることはほとんどない。端末で検索して、書庫から出してもらうように頼む。たいてい年季の入った本を渡される。システム化される前に利用されていた紙の貸出表が付されたままの本もある。日付のスタンプがわりと短い間に押されているのをみると、メグレ・シリーズばかりだが、シムノンも以前はさかんに読まれていたのだと分かる。
読みたい小説が町の図書館に所蔵されていない場合は、地域の別の図書館から取り寄せてもらう。それでも、見つからないことが多い。今の場所に引っ越す前まで隣りの地域に住んでいた。そちらの図書館は、比較的所蔵数が多かったり古いものもよく保管しているのか、目当てのシムノンが置いてある確率が上がる。そこで、ときどき隣りまで足を伸ばす。

残念ながら、そちらでも所蔵していない場合、それでも読んでみたいときは、仕方なく?古本を購う。今のところ高価なものには手を出していないが、集英社のシムノン選集全巻には我ながら少々奮発した。もう一つ。メグレものがいくつか電子書籍化されている。これもシムノンを読むための貴重な手立て。それでもない場合、あるいはそもそも邦訳すらない場合、その時はいよいよ観念して?フランス語で読むことにする。ちなみにシムノンはほぼ英訳されているらしい。
そんなふうにしてこの十年、シムノンの小説を60冊以上読んできた。たいていは図書館で借りてきた。そのうち、個人的に手元に欲しいと思った作品、『離愁』とか『仕立て屋の恋』などは、読んだ後にわざわざ古本を買ったりもした。いずれにしても、シムノンの小説はあらかた絶版状態。数年前まで、河出書房が「シムノン本格小説選」と銘打って何冊か精力的に出版されたが、翻訳家の長島良三さんが亡くなってからは続いていない。三年ほど前には論創社がメグレの新訳を出したが、その後続かず。

シムノン小説の新しい邦訳が再び出てほしいと密かに願いつつ、読んでいないメグレがまだまだあるので、これからも図書館通いは続く見込み。

〔画像〕古書で購入した集英社のシムノン選集。カバー挿画は宇野亞喜良氏。

2018/05/05

ユルスナール『とどめの一撃』

交された言葉を一語一語全部覚えていると言い張る人間がいる。そういう人間は嘘つきか誇張症患者と思われるのがつねだった。私の記憶に残るのは、虫に食われた文書のように、切れ切れの言葉か穴だらけの文章にすぎない。(p.100)

渦巻く情念の物語。工夫のない表現ではあるけれど、小説の印象として、どうしても「情念」という言葉がとり憑いてはなれない。

おもだった登場人物のうちの一人エリック・フォン・ローモンが語り手として小説は進行していくのだが、読者の目を釘付けにするのは彼の情念よりも、ソフィー・ド・ルヴァルの情念のほうだろう。情念が表立っては感知されず心のうちで焔立つものだとしたら、ソフィーのそれは、抑えきれずに外に表出してしまう情熱、あるいは熱狂であると言うべきかもしれない。エリックはむしろ沈着冷静であり続けようとするものの、意に反して心が掻き乱されているといった感がある。本人は自分で語るほどに自覚がない節があるけれど。

小説の舞台から次第に遠くに追いやられるコンラート、エリックの友人でありソフィーの弟である彼もまた、無視できない心の葛藤をうちに秘めている。もし、著者自身の序文がなかったら、コンラートが重要な役割を果たしていることに気づかなかったかもしれない。一人称形式を用いる以上、物語はある一人の観点から投映されるし、登場する人や物への関心の度合いも語り手の裁量次第である。そのため語り手は、小説中の現実(ディエジェーシス)を必ずしも「正しく映さない」可能性があるわけだ(架空の世界を表象するにあたって、正しい正しくないを云々するのは、そもそもおかしな話なのかもしれないが)。 そのようにして、コンラートはエリックによって遠ざけられるが、物語の外で ─小説を読む我々の意識のなかで─ コンラートの情念は渦巻く。ユルスナールはその一人称がもたらした「不正」を見事に操っているように思う。

〔蛇足〕
『とどめの一撃』は1976年にドイツの映画作家フォルカー・シュレンドルフ Volker Schlöndorff によって映像化された。シュレンドルフは文芸作品への関心が高く、ギュンター・グラスの長編小説『ブリキの太鼓』やプルーストの《スワン家の方へ》の後半「スワンの恋」、ミシェル・トゥルニエの『魔王』なども映画の源泉に求めている。

マルグリット・ユルスナール『とどめの一撃』
岩崎力訳(岩波文庫/白水社)
Marguerite Yourcenar, Le Coup de grâce (1939)

2018/04/29

デュラス/ポルト『マルグリット・デュラスの世界』

デュラスの作品は、彼女の中に満ちている眩暈、叫び、風が溢れ出たものだ。(...) デュラスの頭の中に潜み、外部に流れ出すのを待っていた愛・欲望・苦悩・恐怖が激化することによって起こる現象なのだ。(pp.41-42 脚注より)

本書がすばらしいのは、単にデュラスと彼女の信頼する映画作家とのインタビューが訳出されているということだけではない。豊富できめ細かい註釈が文中の下段で展開されるところに(この支線が本線と並走しているところに)、翻訳としても大きな魅力がある。

デュラスが言及する事柄には、作品のなかですでに「書かれていること」もあれば、これから「書かれようとしていること」ともつながっている。訳者は自身の見解も織り込みながら、これらを丹念に丹念に結びつける。例えば、デュラスが自身の映画作品について語っている最中、その詳細を補足することもあれば、すでに書かれた小説から照応する言葉を引用したりする。その補足や引用は過去だけではなく、未来ともリンクする。訳者は、後年行われたインタビュー集、小説や映画などの作品(筆頭は1984年の『愛人』だろうか)へのアプローチも怠らない。(この翻訳は1985年に刊行されたものだから、『北の愛人』や『エクリール』などに触れていないのは仕方がない。)前提が多く、やや抽象的な会話が交わされる中、訳者は読者を引率する。

***
家というものは、避難し、安心を求めに来る場所だと考えられているかもしれない。私は、家とは、そういったこと以外のことにもさらされている閉域だと思う。...ひとつの家の中には、組み入れられている家族に対する嫌悪感、逃げ出したいという欲求、自殺したくなるようなあらゆる気分がある。 (p.21)

