ずっと前から、彼は何か破局が起こることを予想していた。それも、ちょうどこんな瞬間に生ずる破局を予想していた。
モーリス・デュドンは長年同じアパルトマンの一室に独りで暮らしている。一人の友人もなく、今だかつて一人の恋人もなく、誰も彼の部屋に入ったことがない。食事も外でとらない。勤め先から離れているパリ14区のサン=ゴダール通り沿いに住んでいるのは、目の前が鉄道の線路で、向かい側の住民と顔を突き合わせるということがないからであろう。
デュドンはマラール氏の会社で経理をしているのだが、毎週金曜日、帳簿をごまかして1,000フランから2,000フラン盗んでいる。その金を持ってショロン通りにある娼館に行く。そして、その後彼は教会に寄る。金に困っているわけでもなく、強い欲望に取り憑かれているわけでもないようだ。彼は罪を犯し続け、その罪が暴かれて罰を受けることを待ち望んでいるのだろうか? それは、カトリック信者として敬虔であれという口実のもと、母親に抑圧的に育てられたことが原因なのだろうか?
そして、金曜日。いつものようにマダム・ジェルメーヌのところへ行った後、建物から出てまもなく、デュドンは車に轢かれて瀕死の重傷を負う。「毎週金曜日、ショロン通りを離れるときには、いつも告解をする習慣だったのに、今度は運悪く、そうするひまがなかった。彼は罪にまみれていた。罪でべとべとに汚れているような気持ちだった。」一方でデュドンは、これこそが待ち望んでいた「破局」かもしれないと考えつつ、病院に運び込まれる。意識が戻ったとき、病室には彼を看護するアンヌ・マリーがいた。
オランダ語版の表紙(ディック・ブルーナによる装丁) |
***
自分は罪で穢れている──『伯母のジャンヌ』や『ベティー』の主人公たちと同じように、デュドンもそのような意識を抱いているように見える。キリスト教という原罪の宗教を信奉してきた人々にとって、信仰を失った現代においてもなお深く根付いた心性として贖罪の意識は拭いきれないということなのか?
しかし、デュドンが抱く罪の意識は、もっと個人的な感情に由来しているようだ。彼の父親は酒に溺れ家を捨て、挙句に情婦のかたわらで自殺をしてしまった。そのために苦労を強いられた母親は、死後も夫の「罪」を責め立てた上、何の責任もないはずの息子に対してもこんなことを口にする:「おまえは、お父さんとおんなじようになって、告解もしないで死ぬんだわ!」
わざと「罪」を犯しその度に神父への告白をするという行為を繰り返すのは、デュドンに呪いをかけた母親への復讐なのだろうか? そして、彼が「罪」とする行為を何のためらいもなく、何ら罪悪など感じることもなく犯し続けるアンヌ・マリーに出会い、デュドンはその呪縛から解かれた新たな人生、新しいかのような暮らしを始められると考えたのだろうか?
- シムノンの「運命の小説」一覧
- (人物事典)ジョルジュ・シムノン in Le Blog Sibaccio
Georges Simenon, Une vie comme neuve, 1951
0 件のコメント:
コメントを投稿