2019/07/13

プルースト『楽しみと日々』 i

『楽しみと日々』は、初期に書かれた散文や詩を収録した小品集で、プルーストが書籍として初めて世に送り出した作品。

ある決まったコンセプトに基づいて構成されたものではなく、それまで雑誌に寄稿した詩、短篇、評論的なエッセイを寄せ集めたようなもので(実際には相当に気を配った構成となっているようだが)、もしマルセル・プルーストという作者の名前が全く隠されていたならば、今日あまり顧みられることのなかった文集だったかもしれない。つまり、私たちは何よりもまず、20世紀フランス文学の金字塔ともいうべき『失われた時を求めて』の存在を知っているからこそ、『楽しみと日々』を繙こうとするのだと思う。

また、それは単に文豪の若書きであるから興味を惹かれるのではなく、「のちに私たちが感嘆の念をもって眺めることになる大輪の花々の、新鮮な蕾」、つまり『失われた時を求めて』のなかで考察される諸々の主題が、萌芽もしくは蕾として含まれていることを期待するから、読んでみようという気になるのではないか。
そうなのだ、私たちが『スワン』や『ゲルマント』を読んで感嘆するものはすべてここに、微妙かつ狡猾にと言いたいほどの形で、すでに提示されている ─ 母親のお休みのキスを待つ子供、思い出の間歇性、悔恨の鈍化、土地の名の喚起力、嫉妬の掻き立てる不安、風景の説得力、さらにはヴェルデュラン家の晩餐と会食者たちのスノビスム、会話の鈍重な虚栄さえ。(アンドレ・ジッド) 

例えば、三十篇の散文詩から成る《悔恨、時々に色を変える夢想》は、詩篇相互に緊密な関係をもった構成をとっているわけではなく、目次の順序どおり読むのは少々退屈する。その一方で、『失われた時を求めて』で垣間みたような風景画や抒情に溢れた歌など、そういった輝きを認めたときは、二枚重ねの面白さがある。

短編物語の一つ《晩餐会》は、ゲルマント公爵夫人やヴェルデュラン夫人のサロンで繰り広げられる情景が浮かんでくるようだ。

《若い娘の告白》では、主人公が逸楽と放蕩に耽りつつも、献身的な愛を注いでくれた母親に対する罪悪感が拭えず煩悶する条りがあるが、これなどはまさに『失われた時を求めて』の語り手の懊悩そのものである。ちなみに、『失われた時を求めて』の第一篇「スワン家の方へ」の幕開けで語られる幼少期の就寝劇の断片も、この短篇に登場する。

『楽しみと日々』の中にすでに散りばめられたこういった主題が、『失われた時を求めて』ではどのように花開いたのかを比べてみることは、この初期作品を読む楽しみの一つになっているように思う。

〔画像〕1895年ごろのプルースト


マルセル・プルースト『楽しみと日々』
岩崎力訳(岩波文庫)/ 窪田般彌訳 (福武文庫)
Marcel Proust, Les Plaisirs et les Jours (1896)

2019/07/06

シムノン『家の中の見知らぬ者たち』

たったいましがた、ぼくは家のなかに見知らぬ男を見つけた……三階のベッドのなかだ……ぼくがそこに行ったときにはすでに死んでいた……この件はきみに携わってもらいたい、ジェラール……ぼくはひどく困惑している……犯罪のような気がぼくにはするんだが…….

妻がほかの男と駆け落ちした後、20年近くも隠遁生活「豚みたいにだらしない生活」を続け、人生を半ば諦めていた主人公が、家のなかで起こった事件をきっかけに......

シムノン小説の主人公は、その多くが日常の些細な出来事を契機に人生の転換を迫られ、破局か、そこまで深刻ではないもののやはり取り返しのつかないような状態に陥ってしまうなか、本作では若干趣きの異なる筋書きになっている。本作の主人公エクトール・ルールサは、事件をきっかけにこれまでの習慣を破り、さらにある青年の弁護を引き受けて奔走を始める。その姿は、事件解決のためにあちこちと歩き回るメグレに似ている。

***

シムノンは、どちらかというと上流階級よりも庶民階級の人々、それも辛酸を嘗めている人々を描き出すほうが得意だと言われているが、実際には多くの作品で、前者の、つまり富裕層の男たちも主人公として登場する。『闇のオディッセー』や『可愛い悪魔』、『ビセートルの環』には出てくるのは、いずれも医者、弁護士、新聞社の社長と、社会的に地位の高い人物ばかりである。

ルールサも、フランスで中部の町ムーランの名士の一人として名を連ねている。ただし、彼がほかの小説の主人公と異なるのは、さきほどの男たちが、今でこそ成功を収めているけれども出自は庶民階級だったり、結婚によって(つまり妻のおかげで)成り上がったりしているのだが、ルールサは、根っから上流階級の生まれである。これも、シムノン小説の中では珍しいかもしれない。

***

「家の中の見知らぬ者たち」とは、家の中で銃で撃たれて死んだ男や、家を出入りしていた若者グループだけでなく、同じ屋根の下で暮らしてきたはずの娘や使用人も含むのではないか。実際、ルールサが娘のニコルを異邦人のように眺める箇所がある。そして、ルールサ自身もまた、書斎を穴蔵にして動物のような生活をしていたこれまでとは異なる感じ、ものが見えることに驚き、そのような自分を「見知らぬ者」として認識しているのかもしれない。

***

〔主な登場人物〕
  • エクトール・ルールサ … 弁護士、48歳
  • ニコル … エクトールの娘、20歳
  • フィーヌ … ジョゼフィーヌ、使用人
  • ジェラール・ロジサール … 検事、夫人のローランスはルールサの従姉妹
  • デュキュ予審判事
  • ビネ警視
  • マルト・ドサン … エクトールの妹、脱穀機製造業者シャルル・ドサンの夫
  • ジョー …  「ボクシング・バー」の主人、元ボクサー
  • ルイ・カガラン…  通称ビッグ・ルイ、家の中で銃で撃たれて死んだ男
  • エドモン・ドサン … マルトの息子
  • ジュール・ダイア … アリエ通りの豚肉屋の息子
  • デストリヴォー … 銀行員、父親も中央銀行の現金出納係
  • ジュスタン・エフライム・リュスカ … スーパーマーケットの店員、18歳
  • エミール・マニュ … 貧しい家庭に育った青年、18歳、母親はピアノ教師
  • アデール・ピガス ... 娼婦

〔参考〕


ジョルジュ・シムノン『家の中の見知らぬ者たち』
長島良三訳(読売新聞社)
Georges Simenon, Les Inconnus dans la maison, 1940

2019/06/08

シムノン『死の脅迫状』

『死の脅迫状』は、いわばシムノンの「忘れられたメグレ」。1942年に週刊誌の連載で発表されたものの、その後刊本化されることがなく、作者死後の1992年にようやく出版された作品。(*)

古狸の詐欺師へ
今度こそ、お前はもう長くはない。クードレーに行こうが行くまいが、たとえ共和国衛兵隊を引き連れていようが、お前は日曜日の午後6時に死ぬだろう。これで、誰にとっても、厄介払いというものだ。(拙訳)

Crédit photo : Menaces de mort  Loustal
@www.loustal.nl
匿名の脅迫状を受け取った富豪のエミール・グロボワが、政治家の口利きで司法警察の局長のところに相談にやってくる。そして、管轄外であるにもかかわらず、メグレはパリを離れてグロボワの別荘があるル・クードレー=モンソーまでやってきて、しぶしぶ警護にあたることになる。