『モデラート・カンタービレ』を読んだとき、デュラスの文章にふわふわと身を委ねていると、突如矢に射されるような危険を感じたのだが、この文に出くわしたとき、あのときの戦慄は決して気のせいではなかったのだと思う。デュラスは常に安穏と暮らしている「私」を狙っている。

***
私は、人々が何を出発点にしているのか知らない。物語を出発点にしているなんて、私には信じられない。できあがった、仕上げられた物語からなんて。そうでしょう、書く前から既に、はじまりも、真ん中も、お終いも、波瀾もある物語から出発するなんて、私は信じない。私は、自分がどこへ行くのか、決してよくわからない。もしわかっているなら、書かないでしょうね。だって、できあがっているんだから。できあがっているんだろうから。私にはわからない、既に探求され、調べ上げられ、記録された物語をどのようにして書けるものなのか。そんなことは、私には悲しいことのように感じられる。貧困とも言うべきね、…...要するに......おそらく同じエクリチュールではないということなのね。今のところ、私はどこかまちがっているのかもしれない  (pp.72-73)

作家が小説を書き始めるとき、さてこれから何を書こうとしているのか、あまつさえその結末も、まだ分かってはいないのではないかと思う。もしかしたら、書いた後でさえ分からない。ただ、それは構想とか輪郭が皆無なのだと言っているわけではなく、問題はエクリチュールなのではないか、と。

***
書くときに私が到達しようと努めているのは、おそらくその状態ね。外部の物音にじっと耳を澄ましている状態。ものを書く人たちはこんなふうに言う、 "書いているときは、集中しているものだ" って。私ならこう言うわ、 "そうではない、私は書いているとき、完全に放心しているような気がする、もう全く自分を抑えようとはしない、私自身、穴だらけになる、私の頭には穴があいている" と。(p.195)

デュラスは何かを書くとき、決して気負ったりはしない作家のようだ。そして、全篇を通して痛切に感じられるのは、頭のてっぺんから足の爪先まで、デュラスは「書く人」であり、書かなければ生きていけなかった人なのだということだ。

***

デュラスの場所。そこは家であり庭であり森であり海辺であったりするのだが、さらに彼女自身の小説であり映画自体も含まれる、などといったら撞着した言葉遊びに過ぎないだろうか。


〔画像〕ノルマンディーの町トゥルーヴィルにあるホテル「ロッシュ・ノワール」。


マルグリット・デュラス/ミシェル・ポルト『マルグリット・デュラスの世界』
舛田かおり訳 (青土社)
Marguerite Duras, Michelle Porte, Les Lieux de Marguerite Duras (1977)

2018/04/21

シムノン『ベベ・ドンジュの真相』

それにしても、自分の妻を赤ん坊 bébé と呼ぶなんて、なんと変わった思いつきなんだろう! 結婚して十年にもなるが、彼はどうしても、この妻の呼び名になじめなかった。といって、今更どうにもなるわけのものでもなかった。家の者たちは彼女をずっとそう呼んできたのだし、友だちも、世間の人たちまでそうだったのだから......。(p.10)
この一節だけを目にするなら、さして変哲もないことにみえる。自分の妻が「ベベ」と呼ばれている。まあ風変わりではあろうが、大して不審でもなければ、咎め立てするようなことも見当たらない。けれども、読者はその前に、次の一節から本書を読み始めている。「ほんの目に見えないような蚊が、ときには、大きな石が水溜まりに投げ込まれた時よりも、もっとはげしく水面をかき乱すことだってないとは限るまい。あのラ・シャテニュレ(*)での日曜日が、ちょうどそれだった。(p.7)」

これは一体どういうことなのだろう。もし、これに留意しつつページを慎重に繰ってゆくと、のどかな夏休みの描写に始まる序章は、とたんに疑わしいものとなり、やがて来る嵐の前の静けさのような様相を帯びてくる。そして、あっというまに「事件」の目撃者となったのち、私たちは、妻の真実、心の真相を徐々に解き明かしてゆく夫フランソワの(心の)旅に同伴することになる。やがて、フランソワの旅は、最終章の風変わりな、現実と非現実との境がとてもあいまいな夢の叙述によって終止符が打たれ、小説は一気に収束する...

(*) 小説中には「オルヌ地方のラ・シャテニュレの別荘...」(p.57)とあるので、ノルマンディ(フランス北西部オルヌ県 Orne )の片田舎ラ・シャテニュレ La Châtaigneraie のこと。ちなみに普通名詞の châtaigneraie は栗林のことで、これにちなんだ地名はフランス各地に点在する。

***

ジョルジュ・シムノンがが亡くなって来年は死後30年になる。シムノンは今や、同時代人の心の闇を鋭く描くというような局所的・限定的な存在ではなくて、現代世界のなかで文明のルールに従って生きなければならない人間(文明のルールに外れた途端、その人間は容赦なく糾弾される)の様相をさまざまな世代の観点で描いた、世界を代表する小説家の一人として時代を超えた存在ではないかと思う。


ジョルジュ・シムノン『ベベ・ドンジュの真相』
斉藤正直訳 (ハヤカワ・ミステリ)
Georges Simenon,  La vérité sur Bébe Donge (1943)

2018/04/14

コクトー『大胯びらき』

眼覚めの時、われわれの内部で思考するのは、動物であり、植物である。少しの虚飾もない、原始的な思考である。眼覚めの時、われわれは物を正しく見るが故に、一つの恐ろしい世界を見る。... (p.158)
小説では、主人公ジャック・フォレスチエの心理がつぶさに語られる。医学に擬した心理解剖というよりは、詩人の心理ルポルタージュといった趣き。

ところで、コクトーがその天才を愛してやまなかったレイモン・ラディゲ。その『肉体の悪魔』は、鋭く冷たいメスをもって恋愛心理を見事に解剖した傑作と謳われる。だが、小説の語り手が主人公自身(一人称)だからだろうか、客観的な心理分析が続くようでも、読者は主人公の熱情に共感し、あるいはその傲岸さに反感を抱くことができる。『肉体の悪魔』は多分に「熱い」小説だ。

一方、『大胯びらき』の語り手は、医者よりも、そしてマルヌ川のほとりに住む少年よりも冷酷だ。振幅の激しい心の動きはオンラインに目撃されるけれども、主人公の内心にひたと寄り添ったりすることがない。語り手の視線に従うならば、われわれ読者は七転八倒するジャックを眼前に、だがガラス越しで、ずっと観察し続けるかのようである。(とくに本書の第9章は圧巻だと思う。)両者の温度差はほんとうに人称の違いだけなのだろうか。
...少し経つと、知性がやって来て、われわれを技巧で一ぱいに満たす。知性は、人間が虚飾を隠すために発明した、けちな玩具を持って来る。(pp.158-159)

ジャン・コクトー『大胯びらき』澁澤龍彦訳(福武文庫)
Jean Cocteau,  Le Grand écart (1923)

2018/04/07

「静物」のもつ深い生命のなかに


エルスチールの水彩画を見てからというもの、私がふたたび現実のなかに見出そうと努め、どこかしら詩的なものとして好んだのは、ナイフが斜めに置かれたままで中断された仕草だったり、くしゃくしゃになったナプキンの丸く膨らんだところに陽の光が黄色いビロード片を加えていたり、飲み残しのグラスでは高貴に開いたその口の形がよく見えたり、陽の光が凝縮したように透明なガラス器の底に残るワインが暗くきらめいたりすることや、照明の具合でさまざまに容積が変動したり液体が変質したりすることや、なかば空になったコンポート鉢のなかでプラムが緑から青へ、青から金へと変化することや、古めかしい椅子が日に二度にわたり移動してテーブルクロスのまわりに腰を落ち着けたりすることであり、テーブルクロスが敷いてあるのは、あたかも大食の儀式が執りおこなわれる祭壇を想わせ、クロスの上に置かれた牡蠣の殻の底は、まるで石でできた小さな聖水盤で、そこに浄めの水が数滴残っていたりした。このように私が美を見出そうとしたのは、予想だにしなかったところ、もっと日常的な事物のなか、つまり「静物」のもつ深い生命のなかであった。
第二篇《花咲く乙女たちのかげに II》岩波文庫, p.488

息の長いこの一節は、もとはシャルダンの静物画『食器台 Le buffet 』を描写した文章で、これを再構成して小説に組み入れたものだという。そのことを、注釈で知ったとき、この美しい文章が、実際の食卓を眺めて感じた印象、つまり日常の観察から生まれた文章ではないものではなかったのだと多少幻滅したものの、日常的な事物、何気ない些細なところに美を見出すというプルーストの美学を強調するにふさわしい文章であることに変わりはない。

小説のなかではこの絵画への言及は省かれている。「小説の描写に背後に「隠された画」存在する典型例」である。作家は、この一節からシャルダンの絵画を読者に想起してもらおうとは期待していない。そうではなく、読者が各人なりのイメージを浮かび上がらせつつ(ある人は印象派絵画的な空気を、ある人は写真的な陰影を)、この文章をとっかかりにして、日常的な事物、「静物  natures mortes」の中に美を見出す楽しみないしは歓びに気づかせようとしているのかもしれない。

〔画像〕シャルダンの静物画『食器台』(油彩) 

2018/03/31

シムノン『猫』

暖炉では薪が燃えていた。肱掛椅子で編み物をしている妻の両手の動きと、編み針がときたま触れ合うかすかな音を除いては、この家で動くものは何もなく沈黙が垂れ込めている。
彼は小さく折りたたんだ紙片を妻の膝目がけてはじき飛ばした。それを拡げた妻の目に映った文字は〈ネコ〉。だが彼女の返事は剥製の〈おうむ〉をじっと見つめることだった。
(創元推理文庫版の冒頭紹介文より)

ジョルジュ・シムノンはたいへんな多作家で、四百以上の小説を書いて約四千万冊が売れたともいわれている。《メグレ警視》シリーズを筆頭とする推理小説の分野でよく知られているが、いわゆる「普通の」小説も書いており、いずれも高い評価を受けている。『猫』もその一つ。老年の悲劇が異様に、そして見事に描かれた作品で、迫真の筆致もさることながら、物語の構成にもシムノンの力量が伺える。

上掲の紹介文のように、小説はまず言葉をひとことも交わさない老夫婦のどこか異様な様子を映し出す。これは、ある「出来事」が済んでから四年後のこと。次いで、過去の思い出などが挿まれながらも、「出来事」の直前の時点にまでさかのぼり、そして実際に「出来事」が起こる。やがて物語は「出来事」自体よりも、「出来事」以後の夫婦の成り行きにスポットライトが当てられてゆく。終幕を迎えると、小説の中の時間は再び冒頭に戻る。遡及的な構成となっているのだ。

このような構成を採るのは小説として珍しいことではないが、『猫』ではさらに、もう一度冒頭の部分だけを読み返してみると、同じ文章なのに、初めに読んだときの印象とまったく逆転することにも気づかされる。

***

『猫』は1967年に出版され、その四年後にはジャン・ギャバンとシモーヌ・シニョレという往年の二大俳優を配して映画化された。日本では未公開なのだが、ぜひ観てみたい。

〔参考〕映画の予告編 @youtube

ジョルジュ・シムノン『猫』三輪秀彦訳 (創元推理文庫)
Georges Simenon, Le Chat (1967)

2018/03/24

クリスティ『青列車の秘密』

クリスティのポアロ・シリーズにはフランスを舞台にした作品がいくつかあって、『ゴルフ場殺人事件 Murder on the Links 』では地元のジロー警部とポアロの捜査対決がなかなか面白い。実際には空の上で事件が起こる『雲をつかむ死 Death in the Clouds 』もフランスの飛行場を飛び立ち、容疑者リストにはフランス人の名が多く連ねている。

『青列車の秘密 The Mystery of the Blue Train 』の場合はフランス国内を縦断する寝台列車が現場。カレーを出発しパリを経由、リヨンを経てニースへと至る豪華なブルートレインの中で殺人が起こる。こちらも事件解決にポアロが乗り出す。ちなみに、この作品が出てから6年後には名作『オリエント急行の殺人』が上梓されている。

ふだんからポアロは「ムッシュー Monsieur」「モナミ Mon ami」と呼びかけたり、「結構 Bon! 」「すばらしい Très bien! 」とフランス語を漏らすのだけど、この小説ではいつも以上にフランス語が登場するようだ。改めてページをめくり気づいた台詞を片っ端から挙げてみると... 