物語の前半では、双子の兄弟で何だか怪しげな言動がみられるオスカルが登場したり、一見卑屈な小男に見えるエミールが家庭内では陰湿な暴君のように振る舞っている様子など、グロボワ家の人々と彼らの性格や人間関係が様々に示される。そして後半は、脅迫状に書かれていた日曜日の午後が時間区切りに描かれる。

初夏のこの時期、別荘の近くを流れるセーヌ河の畔では、人々が舟遊びや水浴に興じている。「そんな楽しい時間はおそろしく早くすぎるものだ」。一方でグロボワ家の人々は、午後6時まで、別荘のテラスに家族全員が留まるよう、エミールに命令される。それは「夜、しっかりと閉まっていない蛇口から水がいつまでもポタポタと落ちるのが聞こえてくるときのように仮借なく引き延ばされた」長い時間である。対比は、グロボワ家のなかにもある。たとえば、麻薬中毒でテラスに縛り付けられていることが耐えられず、顔面蒼白なアンリ(エミールの甥)がいるかと思えば、姪のエリアーヌは我関せずとばかり、若く美しい肉体を臆面もなくさらけ出して日光浴を決め込んでいる。そしてメグレは、その様子を眺めているだけでほとんど何もしない。

シリーズの十指に数えられることはないにせよ、シムノン得意の心理戦が堪能できるだけでなく、物騒なタイトルに反して、メグレの人生哲学、あるいは幸福論の一端が垣間見える面白い中篇だと思う。

(*) ほかの作品とは異なり、週刊誌に連載後すぐに刊本化されなかったのか? そのあたりの事情は不明のようだ。当時フランスはナチス・ドイツの占領下にあったが、1942年に『死の脅迫状』を掲載した週刊誌« Révolution nationale »は、ヴィシー政府(1940〜1944)の機関誌だった。戦中戦後の混乱のなかで、刊本化のタイミングを逸し、その後単に忘れられてしまったのか、あるいは掲載されたのが、いわゆる対独協力政権の週刊誌だった事情が何かしら影響があったのか...

〔参考〕

ジョルジュ・シムノン『死の脅迫状』
長島良三訳(光文社「EQ」1998年11月号)
Georges Simenon, Menaces de mort, 1942

2019/05/04

シムノン『メグレと奇妙な女中の謎』

奇妙なのはむしろ、メグレ警視のほうかもしれない。

メグレは、殺人現場となった家を盛んに出入りしている。入り浸っていると言ってもよい。そこには被害者と住んでいた女中のフェリシーがいる。警視は、はじめからフェリシーを容疑者とはみていない。それにもかかかわらず、何かに付けてこの家にやってきて、フェリシーと会話をしたり(たいてい相手は反抗的なのだが)、家中を探ったりする。しかも、勝手に酒樽を開けてワインを飲んだりと、我が家のように寛いでいる様子さえみられる。もちろん彼は捜査のために、事件を解決するために、この家に執着しているのだが、どうもそれだけではないらしく、メグレ自身もそれを認めている。

「警視は何故、あの家に入り浸っているのか?」 気心の知れた部下たちは誰もそんなことは問わないが、もし誰かがその質問を発したら、メグレは、あるいはほかの誰かが代わりに、こう答えるかもしれない、「なぜなら、そこにフェリシーがいるからだ...」 « Parce que, Félicie, elle est  là... »


ジョルジュ・シムノン『メグレと奇妙な女中の謎』
長島良三訳(光文社「EQ」1986年5月号)
Georges Simenon, Félicie est là, 1944

2019/04/27

小さな音が窓ガラスにして...

『失われた時を求めて』を読みながら


プルーストの『失われた時を求めて』は、原文に長い文章が多いので有名である。これを翻訳するにあたって、日本語としての意味を損なわず、一方で原文の流れも尊重するとなると、かなり大変な作業になることだろう。

そのような中、作家がある事象に焦点をあてて、瞬間の移り変わりを的確にとらえた場面があるとする。そういう箇所では、できる限り語順に忠実な翻訳を試みることで、原文に近い時間体験を追うことができるかもしれない。

小さな音が窓ガラスにして、なにか当たった気配がしたが、つづいて、ばらばらと軽く、まるで砂粒が上の窓から落ちてきたかと思うと、やがて落下は広がり、ならされ、一定のリズムを浴びて、流れだし、よく響く音楽となり、数えきれない粒があたり一面をおおうと、それは雨だった。
第一篇《スワン家の方へ I》岩波文庫, pp.230-231

Un petit coup au carreau, comme si quelque chose l'avait heurté, suivi d'une ample chute légère comme de grains de sable qu'on eût laissés tomber d'une fenêtre au-sessus, puis la chute s'étendant, se réglant, adoptant un rythme, devenant fluide, sonore, musicale, innombrable, universelle : c'était la pluie.
(Folio-1924 p.100)

深い思索が繰り広げられているとか、小説の重要な伏線が描かれているといった、何か重要なことがとくだん盛り込まれているわけではなさそうだ。日常によくみられるほんの数秒の出来事を描写しているだけにみえる。けれども、語順に注目して観察してみると、そこには作家の類いまれなる感受性が露見してくる。ここでは、語順が感覚の推移を反映している。眼だけではなく、耳にも鋭い知覚をもった語り手が(それを実際に言葉にしたプルーストという作家が)、ほんの一瞬の出来事を、つまり、何か音がしてそれが何かと分かるまでの一瞬を、見事に表現した例だと思う。訳者もその意図をくみ取って、何気ないこのような文章を注意深く訳出したのだ。

〔参考〕
  • プルースト『失われた時を求めて I』吉川一義訳(岩波文庫)訳者あとがき
  • 吉川一義『プルーストの世界を読む』(岩波書店)  

2019/04/04

デュラスを読みながら

『モデラート・カンタービレ』はもう一度読んでみたい。作家の肉声が直に伝わってくる『エクリール』は忘れがたい印象を与える。おそらく今後も機会を見つけて、デュラスの作品を読むことはあるだろう。

「それならば、あなたはマルグリット・デュラスが好きなのですね」と問われたら、なんとなく、返答に困ってしまう。デュラスと向かい合うと、何か曖昧模糊とした、恐怖ではないけれどもその兆しを思わせるような感覚が心中にただようのである。この感覚は、読書の快楽とは別のものように思われる。

***

... 見渡す限り、周囲には何もない... 山の稜線も、丘の盛り上がりさえも目には入ってこず、ひたすら平たい草原のようである... 草原だと気づくのは、足下に茂みの感触があるからであって、果たして草原が広がり続けているのか、本当のところは分からない... 地上は、わずかに灰色がかった白い霧のような空気で満たされ、明るいが陽光は白い空気にさえぎられている... しかし、肌には生温い感触がまとわりついて離れず、わずかに汗ばんでいる... どうも、霧が立ち込めているのでもないらしい... 数歩進むと、草叢が禿げて少しぬかるんだ土が足の裏を汚す... そばには湖のような河があり、渡るのをためらわせるほどに静かで威圧的に流れている... もしかしたら、河の水が爽快な感覚をもたらしてくれるだろうかと、足先を浸してみる... だが、不快だけが胸にまでたちのぼるのだった... おそらく広大な、この未知の空間で一人、私はほとんど身動きができない...