「例えばそれです(サ・パル・イグザンプル)Ça par exemple 」「確かにね(プレシゼマン) Précisément 」「現実的とは言えません(サ・ネ・パ・プラティク)Ça n'est pas pratique 」「彼女は思いやりがある(サンパティク) Sympathique 」「聞いたところでは(オン・マ・ディ)On m'a dit 」「言葉どおりに(オ・ピエ・ド・ラ・レトル) Au pied de la lettre 」「上の空(ディストレ) distrait 」「もちろん(ビアン・アンタンデュ)Bien entendu 」「何たることでしょう(ミル・トネル)Mille tonnerres! 」などなど。Voilà (ヴォワラ)や Mon Dieu (モン・ディウー)は、あいかわらず。

本当に自然な言い回しなのかはさておいて、端々にこれだけフランス語が出てくると、ポアロが改めてイギリス人ではなくフランス人、いやいやベルギー出身の探偵だということが分かる。作者自身はこの作品をあまり好んでいなかったそうで、なるほど素人目にも後半に多少冗長な部分が感じられたりはした。それでもフランス贔屓としては、加えて列車小説好きとしては、なかなか味わいのある逸品である。蛇足だが、作中にあの、「セント・メアリー・ミード村」が出てくる。

アガサ・クリスティー『青列車の秘密』
青木久恵訳 (ハヤカワ文庫)
Agatha Christie, The Mystery of the Blue Train (1928)
(Le Train bleu)

2018/03/17

シムノン『闇のオディッセー』

オデュッセウスはギリシャ神話の登場人物であると同時に、とくに、ギリシャの詩人ホメロスが歌った叙事詩『オデュッセイア』の主人公として有名。長年にわたる航海、数多の冒険をくぐり抜けてきた英雄の物語は、ヨーロッパ語圏ではそのまま、「冒険物語」「波乱に満ちた旅・遍歴」「波瀾万丈の人生」といった意味にも遣われるらしい。

シムノンの『闇のオディッセー』。フランス語の原題をそのまま訳せば、熊のぬいぐるみ、テディベア。小説中に出てくる一人の若い女性に、主人公が勝手に名付けた綽名を指す。全体は、裕福な産科医である主人公にくりひろげられる精神の変遷を辿ってゆくという筋書きで、まさしくシムノン小説の常套。「テディベア」はその中のほんの数節にしか現れない。

邦題を『闇のオディッセー』としたのには何か理由があったのだろうか? オディッセーはおそらく小説の主人公(ヒーロー・英雄)を指す。彼の茫漠にして不安定な精神状態を、いつ明けるのかも分からない「闇」に喩えたのだろうか。
ジョルジュ・シムノン『闇のオディッセー』
長島良三訳 (河出書房新社)
Georges Simenon, L'ours en peluche (1960)

2018/03/10

シムノン『ビセートルの環』

子供の頃、彼はいつもサン=テチエンヌ教会の鐘の音を聞く習慣があった、そしてそれを耳にすると、青空を深刻げに指して、言うのだった、
「環だよ......!」
...彼がどうして鐘の音のことを環だと表現したかというと、それは鐘が空間に同心円を描くからだった。
ビセートル Bicêtre はパリ郊外の町。現在はル・クレムラン=ビセートル Le Kremlin-Bicêtre という名の自治体(コミューン)を形成していて、パリ南部に隣接している。パリの地下鉄ポルト・ディタリー駅  Porte d'Italie の次はもう、ビセートルに着く。ここは、囚人と精神病患者を一緒くたに収容した施療院(という名の監獄)があったことで有名。フランス革命期にはフィリップ・ピネル Philippe Pinel, 1745-1826 という医師の尽力で、人道的かつ臨床心理学的アプローチを重視する近代的な病院へと生まれ変わったらしい。現在は総合病院としてパリ周辺の医療を支えている。(以上、Wikipediaを参考に記述)

つまり、『ビセートルの環』を手にしたとき、フランスの読者は病院や監獄といったイメージを想起するのだろう。そして実際に、読者はビセートルの病院に担ぎ込まれるのだ ─ 働き盛りを過ぎ、心臓発作を起こした50歳代の男性として ─ 。ただし、遠い老境への入り口が描かれているわけではない。20代、30代、40代...、どの世代の人々にも常に去来するような心理、起こりうる事態(将来かもしれないが、今すぐかもしれない)がそこにある。

シムノンは自分自身と近い年齢の人物を主人公に登場させることで、説得力のある立脚点を小説に据えるけれども、それは必ずしもその世代特有の現象に注目するためだけではないような気がする。どんな年齢から観察しようとも、人間の心理・行動には、世代を超えて共通するものがある。シムノンはそれを探求しようと、いくつもの小説で繰り返し語り続けたのだろうか。人生の黄昏時に足を踏み入れた主人公が、病室から聞こえる鐘の音(彼はそれを子供の頃から「環」だと感じてきた)を耳にして、病室にいる今現在と母親がまだ生きていた少年時代が、主人公の心中で分つことのない時間感覚となるのも、そういった思想の断片なのかもしれない。

ジョルジュ・シムノン『ビセートルの環』三輪秀彦訳 (集英社文庫)
Georges Simenon, Les anneaux de Bicêtre (1963)

2018/03/03

フランソワーズ・エリチエ『男性優位はいまだ普遍的である』

フランソワーズ・エリチエ Françoise Héritier, 1933-2017 はフランスの人類学者。『男性的なもの/女性的なもの』の著者であり、最近になってようやく日本でも翻訳が紹介された(2016年に第2巻、2017年に第1巻)。

  • Françoise Héritier, « Masculin/féminin, vol. I, La pensée de la différence », 1996 〔フランソワーズ・エリチエ『男性的なもの/女性的なもの Ⅰ 差異の思考』井上たか子、石田久仁子監訳・神田浩一、横山安由美訳(明石書店)〕
  • Françoise Héritier, « Masculin/féminin, volume II. Dissoudre la hiérarchie », 2002 〔フランソワーズ・エリチエ『男性的なもの/女性的なもの Ⅱ 序列を解体する』井上たか子、石田久仁子訳(明石書店)〕

以下は、エリチエが2002年に週刊誌『ル・ポワン』(1572号、2002年11月1日発行)に応じたインタビュー記事を、井上たか子氏が翻訳したもの。日仏女性資料センターの情報として公開されているのだが、広告付きの無料ホームページに掲載されていることもあり、記事がサイト・コンテンツであることが分かりにくい印象がある。一部文字化け等を修正しつつ、勝手ながらこのブログに転載してみた次第。これから『男性的なもの/女性的なもの』を読もうという方には、その序曲あるいは前奏曲として目を通すと良いのではないかと思う。

なお『ル・ポワン』に掲載された元のフランス語記事は、下記に公開されている。

〔参考〕日仏女性資料センター
〔画像〕フランソワーズ・エリチエ in リベラシオン紙

***

『男性優位はいまだ普遍的である』
 ─ 『ル・ポワン』誌(no.1572、02.11.01)掲載のインタビュー ─

レヴィ=ストロースの弟子であるこの高名な人類学者フランソワーズ・エリチエは物議をかもそうとしている。女性の社会的進歩が歓迎されていると思えるいまの時代にあって、彼女は、そう考えるのは間違いであり、それどころか男性優位はいまだ普遍的であることを明らかにする。

エリチエは、前著(『男/女 I 差異についての思考』)で、あらゆる思考の根源に男女の差異があることを明らかにした。彼女の語るところによれば、最初の人類は、自然を観察し、自分の身体を見て、雄と雌、精子と血液、昼と夜、温と冷、湿気と乾燥があることを発見する。「人類の夜明けに」なされたこうした二分法的分類が思考の構造を形成する。

近著(『男/女 II 序列の解体』)ではさらに一歩進んで、男性優位の普遍性を明らかにした。男性優位は近代性のなかに入り込んでおり、生殖技術、売春をめぐる議論、そしてパリテのなかにも存在する。彼女の話はわれわれの頭のなかにまだ残っている古臭さに気づかせるまさに目のくらむような旅である。

ル・ポワン誌(以下P):はじめは男性性と女性性があった。そしてすぐに男性性がいたるところでつねに支配する。どのようにして男女の差異のなかに序列関係が入り込んだのでしょうか。
フランソワーズ・エリチエ(以下H):人類の夜明けにおけるさまざまな観察は具体的なものでした。血液は温かく、生命を意味します。男性が血を失うのは事故か自発的か、いずれにしろ活動のなかにおいてです。男性はいつも温かいものと見なされます。女性は定期的に失血しますので、冷たい湿ったものという性質を与えられます。しかも女性は血を失うことを止めることができず、このことが女性に受動的な性質を与えるのです。ところで問題は、大部分の社会において、活動的なものは男性的であり、女性的な受動性よりも上位にあるとされていることです。このように二分法的分類には、単なる差異を超えて、序列関係があるという事実は、序列関係が性的差異以外の理由によって生じていることを意味しています。
実際、私たちの祖先によってなされたあらゆる観察のなかで、一つ、とくに説明のつかない、不当な、法外な観察がありますが、それは女性は自分の同類、つまり自分に似た娘をつくるが、男性はそうではないということです。男性は自分の息子をつくるために女性を必要とします。ところが、この異なるものをうみだす、つまり男性の身体をうみだすという能力は、女性に不利な結果をまねきました。女性は共有すべき必需品となったのです。男性は息子を得るために社会的に認められるかたちで女性を長期間自分の所有物にしておかなければならない。さらに、思考のシステムは生殖の神秘をもっぱら男性の精液のなかにタネを配するというかたちで説明します。娘の誕生は男性的なものの失敗作、仮の、しかし不可欠の失敗作なのです。このような二重の、精神的かつ身体的な女性の私物化から序列関係が生じます。序列関係はすでに男女の性を特徴づける二分法的分類のなかにきざみこまれているのです。というのも女性には中傷や、自由の剥奪、生殖機能への封じ込めなどが必ずついてまわるからです。

P:男性支配は時間や空間において普遍的なものでしょうか。

H:私たちの解読格子はいつも、不動で古臭い、序列化された分類格子によるものです。どんな社会も、たとえ先進的な社会でも、私が古い支配的モデルと呼んでいるこの思考類型の遺物の影響からまぬがれてはいません。
例をあげましょう。2000年4月に神経科学の雑誌『ネイチャー・ヌーロサイエンス』に、仮想迷路から出る能力に関する実験の報告が掲載されましたが、女性は男性より55秒余分にかかるというのです。さらに、現実の生活でも女性は感覚的な基準で方角を定めるのに対して、男性は幾何学的な基準によることも示されました。そして、雄と雌のネズミの縄張りでの行動についても同じことがいえるようです。もっとも、それぞれの食料の狩出しの結果には影響ないのですが。ここから引き出される結論は、抽象的な基準によって速く方向を定めるほうが具体的な基準によってゆっくり定めるよりも優れているという公準に基づいた、雌の劣等性です。というのも、速いことは遅いことよりも優れており、抽象的なことは具体的なことより優れているからなのです。このように総合的な判断は、実験者の頭にも読者の頭にもすでに存在している古い序列的な価値観によってのみ正当化されるのです。ここに見られるのは、疑問に付されることのない性的所与の優先です。頭脳の働かせ方には男性による良いやり方と、女性によるそれほど良くないやり方があるというわけです。

P:女権制による小集団の例はなかったでしょうか。

H:いいえ。女権制はことばの本来の意味で神話にすぎません。神話とは、なぜものごとがそうであるのかを正当化する機能をもっています。神話は、前代の歴史的現実ではなく、現在男性が女性を支配し、権力を保有していることを正当化するための物語なのです。こうして人々は、古い時代の物語をでっちあげ、女性は権力と知識をもちながら、それをうまく利用しなかったというのです。こうして、男性が介入し、女性と交代したことを正当化するのです。

P:しかし、女系制社会は存在しています・・・

H:神話でしかない原初の女権制と、親子関係は女系でも権力は男性がにぎっている女系制社会がしばしば混同されています。女系制部族の親子関係は女性によって伝達されますが、権力をもっているのは女性たちの兄弟です。財産や職務の伝達は母方の伯父から姉妹の息子である甥へとなされるのです。
狩猟・採集型の小集団のなかには、平等な集団だと認められるものもいくつかあります。ですが、野営を解くといった重要な決定は男性がします。女性は採集によって、必要な食料の80%を供給しているにもかかわらず、高く評価され価値があるのは男性が狩猟によってもたらす食料なのです。