***

私たちは、お気に入りの作家について、あらかじめ「よく知っている」。よく知っているから、新しい作品を次々と読み続けられるし、同じ作品を繰り返し読むことにも、あまり疑問を抱かない。それは知識や学究的な理解よりも、共感とか親しみやすさといった情緒的な意識に近いのかもしれない。...プルーストやビュトール、シムノンを、"私"は「よく知っている」... しかし、デュラスはちがう。いくら作品に触れても、"私"はデュラスを「よく知らない」。問題なのは、よく知らないのであるならば放っておけばよかろうと思うのに、作家におもねるかのように、その作品につい手が出てしまうことである。"私"は一体、デュラスに何を求めているのだろう。

〔読んだことのある作品〕
- 『モデラート・カンタービレ』
- 『夏の午後の十時半』
- 『アンデスマ氏の午後/辻公園』
- 『愛人』
- 『エクリール』
- 『アガタ』
- 『ヴィオルヌの犯罪』
- 『マルグリット・デュラスの世界』(共著)

〔読んでみたい作品〕
- 『青い眼、黒い髪』
- 『太平洋の防波堤』
- 『ラホールの副領事』
- 『破壊しに、と彼女は言う』

数多くのデュラス作品の中でこれらが選ばれたことに、格別な理由はない。近所の図書館に置いてある『ロル・V・シュタインの歓喜』や『あつかましき人々』を読むこともあれば、恐ろしくて、あるいは倦怠がまさって、しばらくはデュラスとは向き合わないかもしれない。そして、たくさん読んだとしても、デュラスを「よく知る」ことになるという保証はない。



2019/03/22

シムノン『証人たち』

シムノンの小説には、等身大の人物、様々な側面を持つ人物ばかりが登場する(こんな言い方は、実のところおかしいかもしれないが)。ロマネスクな人間、つまり、作家が虚構の世界であるという前提にあぐらをかいて、あまりにも現実離れした人物とか、特定の性格だけしか持たない典型的人物などは、一人も出てこない。

その中でも、いくつかの小説では主人公と作者シムノンとの年齢が互いに近く、これはもう、作者自身の心理や境遇をそのまま反映しているのではないか、と思わせるところがある。とはいえ、肝心なのは、書かれたものは、シムノンの内奥に去来した心理や感情にもとづく表出であっても、必ずしもシムノン自身が実際に経験した事実とは限らない、ということだ。われわれはつい、ここを混同してしまうので、気をつけなければならない。

***

『証人たち』は1954年に書かれた。主人公である重罪裁判所の判事ローモンは55歳。作者シムノンも50代に足を踏み入れている。1960年の作『熊のぬいぐるみ(闇のオディッセー)』でも、主人公のシャボは、中年から老年に差し掛かった医師であり、シムノンは57歳。これ以上に迫真の作品は1967年の『猫』。長年連れ添った夫婦のあいだにある隔たり(とつながり)を容赦なく描いた作品で、主人公は現役を引退してすでに久しいことから、60歳前後と思われる。人生の斜陽について考えざるを得ない年齢に差し掛かったシムノン本人の心理そのものが、主人公の心理描写に多分に含まれているのではないかと感じさせるほどの迫力である(くどいようだが、小説の中の老夫婦がシムノン夫妻の生活を映し出している、と言っているわけではない)。

個人的な見解としては、人間の心理・葛藤を題材にした小説は、誰よりも青年が読むためにある、と考えるのだが、これらシムノンの「中年・老年おやじ」が主人公の作品に関しては、老若男女を問わず読むに値する。いやいや、シムノン小説が醸すあの独特の雰囲気は、溌剌とした青年よりも、人生に少し疲れを感じる大人にこそふさわしい。そして、シムノンが20世紀最大の人気作家だったのも、そういったところに読者の共感を呼んだのかもしれない。

(蛇足)
『証人たち』はタイトルからも想像できるように、裁判所(重罪院)が主な舞台である(法廷ものの小説といえば、逆転無罪/有罪を勝ち取る弁護士や検事の方が、ドラマティックな主人公にはふさわしいが、『証人たち』はどちらをも勝ち取る資格のない裁判長であるところが、シムノンらしい)。当時からフランスは、このような刑事裁判で陪審制度を適用している。裁判官と陪審員を合わせた多数決によって評決に達する(有効の最大数はあらかじめ決められている)。日本の裁判員制度に似ているかもしれない。シムノンは当時の陪審員制度にとても懐疑的で、『青の寝室』同様、この作品にも制度への批判がみられる。



ジョルジュ・シムノン『証人たち』野口雄司訳 (河出書房新社)
Georges Simenon, Les témoins (1955)

2019/03/09

ピエール・ド・マンディアルグ『城の中のイギリス人』

澁澤龍彦に生田耕作。錚々たる顔ぶれの人が翻訳しているのだから、きっと面白いに違いない。しかし、彼らが執心した作家となると、無傷で読み了えることは到底できまい... そんな勝手な懸念がピエール・ド・マンディアルグを遠ざけていた。そして、先日公共の図書館で偶然出くわした本書を思いきって開いてみれば、案の定初心者にはかなり「高尚」すぎた次第。

それでも何とか読み切ることができたのは、同じ訳者による『O嬢の物語』(ポーリーヌ・レアージュ)で免疫があったからか、今回も優れた翻訳が牽引してくれたのか、あるいは心の奥底に隠された「黒い神」が共鳴したためなのか。とりあえず、エロティシズムと残酷性を極めた小説というよりは、20世紀版青ひげの物語というのが個人的印象で、それよりも、作家の細密描写の技術の方に興味を引いた。「厳密一徹 Hostinato rigore」にもとづく幻視。

アンドレ・ピエール・ド・マンディアルグ『城の中のイギリス人』
澁澤龍彦訳(白水社)
André Pieyre de Mandiargues, L'Anglais décrit dans le château fermé , 1953/1979

2019/02/16

ヴァレリー『ムッシュー・テスト』

小説であれ評論であれ、その作品を味わい尽くしたいのであれば、きっと、幾度も読み返すのが肝要なのだと思う。『ムッシュー・テスト』を初めて読んだときのこと。理解しようと試みればみるほど、遠くへ押しやられ。もちろん、それはこちらの読解力、「ヴァレリスム」の基本を心得ていないことにきっと問題があったのであり、一回読んだだけでは、読んだことにならなかったのだろう。それでも、ヴァレリーの言葉に戯れたい、言葉が自然に浸み込んでいくわけではないが、かといって上滑りするようにも感じないから、きっと私とは親和性があるに違いない、何の根拠もなく、相手が同意もしていないのに「私たち気が合うね」と言うような、そのような親近感を勝手に抱いていた ──。

《ムッシュー・テストと劇場で》(一般に《テスト氏との一夜》で有名)を読み了える際に、ぼんやりそんなことを想いつつ、《マダム・エミリー・テストの手紙》をめくったら、不純な片思いはすでに見透かされていた。

抽象的なことでも、わたくしには高尚すぎますことも、聴いていて退屈することはありません。まるで音楽を聴いているように、うっとりしてしまうのです。ひとの魂のなかのある部分は、理屈はわからくても物事を楽しめるらしく、わたくしの場合、そういう部分が大きいのです。

あぁ、いまだ憧れの域を出ず。学生時代のある夏、南仏のモンペリエに数週間滞在したことがある。その折、近くにあるセートという町まで遠足をした。ガイドが「ここは、かのポール・ヴァレリーの生地であります」と誇らしげに話してくれたのを聞いて、この辺りはヴァレリーゆかりの土地であることに初めて気づいたのだった。モンペリエ大学の人文学系部門は、その名もポール・ヴァレリー大学である。ヴァレリーはセートの、海の見える墓地に眠っている。自分の通っている大学にヴァレリーを研究している先生いたことなども、そのときようやく思い出した始末。帰国後、『若きパルク』や『魅惑』の翻訳詩集を読んでみた、というよりひたすら字面を眺めた。素敵だけれど手に負えない。原詩を読むのはあきらめた。そして、テスト氏とも出会った ──。その後、ヴァレリーに対してはいまだ憧れの域を出ていない。