P:国を統率したり、帝国を支配したり、統治した有名な女性もいますが・・・あなたの論証と矛盾はしませんか。

H:彼女たちは例外的な女性で、その行動は男性的だと考えられていました。ふつうの女性の状況とはまったく関係がありません。エジプトの国王になったハトシェプスト、ユダヤのユディット、(英国の)エリザベスII世一世、ロシアのエカテリーナ女帝は、生まれつき、偶然にしろ、例外的な女性です。それに、ふつうの女性たちにも男性と同じ「熱」をもつ時期や状況があるのですが、それは彼女たちを危険な存在にします。思春期前の少女や閉経した女性です。女性の処女性や独身生活はですから理に背いた状況であると考えられます。女性のもつ生殖の任務にそむいているからですが、ときにはほとんど男性のような行動を可能にします。フランス史でいえば、ジャンヌ・ダルクや大妃殿下[モンパルシエ公爵夫人、ルイ13世の姪]の場合がそうです(加えて後者には高貴の生まれであることも与っていますが)。

P:少女のクリトリス切除、一夫多妻制、強制婚などを正当化するために文化的相対主義に言及する国がありますが、これはあなたの考えでは、便利な隠れ蓑ということでしょうか。

H:たしかに文化の概念は尊重されなければなりません。けれども文化は、芸術・宗教・建築・たべもの・振舞い方・礼儀など、さまざまの異なる文化を享受している民族のあいだにことさら注目すべき対立のシステムを覆い隠してもいるのです。ともかく、女性に対する人権の適用を忌避するための論拠として文化が用いられるとき(現在まで国連でこの論拠が認められていることを指摘しておかなければなりません)、注目すべきなのは、この[文化という]隠れ蓑を引き合いに出すさまざまな国は女性にたいして礼儀作法や行動の仕方、信念などの多様性を認めてはおらず、逆に、唯一ただ一つの論拠による画一性の押し付けをしているということです。その唯一の論拠とは、女性は男性に所属しており、したがって男性のようにセクシュアリティ・身体・精神を自由に用いることはできないということです。

P:女性の性質は知的構築の結果かもしれません。けれども、女性のほうが柔らかくて、弱くて、かよわいというのも本当ではないでしょうか。

H:女性はたぶん男性よりも、やわらかな声・肌をもっています。絶対的な一般性ではありませんが。声とか肌といった客観的に認められる柔らかさを、受動性とか従順さという女性の特性からきているものにするわけです。でも、まったくそんなことはありえません。これはまさしく知的構築です。こうして生理学的なものが男女の原子価の違いを正当化するために利用されるのです。それに、こうしたいわゆる女性的な特徴は一般に女性たちによって受け入れられている、さらには女性の専有物、女性のアイデンティティ、女性の避難資産(避難資本)であると主張さえされているのです。このように社会集団全体が、何千年も前から存在し行われている驚くべき精神的・肉体的調教の結果でしかないものを、「自然の」、したがって変えることのできない特性として人為的に仕立てあげているのです。

P:男性支配に対する最初の突破口は、避妊ですね。あなたは人類にとって避妊は、宇宙征服以上に重要な征服であるとお考えになっていますが・・・

H:男女平等への長い道程において、いつもまず第一に教育が重要であると考えられてきました。そのとおりだと思います。生まれたときから平等への教育が必要であると信じています。ですが、そこにはひとつ前提条件が必要であるように思います。その解答が見つかったのは20世紀においてでした。もし女性には出産能力があるがゆえに、男性のために息子をつくるという能力があるがゆえに服従させられ支配されているのであれば、女性に自由な人格としてのステータスを付与するのは、避妊を制度的に認められた権利として与えることによってなのです。
これは避妊の合法化が追求していた目的ではありません。避妊のこうした効用は事実上過って、ともかく結果的に過って女性に与えられたのです。実際、避妊方法には男性用も女性用もありうるのです。女性用の避妊を特別扱いすることによって、立法者は、こうした決定がどんな影響をもたらすか予測しないで、子どもに関することはなんでも女性に委任するというこれまでのやり方に従ったのです。というのも、以後ピルは事実上、女性解放の基本的な手段になりました。

P:女性のセクシュアリティに関係するときは、避妊の工夫をするため。男性のセクシュアリティに関係するときは、男性能力を十倍にする薬、ヴァイアグラを与えるためですね。

H:もし政治家が単に効果的に出生をコントロールしたいと望んだのであれば、最もよい方法は男性の身体をコントロールの場として選ぶことだったのです。でもそれは夢物語ですね。男性用の避妊医療は、一般的に、フランスでも同じですが、手をつけるのが難しい問題です。避妊は男性の想像力のなかで不能と結びついているからです。そしてこれも男性の想像力においてですが、男性にとって性行為は生殖の可能性と快楽の合体であり、これを妨げるものはあってはならないのです。男性の避妊の普及が失敗なのに対して、ヴァイアグラは世界中で驚異的に成功しています。ヴァイアグラの使用は男性支配の論理に結びついているのです。

P:生殖技術によって男女の関係性が変わるということはありうるのでしょうか。

H:それ自体としてはありえません。Cecos(卵子・精子保存研究センター)のジャン・ルイ・ダヴィッド教授は、精子提供者による人工受精(IAD)に助けをかりたカップルやそれによって誕生した子どもに関するルポをメディアが扱わないことに驚いていました。一方、イギリスのルイザ・ブラウンや、フランスのアマンディーヌのような試験管で受精し、培養後子宮膣内に移植する方法(fivete)で生まれた子どもたちやその両親については、過剰報道されました。FIV [La fécondation in vitro 体外受精] によって治療可能な不妊は女性の側の不妊なので、話題にしても失礼ではないけれども、IADによる治療は男性の不妊にかかわるものなので、不名誉な体験なのです。ドナーによる受精という手段は世間の目に秘密にしておかなければならないのです。不妊カップルの問題はつねにどこでもほとんど例外なく女性の側に原因があると見なされてきました。私たちはここにも私たちの価値体系の痕跡を見るのです。技術も、最先端のものでさえ、容易にこの男性支配という古臭い図式のなかに流し込まれるのです。概念支配もふくめて。

P:クローン技術はどうでしょう?

H:クローン技術も支配関係を変えることはないでしょう。仮にクローン技術が男性に用意されるとしても、女性の卵子を手に入れる必要があります。その卵子から女性の細胞核を除き、代わりに男性の体細胞で置き換えて、それを植え付けるための子宮も必要です。こうした見通しでは、女性の身体は道具化されることになるでしょう。女性は男性の利益のための奴隷とされるのです。サイエンスフィクションを押し進めれば、究極のところで、女性だけが自己繁殖できるかもしれません。自分の卵子を取り出して、核を取り除き、自分の身体からとった体細胞で置き換えて、ふたたび自分の子宮に植え付ければよいというわけです。こうして社会は、ときどき人類を刷新するために数片の冷凍精子を保存しておきさえすれば、もっぱらクローン化された女系種族によって構成されることになるかもしれません。男性種はこうして消滅するかもしれません。これは女性のもつ法外な特権の絶対的勝利となるでしょう。女性はもはや異なるものをつくりはせず、ひたすら自分を増殖するのです。男性がつねに女性を隷属させ、利用しようと望んでいたことは男性の歴史が示しています。私としては、政府がクローン生殖を禁じたことは正しかったと思います。それは人間の尊厳を侵害するという理由ではなく、社会の構成にとって他者性の承認、他者性の必要性を侵害するという理由からです。

P:あなたは現在行われている売春をめぐる議論、規制に賛成する側と廃止を擁護する側が対立している議論において、明解な立場をとっておられます。

H:いつも、売春の問題はどうしょうもないとか、必要悪であるとか、世界で最古の職業であるといった反論がなされます。これに対して私は、ここで問題なのは単に次の事実にすぎないと答えます。すなわち、世界中で暗黙の了解として、男性の性衝動は抑制されるべきではなく、衝動にまかせるべきであると考えられているという事実です。その場合の唯一の制限は、他の男性、つまり父や兄や夫の権威と監督の下にある女性の身体をふつうは使用できないとする社会習慣によるものです。戦争の場合は例外で、女性の身体に加えられる危害は男性や家族の名誉に対する侵害なのです。
青年が若気の過ちを犯したり、男たちに提供されている身体で性欲を満たすのは、男とは自制できない存在である以上、欲望は抑えきれるものではない以上、当然のことだと見なされるのです。この疑問に付されることのない公準こそが間違いなのです。ですからこの点を問題にしなければなりません。まずは教育によって、また同時に、あらゆる表現システムを内部から徐々に制御していくことによって問題にしなければなりません。たとえば、広告です。女性の身体は男性に属しており、差し出されているのだという考え、そして男性の性衝動は絶対的に合法であり、制御されるべきものではないのだから、女性の所有は男性の権利であるとする考えを活用している広告です。

P:あなたは、公的男性 homme publicとは政治家であり、公的女性 femme publiqueは売春婦を意味することを指摘しておられますね。

H:この用語上の不合理は歴史学者のミシェル・ペローが取り上げたのです。これは完璧な対句変換法です。公的女性とは、自分の身体を個別の人間の性液の排水口にしている女性で、これは下等な軽蔑すべき活動と見なされています。公的男性とは、自分の思考・行動・生活を、社会の幸福への献身と見なされている政治活動にさしだしている男性です。

P:売春の問題にもどりたいと思います。あなたはどんな解答を提示なさっていますか。

H:子どもたちに、男性の性衝動は制御できないものではないこと、多くの男性がそれをコントロールできていることを教えなければなりません。また同時に、これまで隠蔽されてきたものの、女性にも欲望があること、現在の西欧社会においてはそれほどではないにしても、いつも残酷に抑圧されてきたことを教えなければなりません。また、早い時期に、性衝動と自分の選んだパートナーに対する欲望とは違うことを理解させなければなりません。
私の見解は、売春とはこの男性の衝動の合法性と抑制不可能性という疑問に付されることのない特性に由来する要求に対する答えでしかないかぎりにおいて、自由な売春というものは存在しないというものです。さらに客の処罰は、お金と引き換えにひとの身体を利用することは権力の乱用であることを当事者に理解させるために何の措置も講じられていないかぎり、教育的手段として考えることはできません。

P:あなたのつくられた男性/女性の風景は暗いものですね。政治家がそれを変えることはできるでしょうか。

H:政治家は問題をほとんど把握していません。把握している場合でもその解答は不十分なものです。憲法のなかに、そして法律によって、パリテを制定し、男女間には自然的な、基本的な差異があることを制度的に認めたように。より一般的にいって、平等を設立しようとする手段は後追いの手段です。遅れを取り戻すこと、前にいるものに追い付くことなのです。そうしたやり方は、ひとが追い付こうとしているものがその場にじっと留まっているような動きのないシステムにおいては可能かもしれませんが、この場合はそうではありません。たとえば、国会にパリテが成立することを具体的に妨げるためにとられた選挙の際の巧妙なやり口にそれを見ることができます。実際は、有効な手段とは男女の活動を接近させるようなものであって、一方が他方を追いかけることではありません。

P:たとえば?

H:この観点から、私は父親休暇の設置を喜ばしいと思っています。これは他のもっと有効な行動の前触れであってほしいと願っています。メンタリティーの変化に到達するためには、シンボルの効力を信じなければなりません。たとえこの変化が普遍的なものになるためにまだ何千年もかかるとしても。人類にとって何千年というのはたいした年月ではありません。(試訳 井上たか子)

以上

〔転載元〕http://www.geocities.jp/centredfjf2004/Heritier.html

2018/02/24

ビルマサイチョウは夫婦で子育てをする

ビルマサイチョウはタイやミャンマーあたりの熱帯雨林に棲息する鳥。彼らは夫婦で子育てをする。

交尾のあと、メスは木のうろ(空洞)にこもる。うろの入り口は、くちばしが入るくらいの隙間だけを残して、草土などで塞いでしまう。オスが、メスとこれから産まれるヒナのために餌を運ぶ。でも、それだけでない。 