ポール・ヴァレリー『ムッシュー・テスト』清水徹訳 (岩波文庫)
Paul Valéry, La soirée avec monsieur Teste (1896)
Paul Valéry, Monsieur Teste (1946)

2019/01/26

シムノン『メグレ、ニューヨークへ行く』

会ったこともない人間にたいして、五千キロも離れた場所から尋問を行なうなどというのは、メグレにとっても初めての経験だった。

文庫版の巻末解説で、井上明久さんが「メグレとくれば、どうしたってパリである」と言っている。「メグレ・シリーズは推理小説であるよりも先に、パリを描いた都市小説である」、「それがニューヨーク、ということになると、ちょっとね、という感じがしてしまう」と。この本を読む前にそのように感じていた読者はおそらく、私を含めてわりと多いのではないかと思う。「ところが、そんなことは浅はかだった。愚かしかった。下手な取越し苦労はしない方がいい。」

自分の庭のようにパリ中を縦横無尽に駆けめぐるのとは異なり、これまで足を踏み入れたこともないニューヨークで、しかもすでに警察を退職した身だというのに、メグレは「捜査」を始める。初めは、到着早々に依頼人が姿をくらましたり、人びとの冷淡な対応あるいは皮肉な調子に、戸惑い憤る。だが、人びとの言動をつぶさに観察し、徐々に真相に迫るにつれて、メグレはニューヨークを闊歩するようになる。ロニョンではないが、「泣き顔のピエロ」とも呼ばれる、世界の不運をまるごと背負ってしまったような探偵にも捜査を手伝ってもらう。その様子はもはや、現役時代にパリで事件を追っていたときの姿と全く変わらない。

同じ頃に書かれた自伝的な小説『マンハッタンの哀愁』も、ニューヨークのマンハッタンあたりが舞台になっており、まだ高級化していないこの界隈を魅力的に描写している。これを読んだとき、シムノン自身がこの町を隈なく歩いて観察し、そのときに体内に取り込まれた感覚や印象が揮発しないうちに文章にしたかのように思えたが、『メグレ、ニューヨークへ行く』にも似たような雰囲気が漂っている気がする。普段と趣は異なるけれど、本作も見事な都市小説に仕立てられている。


ジョルジュ・シムノン『メグレ、ニューヨークへ行く』
長島良三訳(河出書房新社)
Georges Simenon, Maigret à New York, 1947


2018/12/31

2018年に読んだ小説など

  • マルセル・プルースト『失われた時を求めて 12』第六篇「消え去ったアルベルチーヌ」吉川一義訳(岩波文庫)
  • マルセル・プルースト『失われた時を求めて 1』第一篇「スワン家のほうへ I」吉川一義訳(岩波文庫)*再読
  • マルセル・プルースト『失われた時を求めて 2』第一篇「スワン家のほうへ II」吉川一義訳(岩波文庫)*再読
  • マルセル・プルースト『失われた時を求めて 3』第二篇「花咲く乙女たちのかげに I」吉川一義訳(岩波文庫)*再読
  • マルセル・プルースト『失われた時を求めて 4』第二篇「花咲く乙女たちのかげに II」吉川一義訳(岩波文庫)*再読
  • マルセル・プルースト『失われた時を求めて 5』第三篇「ゲルマントのほう I」吉川一義訳(岩波文庫)*再読
  • マルセル・プルースト『失われた時を求めて 6』第三篇「ゲルマントのほう II」吉川一義訳(岩波文庫)*再読
  • ジョルジュ・シムノン『カルディノーの息子』秋山晴夫訳(早川書房)
  • ジョルジュ・シムノン『妻のための嘘』安東次男訳(集英社)
  • ジョルジュ・シムノン『フェルショー家の兄』伊藤晃訳(筑摩書房)
  • ジョルジュ・シムノン『汽車を見送る男』菊池武一訳(新潮社)
  • ジョルジュ・シムノン『証人たち』 野口雄司訳(河出書房新社)*再読
  • ジョルジュ・シムノン『メグレを射った男』 鈴木豊訳(河出書房新社)
  • ジョルジュ・シムノン『メグレ激怒する』 長島良三訳(河出書房新社)
  • ジョルジュ・シムノン『メグレのバカンス』矢野浩三郎訳(河出書房新社)
  • ジョルジュ・シムノン『メグレ式捜査法』谷亀利一訳(河出書房新社)
  • ジョルジュ・シムノン『メグレ夫人のいない夜』佐宗鈴夫訳(河出書房新社)
  • ジョルジュ・シムノン『メグレと首無し死体』長島良三訳(河出書房新社)
  • ジョルジュ・シムノン『メグレと幽霊』 佐宗鈴夫訳 (河出書房新社)
  • ジョルジュ・シムノン『メグレ最後の事件』 長島良三訳(河出書房新社)
  • ジョルジュ・シムノン『メグレと老婦人』日影丈吉訳(早川書房)
  • ジョルジュ・シムノン『メグレと若い女の死』北村良三訳(早川書房)
  • ジョルジュ・シムノン『サン・フィアクル殺人事件』三輪秀彦訳 (創元推理文庫)
  • ジョルジュ・シムノン『メグレ警視と生死不明の男』長島良三訳(講談社文庫)
  • ジョルジュ・シムノン『港の酒場で』木村庄三郎訳(旺文社文庫)
  • マルグリット・デュラス『モデラート・カンタービレ』田中倫郎訳(河出文庫)*再読
  • マルグリット・デュラス『ヴィオルヌの犯罪』田中倫郎訳(河出文庫)
  • パトリック・モディアノ『暗いブティック通り』平岡篤頼訳(白水社)
  • アガサ・クリスティ『ねじれた家』田村隆一訳(ハヤカワ文庫)
  • E.C.R.ロラック『悪魔と警視庁』藤村裕美訳(創元推理文庫)
  • D.M.ディヴァイン『そして医師も死す』山田蘭訳(創元推理文庫)
  • ディーノ・ブッツァーティ『タタール人の砂漠』脇功訳(岩波文庫)
  • ディーノ・ブッツァーティ『七人の使者・神を見た犬 他十三篇』脇功訳(岩波文庫)
  • ディーノ・ブッツァーティ『神を見た犬』関口英子訳(光文社古典新訳文庫)
  • ディーノ・ブッツァーティ『古森のひみつ』川端則子訳(岩波少年文庫)
  • イタロ・カルヴィーノ『まっぷたつの子爵』河島英昭訳(岩波文庫)
  • マイ・シューヴァル、ペール・ヴァールー『サボイ・ホテルの殺人』高見浩訳(角川文庫)
  • 夏目漱石『草枕』(新潮文庫)
  • 筒井康隆『旅のラゴス』(新潮文庫)
  • 久生十蘭『墓地展望亭・ハムレット 他六篇』(岩波文庫)
  • 江戸川乱歩『江戸川乱歩作品集 I』浜田雄介編(岩波文庫)
  • 鹿島茂『ナポレオン フーシェ タレーラン 情念戦争 1789-1815』(講談社学術文庫)

夏まではあいかわらずのシムノン祭り。一方で、春過ぎから『失われた時を求めて』を第一篇から読み直しているところ。いつもは濃密な『スワン家のほうへ』で満足してしまうのだけど、いまのところなんとか再読が続いている。新たな収穫は、ブッツァーティの発見。幻想的な『タタール人の砂漠』の印象が強いけれど、この人の本領はむしろSF的な短篇群で、そういう味わいをひさしぶりに堪能した。

小説ではないが、エリチエの『男性的なもの/女性的なもの』を一旦は読んだものの、もっと落ち着いて読もう、と思いつつ中断。それから、にわかにモラリスト帯びてきて?、ラ・ロシュフコーなどもちびちびと読んでいる。

2019年は、岩波文庫から出ている『失われた時を求めて』がいよいよ完結。嬉しいような、寂しいような?

〔参考?〕2017年に読んだ小説など

2018/12/01

シムノン『カルディノーの息子』

ユベール・カルディノーは、職人の父と、ブルターニュから出てきて缶詰工場で働いていた母とのあいだに生まれた。いわゆる下層階級の出身である。それでも彼は子供の頃、ほかの兄弟とは異なり、自分は将来「労働者にも、職人にも、商人にも」ならず、「多少とも鷹揚な生活をするだろうということ」を直感していた。そして、勉学に励み仕事に成功して(保険業者の右腕として働いている)、今では比較的裕福な地域に居を構え、妻と二人の子どもとともに暮らしている。教会のミサでも、貧しい人々や旅行客が群がる末席にではなく、名士たちのように黒い服を着て参列する。カルディノーの息子、つまり貧しい出自でありながらも、懸命に努力して上昇を図った彼に、町の人々は軽蔑と敬意が入り混じったような心持ちで、毎日挨拶を送る。
彼は満足だった、彼自身であることに満足だった、この同じ教会で初めて聖体拝受をしたときから自分のして来たことに満足だった、結婚して以来自分のして来たことに満足だった─
だからこそ、ある日曜日、教会から帰ってきたとき、いつも昼食の支度をして待っているはずの妻のマルトが家にいないことに、カルディノーは激しく動揺するのである。慌てて双方の実家に駆け込むが、マルトはいない。しかも、義父母だけでなく自分の両親にさえも、心配されるどころか、妻に逃げられた憐れな男としか見られない。カルディノーは独り静かに涙ぐむ。しかし、やがて彼は、マルトを探して家に連れ戻そうと決意する。

***

小説は、フランス南西部ヴァンデ地方にある町レ・サーブル=ドロンヌを舞台の中心にしている。美しい白浜の海岸で知られ、夏には多くの観光客で賑わうだけでなく、「シムノン祭り Festival Simenon」という催しが毎年開かれている。シムノンは第二次世界大戦が終わるまでの約五年間ヴァンデ地方に住み、多くの傑作を生んでいる。メグレ夫婦も、休暇でレ・サーブル=ドロンヌに訪れている(『メグレのバカンス』)。

端的に言えば、『カルディノーの息子』は失踪した妻を探す物語である。妻が家を出た日曜日に始まり、主人公のユベールがレ・サーブル=ドロンヌの町だけでなく、ラ・ロシェルやラ・ロッシュ=スュル=ヨン、マレイユ(=スュル=レイ=ディセ)など、近郊の各所に足を伸ばして、手がかりを見つけては妻の足跡をたどっていく一週間の様子が描かれる。日に日に真相が見えてくるのと同時に、ユベールの心境も明らかになっていく。メグレ・シリーズの作家らしくミステリー仕立ての構成になっている。また、オルフェウスの冥府下りを下敷きにして、日々の不安と孤独に苛まれる現代人を描いていると解釈してもよいかもしれない。

ユベールはなぜ、消えた妻をなんとしてでも見つけ出そうとするのか。妻を愛しているからなのか。世間体を守るためなのか。シムノンのほかの傑作に比べると、心理描写に少し物足りなさが感じられるものの、マルトの失踪の謎以上に、言外からユベール自身の内心を解き明かしてみることこそ、この小説を読む醍醐味なのではないかと思う。さらには、小説には描かれていないが、一方のマルトはどんな心境でユベールから去ったのだろうと想像してみるのも面白い。

〔画像〕レ・サーブル=ドロンヌの海岸

シムノン『カルディノーの息子』秋山晴夫訳(早川書房)
Georges Simenon, Le Fils Cardinaud (1942)

2018/11/17

ジッド『贋金つくり』

『狭き門』や『田園交響楽』を読んで、「ジッド・アレルギー」のようなものが発症した。彼の描く白い世界 ─ 雪や雲といった自然の白さではなく、西欧家屋の外壁の白さに近い ─ に、どうにもなじめなかったようだ。宗教観にもとづく説教じみた語り口に嫌気がさしたのか、アリサ(『狭き門』の登場人物)の末路に不満がのこったからなのか。(作品の性質は違うけれど、島崎藤村の『新生』を読んだ時も同じような感覚に襲われ、以来藤村は一冊も読んでいない。)

それでも『贋金つくり』を手にしたのは、シムノンの小説をいくつか読むうち、訳者のあとがきなどでジッドの名前を何度も聞くようになったからだ。ジッドは『雪は汚れていた』や『家の中の見知らぬ者たち』などにみられるシムノンの透徹した心理分析を高く評価しており、そんな大家の作品をもう一度読もうという気になったのである。
小説家は、通常、読者の想像力に十分の信頼を置いていない。
これは、ジッドの「純粋小説」志向を表した有名な一節。小説に特に属するものではない要素は、小説から除去するということ。つまり、他の芸術にできること(たとえば映画)を小説のなかで無理に書き込んでも、陳腐になるだけということだろうか。ジッド(正確には本作の作中人物エドゥワール)は、人物描写でさえも小説ジャンルに特有の要素ではないと考えている。そういった「余計」なものは読者の個々の想像力に委ね、作家は小説の純粋性を追求することが大事。いまでは小説を書く方法としてはさほど特異でもないこの認識を、『贋金つくり』は初めてきっぱりと宣言した、記念碑的な作品に目されている。

従来の小説とは異なる実験的手法を用いているとか、「ヌーヴォー・ロマン」の先駆といった前評判に、少し構えていたものの、実際に読んでみれば、それほど目新しさは感じなかった。複数の人物が登場し、物語の展開が一見錯綜しそうだが、今日ではそのようなドラマや小説はたくさんあるので、それらに比べれば、むしろ洗練されていて分かりやすい小説だった。

もし、『狭き門』や『田園交響楽』よりも先に『贋金つくり』を手にしていたら、ジッド・アレルギーは起こらなかったかもしれない、と読後に感じた次第。ちなみに、本国では告解的な作品よりも、『贋金つくり』の方がよく読まれているらしい。

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最近、筑摩書房から新訳の『アンドレ・ジッド集成』二宮正之訳が刊行されている。第4巻には『贋金つくり』が収められているというので、もう一度読んでみよう。

〔参考〕SYUGO.COM ... 人物相関図が掲載され、小説のナビゲートにもなる。


アンドレ・ジッド『贋金つくり』川口篤訳 (岩波文庫)
André Gide, Les Faux-Monnayeurs (1926)

2018/11/10

ラクロ『危険な関係』

ラクロの『危険な関係』を読んだ。最初は物事が遅々として進まない印象だったのが、辛抱して読み続けるうちに段々と、これは凄まじい小説だと気づいた。非道な恋愛ゲームというのは確かに魅力的なテーマ。それ以上に、手紙のやり取りだけで、端的には説明されない事柄・心情を読者に強く・確実に伝えてくる力に圧倒された。


個人的には、小説よりも先に、ジェラール・フィリップとジャンヌ・モローが主演した映画を観たのだけど(何と作家のボリス・ヴィアンも出演している!)、そのときはフィリップの美貌に見惚れる以外、さほど感心しなかった。改めて思い返してみると、時代設定をただ移し替えるだけでなく、小説をよく読み込んで制作したのだと思う(監督と脚本はロジェ・ヴァディム)。

とはいえ、やはり書簡の体裁だからこそ、肌に刺すように浮かび上がってくる「危険な関係」なのかなとも。くどいけれど、『危険な関係 』はまったく物騒で凄まじい小説である。