ヘルパーと呼ばれる若いオスたちも、これを手伝う。旦那と若衆三羽ほどの、育児支援チームが組織されるわけだ。この習性はサイチョウの中でもビルマサイチョウだけにみられるらしい。


ヒナが産まれたばかりの頃、オスたちは木の実をせっせと運ぶ。おいしそうな実をついばみ飲み込んでしまうのかと思いきや、のどのあたりに貯めておく。巣に着くと、くちばしに実を戻して、うろの入り口に差し込むのだ。のど元に運搬用の袋をもっているらしい。 

数ヶ月経つと、今度は虫や小さなとかげを捕らえるようになる。成長したヒナには、タンパク源が必要なのだ。若いオスたちにとっても、動く餌を捕らえるかっこうの修行になる。 

雨季。ずぶぬれになっても、オスたちは餌を運びつづける。束の間、空から太陽がのぞくと、彼らは羽根をいっぱいに広げ、これを乾かす。そして、また餌を求めて枝から離れる。 

メスがうろにこもって百日が経とうとする頃。うろの入り口に動きが見られる。うろから顔を出すサイチョウが、一匹、二匹、三匹…...ついにヒナたちが巣立つときが来たのだ。 そして、両親や若衆に見守られながら、子どもたちはジャングルの彼方に飛び去ってゆく。

***

これは、何年か前、子供が生まれる以前に観たNHKの10分番組に感心して即席で書いたレポートというか備忘録というか。

ビルマサイチョウ / Calao brun / Tickell’s Brown Hornbill / Anorrhinus tickelli

2018/02/17

ワーグナー:舞台神聖祝祭劇『パルジファル』

【あらすじ】
イスラム世界に隣接する中世のスペイン。モンサルヴァート城では、十字架の上でキリストの脇腹を刺した聖槍と、彼の血を受けた聖杯が、ティトゥレル率いる聖杯騎士団によって守られていた。異教徒クリングゾルは騎士団への加入を拒否され、その報復として魔法の花園によって騎士団に罠を仕掛ける。ティトゥレルの息子のアムフォルタス王はクリングゾル討伐の際、謎の美女に誘惑されたあげく聖槍を奪われ、その槍で脇腹に傷を負う。爾来、傷口は閉じず、アムフォルタスの苦悩が続く。神託によれば、唯一「共苦によって叡智に到る愚者 Durch Mitleid wissend, der reine Tor 」が聖槍を奪還し、アムフォルタスの苦悩と傷を癒し、聖杯開帳の儀式も復活するという。パルジファルはその救済者として現れる。

ジュリアン・グラックの小説『アルゴールの城にて』と『シルトの岸辺』にそそのかされて(?)、長いこと敬遠してきたワーグナーのオペラを映像で鑑賞したことがあります。... 重厚長大なドイツ音楽の権化、聴衆が途中退席したり眠ったりするのを許さない態度が音にまでにじみ出ているような演劇... 長らく矯めずにいたワーグナーへの偏見を抱えながら。

『パルジファル』はワーグナー最後の傑作です。着想自体は30歳代の頃と早かったものの、台本の制作と作曲に長い時間を労したこともあり、作曲家が亡くなる1年前(1882年)にようやく初演されました。ドビュッシーを筆頭にフランスの音楽家、延いては多くの芸術家に強烈なインパクトを与えた作品です。

さて。ワーグナーの音楽は、示導動機(ライトモティーフ)を用いてくだくだしく説明していくイメージをもっていましたが、少なくとも『パルジファル』では、そういった手法臭さは陰を潜めており(というよりは音楽にすっかり溶け込んでおり)、台本と音楽との一層の緊密化・融合化の方が重視されているようです。管弦楽の響きや質感のところどころでドビュッシー、とくに『ペレアスとメリザンド』を想起させるのは、むしろワーグナーの影響がそれだけ大きかったということでしょうか。私が観たのは伝統的な演出によるものではなく、現代文明が衰亡した世界で彩られたような舞台を目にしたせいもあって、モダニズムの印象も強く感じられました。

一回きりの鑑賞でしたが、偏見はやはり偏見以外の何物でもありませんでした。

【映像】
  • リヒャルト・ワーグナー:舞台神聖祝祭劇『パルジファル』:ニコラウス・レーンホフ演出: ケント・ナガノ指揮ドイツ交響楽団、バーデン・バーデン祝祭合唱団:2004年バーデン・バーデン祝祭劇場におけるライブ収録:COBO-6068〜70

Richard Wagner, Parsifal ein Bühnenweihfestspiel, 1882

2018/02/10

平出隆『猫の客』

無駄のない詩的な文章はとても美しかった。ただ、物語には今ひとつ馴染めなかったというか、腑に落ちないところがあった。

語り手自身も述べているが、物語中最大の事件が起こったときの語り手夫婦の言動に、隣家の人々への配慮が足りない気がした。もし、この作品を作り上げた理由の一つに、彼らへの贖罪の気分があったのだとしたら、隣人の気持ちに寄り添っているようには思えなかった。

妻の悲嘆が計り知れないものであったことは分かるし、その最中にある人を責めるのは酷ではあるものの、手前勝手な論理で、暗に隣家の人々を批難するのだとしたら、やはりそれは少々驕慢ではなかろうか。所詮、他人の気持ちは分からない、と言えばそれまでだが、この出来事を公に向けて文章にする限り、文中の「迂闊」や「未熟」では収まらない、ごく単純な思い遣りが彼らには欠落しているように感じる。これも、情愛ゆえの仕方のないことなのかもしれないが...

物語は実際にあった出来事に沿っているようだ。語り手は作者自身と同一視してもよいだろう。つまり登場人物にもモデルがいる、というよりは、実在の人々に符合するといえる。そのせいだろうか、他人の領域に踏み込んではいけないという気分にさせる。オブジェを眺めるように、外側から観察することは許されても、作品内部にまで入り込む余地は与えられていない、閉じられた印象を受ける。作者の意図やアプローチとは正反対かもしれないが、もう少し虚構性の強い手法で叙した方が、読者にあまねく開かれた物語になったのではないかと思う。上述のような感想も、フィクションであればもっと気兼ねなく語れたのだが。

批難がましいことを書いた。余計なことは一切言わない作品なのだろう。きっと私の読解、詩的な雰囲気への感受性の方が足りなかったのだ。


平出隆『猫の客』(河出書房新社)