〔画像〕映画『危険な関係』の主演ジャンヌ・モロー(右)とジェラール・フィリップ。

ピエール・ショデルロ・ド・ラクロ『危険な関係 』竹村猛訳(角川文庫)
Pierre Choderlos de Laclos, Les Liaisons dangereuses (1782)

2018/11/03

サンドラール『世界の果てまで連れてって』

『世界の果てまで連れてって』はサンドラール晩年の作。あってないようなストーリーの中、さまざまな形相の、本からその体臭が伝わってくるような人々が、のべつまくなし舞台に踊り出ては、はけてゆく。打ち寄せては返す波のよう。単語を並列するだけで、一人の人間を、オブジェを、情景を創り上げてしまう。『世界の果てまで連れてって』は、詩人の筆による小説なのである。

けれども、ただの支離滅裂な物語ではないことは、以下の示唆に富んだ数節でも明らかだ。そして、サンドラールもフランス随一のモラリストなのである、などと言ったら怒られるだろうか。
だけど、人間なんて哀れなもんさ、片道だけの旅……親父はひと身上こしらえたよ。おかしな商売さ……戻ってくる奴はいない。それが死さ。《黒い太陽》。だけど強烈な光。ぼくは芝居に使うのはそれなんだよ。ほんものよりもっとほんものの光、それがぼくの唯一の秘訣というわけさ。おそろしい静けさ。厳粛な……始まらないうちから芝居は終わっているようなものさ……
...
劇場は一つの世界だ、現実と幻影とのあいだでその境が定まることない《広大にして、微妙な》世界、その結果は虚偽と真実のいずれかが上位を占めるかいつの場合にもきめがたい。こうした不安定な世界に参加する人間にとっては、その不動性が日常生活の中にまで溢れ出し、いつ生身の人間が演劇人の外皮を突き破るか、いつ巷の人間の仮面の下から役者が顔を出すか容易に見当もつかない。
...
「人間」、そしてその欲望。
「人生」、そしてその小道具。
「芝居」だけが唯一の現実だ。
 いずれにしろ、抽象なんてありえない、変身も、暗喩も、形而上学も。「人間」があるだけ。
 人間は一回ごとに一つの啓示である。
...
ギイの芝居は、あふれるばかりの勢いに充ち、均斉を欠き、現実の断片と、対立とだけで組み立てられた芝居、廃物の山、まだ使いものになるスクラップ、もはやまったくそぐわなくなった既成モラル、事件は急速度(ピッチ)で展開し、シチュエーションは不安定で、登場人物は自分をひけらかすひまもない。
生きることの幸と、不幸、自分を笑いとばす人生、こんなに年若い、経験のない人間の口からもれる残忍な笑い……あのチンピラは、どこでこんなものを見つけてきたのか?
...
なんて鬱陶しい馬鹿げた話だ! フェリックス・ジュアンはうんざりしていた、が内心、自分にたいしてまんざらでもなかった、それに騙される者同士の対話、ときどき嘘で固めた滑稽きわまるものに変わる、その縺れ(もつれ)のなかで対話者が双方足場を失いかけた先ほどの対話が進展した意外な方向を思い出して、にんまり笑うのだった。
...
いったいブレーズ・サンドラールがよくわたしに話してくれたすばらしいエロ劇場はいつになったらパリで開かれる日がやってくるのかしら?
...
わたしはただあんたに自身を取り戻させたかったの、というのは、わたしの人生はめちゃくちゃだったけど、ともかく、侮辱を耐え忍ぶよりは忘れ去ったほうがましだということのいい証明になるからよ。
侮辱を耐え忍ぶなんてどこから手をつけていいかわからないことだし、なにかしらあとに残るものよ、やりきれないもどかしさとか、疼くような後悔とか、心臓や足の裏に棘が突き刺さっているような心残りな気持だとか、けっきょく、歩くたんびに、息をするたんびに嘆かずには暮らしていけなくなるものよ。
...
行為だけが人間を解放するので、人間の思想なんてものは挫折した行為の産物よ。
...
マルセル・プルーストのほうは、作品が完成したとき、自ら進んで餓死を選んだ、なんて話わたしにはとうてい信じられないわ、ブレーズ・サンドラールはプルーストが死んだ翌日、そのことをわたしに証明してみせようとしたけど、こんなふうに言ってね。《『見出された時』が書店に現れたとたんに、マルセルは消え失せるほかなかったんだ、もうなにも語ることがなくなり。自分の人格に注意を引きたくないために、自殺という手を使えず、この男色家は病気を口実にして、餓死の途を選んだんだよ。これは彼のスノッブとしての最後の洒落っ気、彼の人生、無心論者たる彼の作品の論理的帰結で・・・・・・》
でもたった一度だけ夜中の三時頃にオスマン通りのプルーストの家を訪ねたことがあるけど、それこそ牡牛みたいに逞しい感じだったんだもの。はっきり見たわけじゃないけど。
強烈で、気の狂った、激痛の走る、汚辱にまみれた、無秩序で、反抗的な、虐げられた人々のための、優しく哀しい小説。

〔画像〕モディリアーニ画によるサンドラールの肖像

ブレーズ・サンドラール『世界の果てまで連れてって』
生田耕作訳 (福武文庫)
Blaise Cendrars, Emmène-moi au bout du monde !...  (1956)

2018/10/20

デュラス『夏の夜の十時半』

マリアは何かに向かっている、何かを迎えようとしている。けれどもそれは、気楽に向かっていけるものではないし、安々と迎えられるものでもない。彼女はだから、酒を飲む。朝から晩まで、マンサニーリャ(辛口のシェリー酒)をあおり続ける。それは一見、逃避、瞬間的な忘却の断続、許される限り何かを遠ざけようとする行為のようにもみえる。だが、マリアにとって、それは歓待の儀式なのだ。迎え入れるための準備(の準備(の準備)...)...。マリアはそれを繰り返す。

ただそれだけのことであれば、小説をとおしてマリアを目撃することはなかったであろう。『モデラート・カンタービレ』の作者がそんな小説を書くことはなかったであろう。夏の夜の十時半。あの時間に起こったこと、あの時間にマリアがそこにいたこと、あの時間にマリアの意識に流れ込んできたもの、それらが「儀式」の実現をもたらすに至る。その時間がやってこなければ、何かがもたらされることのない儀式の準備を、われわれの知らないところで、マリアは延々と繰り返しているのではないだろうか。


マルグリット・デュラス『夏の夜の10時半』
田中倫郎訳 (河出文庫)
Marguerite Duras, Dix heures et demie du soir en été (1960)

2018/10/13

デュラス『モデラート・カンタービレ』

樹のない町に住まなきゃだめね 風があると樹の音がするでしょう しかもこの町じゃ年じゅう風が吹いていて 風のない日といえば一年に二日ぐらいしかありゃしない わたしがあなたの立場だったらこの町から出て行くわ こんなところにいやしない 鳥といえば ほとんど海鳥ばかりで 嵐の後にはよく屍体がころがっている 嵐が止んでようやく樹の音がしなくなったと思えば こんどは鳥が浜辺でのどを締められたみたいな鳴き声を出して子供が寝ることもできやしない わたしならこんなところから出て行くわ
人はみな、自分のことは自分自身がいちばんよく分かっているものだ、と果たして言い切れるだろうか。


生活に困っているわけでもなく、むしろ社会的には恵まれているはずなのに、奥底に沈殿しているような不安があり、絶えず寂寞とした感覚に支配されている。気づけば、そんな状態に自分が置かれていることを承知していながら、それが一体何を意味しているのか、自分が何を求めているのかは、一向に判然としない。そういう意識は小説の主人公に限らず、おそらく誰にでもあるだろう。

ところが、一つの非日常的な事件が契機となって、自分の心は激しく動揺する。そのときはまだ、動揺の正体は見えていないのだけれども、自分自身の中で決定的な、しかももう後戻りのできないような変化が起こったことに気づくのである。そんな不安定な状態の下、今まで話したこともない赤の他人なのに、自分の心持ちを見透かしているような「理解者」が現れたら。そして、その人と対話を重ねてゆくうちに、杳然としていた自分自身の意識が次第に明るみになってしまったら。その結末は、おそらく誰でも同じ、ということにはならないだろう。
外では、初春の夕闇のうちに、庭園の木蓮が、その葬儀ともいうべき開花に精を出している。
『モデラート・カンタービレ』は、油断のできない小説である。ごく普通の現実世界の描写のはずなのに、どこか浮世離れした美しい風景に心をゆだねていると、突如として「現実」の矢が放たれ、ぐさりと心を射られてしまう危険があるのだ。その文章がたとえ夢想的な雰囲気を醸し出すとしても、デュラスは決して、日常生活から遠く隔たった世界を小説に描こうとはしていないのである。

〔画像〕映画『雨のしのび逢い』の主演ジャンヌ・モロー(右)とジャン=ポール・ベルモンド。


マルグリット・デュラス『モデラート・カンタービレ』
田中倫郎訳 (河出文庫)
Marguerite Duras, Moderato Cantabile (1958)

2018/09/29

シムノン『離愁』

第二次世界大戦中の出来事を語った小説。原題のタイトル « Le Train » が示すように、列車で起きる事柄を中心に物語が紡がれます。『仕立て屋の恋』と同じく、『離愁』の邦題で公開された映画(ロミー・シュナイダー、ジャン=ルイ・トランティニャン主演)のほうが有名かもしれません。

(小説のイントロダクション)
1940年5月10日、ベルギーとの国境に近い北フランスの町フュメ。ついにナチス・ドイツがオランダ、次いでベルギーへの侵攻を開始し、主人公マルセルは南へ向かう列車で疎開に発つ。老人、妊婦、幼い子どもは客車に、あとは貨車に詰め込まれたため、妻子と離れ離れとなった彼は、列車の中で一人の女性と出会う。はじめは視線を交わしていただけの二人は、次第に強く求め合うようになる。

戦争という異常事態がもたらした運命のいたずらなのか、それとも、心の奥底に燻っていた欲望の発露なのか。この小説はマルセルという登場人物によって叙述されます。一人称形式を採用しているのは、シムノン作品には比較的めずらしいかと思いますが、自伝的な要素が濃いからかもしれません。ある個人の視点で語ることで、迫りくる戦争の雰囲気と、戦争に(運命に)対峙する主人公の心理が一層よく伝わってきます。

***

今、自分は生命の危機に瀕しているのだと悟ったとき、人はパニックになるどころか、頭の中には心地よい涼風が舞うほどに、きわめて従容に振舞えるのかもしれません。しかし、それは理性がもたらす冷静さなのでしょうか。マルセルの告白には、理性による泰然というより、取り巻く環境 milieu に適応しようとすることで、生命を持続させようという野生的な直観 intuition が働いているように思います。
しかも戦争が勃発した日、わたしが心の高揚を感じたということは、やはり本当のことである。自分でも高ぶる声で、「来るべきものだったんだ」を言ってしまってびっくりした。
...
政治ではなかったのだ。偽りの沈静化の一年後にとつぜん爆発したこの戦争は、運命とわたしとの間の個人的な事件だったのである。
...
わたしはわたしの生活が根ざしていたものを失ったばかりだった。わたしはもう、ムーズ河からそれほど遠くないフュメイ(フュメ Fumay )のかなり新しい街のなかで、ラジオ器具商であったマルセル・フェロンではなかった。人々の力を超える力によって、その意志のままに流され漂わされていく、何千万の人間のなかの一人だったのである。
...
引き戸の近くにいた人びとは、見ることのできた空の一部をじっと見つめるだけだった。いつものように抜けるように青い空に、ドイツの飛行編隊がとつぜん現れて、この駅を爆撃しないかと考えながら・・・・・・。
...
一つの亀裂ができた。それは過去がもう存在しないということを意味するものではない。またわたしが家族を否定したということでも、妻や娘を愛さなくなったということでもけっしてなかった。
ただ、不確定なある時間、わたしは別の平面上に生きていただけなのだ。そこにあったのは過ぎ去った生活を支配していた価値とまるで違った価値であったのだ。
...
男たち、女たち、子供たちが、われわれの列車の機関士がうつけた目を青空に向けてひらっきぱなしで死んだように、死んでいったろう。また他の人たちは、赤く滲んだハンカチを顔にあてがっていた老人と同じように、血を流しており、肩をむしられた女と同じように、うめいていた。

「悟り」というものは、例えば静寂に包まれた寺院の中で内側に集中しているときよりも、視覚だけでなく嗅覚や聴覚、五感がフル回転している状態のときに、不意にもたらされるものかもしれません。
なぜ、今日、世界は新しい味わいを持ったのだろうか。自分の息を取り戻しながら、わたしはジャムつきパンの周りを飛び回る一匹の蜜蜂を見つめたとき、その蜂の唸りにまで、昔の味わいを思い出していた。
...
海の色は空の色と溶け合い、光を反射して、太陽が空にも海面にもあるかのようだった。もはや、どこにも限界がなく、わたしの心に無限という言葉がほとばしり出た。
...
樫の木の樹蔭に、茶色い斑のついた牝牛がひっきりなしに湿った鼻面を動かして寝そべっていた。しかしそれは、もはや見慣れた動物であることをやめ、またごく日常の風景ではなくなり、新しい意味をもつものに変わろうとしていた。
なにに変わろうとしていたというのか。言葉がみつからない。わたしは表現がへただ。牝牛を見ながら、危うく目に涙があふれそうになった。

シムノンは、陳腐な恋愛小説家のように、戦時で燃え上がる愛が真実であるとかないとか、そういった野暮なことを滔滔と述べたりはしません。生きている限り、こういうことは起こりうるのだという可能性を提示しながらも、そこに後付け的な意味、それがあたかも人生の目的であったような恣意的な結論を見出そうとはしないのです。(だからといって、シムノンが受動的な運命論者と言っているわけではない。)
最初のときも、わたしの心の奥底で、同じように好きだと言った。おそらく、わたしが愛したのは彼女ではなかったのだ。おそらく人生だったのだ。わたしはどう言ったらいいのかわからない。わたしは彼女の人生のなかにあった。そして、できたらそこにとどまっていたかった。太陽に照らされた植物のようになりながら、ほかのことは何も考えなかった。
...
わたしは運命と出会ったと考えることで、自分を欺いていた。
...
愛などということを語る考えは、わたしたち二人の頭に浮かびさえしなかった。今になっても、あれが本当に愛だったのかわたしはいぶかっている。愛などというものは、この言葉が世間一般に使われる意味の範囲内で語られればよいことだ。わたしがアンナに抱いている気持は、はるかに重いものだったのだ。
...
何がおころうとしているのか、わたしにはわからなかった。だれも、それを予見することはできなかった。わたしたちは、通常の生活空間の外側で、幕間を生きていた。そしてわたしは、そうした日々と夜々を、がつがつと貪り、味わい尽くしていたのだった。
...
過去もなく、未来もなかった。わたしたちが、ふたり一緒に貪欲なまでに求め味わっていたもろい現在のほかには、何もなかった。

ジョルジュ・シムノン『離愁』谷亀利一訳 (ハヤカワ文庫)
Georges Simenon, Le Train (1961)

2018/09/15

ビュトール『即興演奏』

『ミシェル・ビュトールについての即興演奏 ─変容するエクリチュール』

ミシェル・ビュトールによるミシェル・ビュトール論。タイトル通りに即興曲風 impromptu な体裁で書かれているが、ロラン・バルトの作品のように格別工夫を凝らした自叙伝ではなく、大学講義の録音を文字に起こしたものだという。

ロラン・バルトには『ロラン・バルトによるロラン・バルト』や『明るい部屋』など、自叙伝を意識した書物がある。ビュトールのような方法的な作家がバルトの方法意識に興味を抱かないはずはないとは思うが、ビュトールがバルトをどのように考えているのかは、寡聞にして知らず。バルトの方はビュトールの作品をたびたび擁護していたというから、無関心だったことはないと思う。ちなみに、『即興演奏』はほかにもフローベール、アンリ・ミショー、ランボーをめぐったものも書かれている。

本書では、作家ビュトールのこれまでの道のりを振りかえるほか、翻訳や小説のあり方など、彼が文学をどのように意識しているのかを知ることができる。さらに注目すべきは、自らが書いた小説について解説を施しているところだ。とくに、決定的な成功をもたらした『心変わり』や『時間割』では、作品内部のからくりをわりあい事細かく説明している。自身の小説を主題に語ることを著者はどこか楽しんでいる様子。ただし、小説4作品のうち、『段階』に関してはあまり語っていない。かなりの長篇で登場人物の相関もけっこう複雑なのだが。

ところで、著者の小説解題に、一介の読者としては若干不満に感じるところがあり。ビュトール小説の最大の魅力は、テクストの網の目を通して作品のメカニスムを解読するところにあるように思うのだが、作家はその「秘密」を暴露してしまった、という印象を受けたのだ。ビュトールは、小説は作家によって一方的に与えられるものであったり、読者によって受動的に消費されるものではなく、 読者に積極的な読み解きを要請することで、読者自身が作り上げるべきものである、と主張していたはずだから、何となく、裏切られたように感じてしまったのである。

もし、これは読者への背信ではないのかなどと糾したら、ビュトールは次のように弁明するかもしれない。「これらのエクリチュール(ビュトールの小説群を指す)は、 私以外の読者の存在が成立した時点(たとえば出版された段階)で、私の手から離れ、 著作権という社会的な約束事をのぞいては、もはや私の所有物ではなくなりました。あとはただ、エクリチュールの生成過程に直に立ち会った者として、その経緯(いきさつ)や作品に施した少々複雑な機関について、その一部を読者に提供したに過ぎないのです... 」こんな勝手な妄言でも、ビュトール氏は優しい父親のように宥めてくれるような気がする...。とりあえず、生みの親にはかなわない?

小説の読み方はさまざまあって、一通り作品に触れたあとに著者の解題を読んで、自分の読解/解読と突き合わせてみるのも楽しいし(図らずも、私の場合はこのケースにあたった)、その逆からアプローチするのも良いと思う。さらにもし、著者自身さえ気づかなかったメカニスムなどが発見できたとしたら、これ以上に面白い読書はないだろう。

ミシェル・ビュトール『即興演奏(アンプロヴィザシオン) ─ビュトール自らを語る』 
清水徹・福田育弘訳(河出書房新社)
Michel Butor , Improvisations sur Michel Butor - L'écriture en transformation (1993)

2018/09/01

シムノン『メグレと無愛想な刑事』

メグレ・シリーズにロニョン Charles Lognon という刑事が出てくる。日本の刑事ドラマにたとえると、メグレが「警視庁捜査一課の課長」だとすれば、ロニョンは「所轄の刑事」といったところ。ロニョン登場作品は次のとおり(*)。
  • 『メグレと無愛想な刑事』(1947)  
  • 『モンマルトルのメグレ』(1951)
  • 『メグレ警視と生死不明の男』(1952)
  • 『メグレと若い女の死』(1954) 
  • 『メグレ罠を張る』(1955)
  • 『メグレと優雅な泥棒』(1961)
  • 『メグレと幽霊』(1964)
(*) メグレ・シリーズではない « Monsieur la Souris » (1937) という小説にも登場する。

彼はパリ第9区のラ・ロシュフコー通りにある警察署に勤務しており、モンマルトルのコンスタンタン・ペックール広場沿いのアパルトマンで病気がちで家に籠もりきりの妻と暮らしている。同僚からは「無愛想な刑事」と呼ばれている。彼がそう呼ばれるのには理由がある。
ロニョンは事件を担当するたびに運が悪かった。彼がいよいよ逮捕状を執行しようとする時に、犯人に有力者の後ろ盾があって、放っておかなければならないと分かったり、それでなければロニョン自身が病に倒れて、同僚に事件の引き継ぎをしなければならなかったり、昇進の悪い予審判事が事件の解決を自分の出世に利用してしまったりしたのだ。
『メグレと無愛想な刑事』新庄嘉章訳
ロニョンは有能な刑事で「これほど良心的で、これほど正直な男もいない」のだが、不運続きがそうさせたのか、「疥癬にかかった犬のように、すぐ人につっかかって行くような性質」で、「歩く姿から見ても、彼は運命の重さに両肩を押しひしがれているようだった。」彼をよく知らない人にさえ、「非常に悲しそうな様子をした、背の低い人で、風邪を引いているのだとわかるまでは、その方が奥さんをなくして泣いている」のだと思われる。「彼は完全に風邪をひいていて、声はしゃがれ、絶えずポケットからハンカチを出していた。が、そのことで愚痴は言わなかった。彼は、今日までの人生に苦しみ、さらに残りの人生でも苦しむだろう人間の、あきらめきった様子をしていた。」アメリカのギャングに殴られたり、深夜に何者かに襲われたりと、ロニョンは可哀想な役回りを強いられている。

ロニョンが不運なのは、少なからず自業自得なところもあって、手柄を立てようと焦るあまり、捜査状況を知らせなかったり単独行動に走ったりして(反面、妙に杓子定規なところもある)、それが裏目に出てしまうのである。何かミスをやらかしたときには卑屈な態度に出るのだが、それは他ならず傲慢の一種であることをメグレは見抜いており、「この人間を助けてやりたいという気力をなくさせてしまう。」何より、人からの思いやりや気遣いを素直に受け取れないのは、人間不信に陥っているからというよりは、メグレのように、たとえ犯罪者であっても相手の心持ちを悟ろうとする努力をロニョン自身が怠っているからのようにも見受けられる。他の者にはみせないほどにメグレがロニョンに気を遣って声をかけても、ロニョンの方は、いちいち自分に瑕疵があると非難されているように受け取る始末である。

世の中には、自分自身をまっすぐ省みず、不遇を何かと周囲や他人のせいにする人がいるが(そういう人はたいてい無愛想である)、ロニョンにもそういう一面が垣間見える。個人的にはあまり好きな登場人物ではないのだけれど、作者シムノンにとってはおそらく、メグレ以上に、ロニョンのような人物に関心があり、強く共感さえしている節がある。そういう訳だから、メグレはロニョンが憎めず、彼をいつも気遣い労ってやるのだろう。そして、ロニョンを観察していると、哀愁を帯びているようで半ば喜劇的な人物を発見するのと同時に、メグレという、他者に優しく度量の広い魅力的な人物が改めて浮かび上がるのである。

〔補足〕
文中の引用は『メグレと無愛想な刑事』のほか、『メグレと若い女の死』『メグレ警視と生死不明の男』(長島良三訳)から。


ジョルジュ・シムノン『メグレと無愛想な刑事』新庄嘉章訳(早川書房)
Georges Simenon, Maigret et l'Inspecteur malgracieux (1947)