2023/07/01

カミュ『最初の人間』

カミュの「失われた時」

『失われた時を求めて』に心酔していると、自伝小説、自伝の要素が濃い小説などは、すべからく作家の(もしくは作家が自分自身を投影した主人公の)「失われた時」を探し求める旅であるべきとつい見なしてしまう。「失われた時」とは単なる想い出とか郷愁などではなく、回想している本人になぜ今ここにいるのかを再発見させるものであり、また彼がこれからどこへ進むべきなのかを知らせる道標になりえるものでもある── プルースト以後の優れた作家は誰しも、そういうことを自覚せずに自伝的な小説を書くことはできないはずだ、などと思い込んでいる節がある。

貧者の記憶というものはもうそれだけで裕福な者の記憶ほど充実していない。なぜなら貧者は滅多に生活している場所を離れないので空間における指標が少ないからだし、また一様で、灰色の生活の時間の中にも指標が少ないからである。(...) 失われた時が蘇るのは裕福な者のうちでしかない。

カミュは『最初の人間』の主人公ジャック・コルムリイの母(カミュ自身の母と言っても差し支えないと思う)を指して、このように述べているのだが、まさにプルーストという「裕福な者」の小説を念頭に書いたように感じられる。果たして、ジャック自身(結局はカミュ)はどうなのだろうか? 彼だって貧者の家庭に生まれ育った者のはずだが、小説では幼少の頃の記憶まで遡り、事細かに過去の出来事を叙述している。しかも、懐かしさだけでは収まりきらない詩的に美しい挿話がいくつも語られており、それらは彼にとってながらく失われていた「見出された時」なのではないかとも感じられる。 

母や祖母と同様の暮らしを続けていたら、「失われた時」は貧者の寡黙な世界に沈殿し、まさにそのまま忘れ去られてしまったかもしれない。しかし、学校に通い良き師に見出されたことをきっかけにやがて寡黙な世界から抜け出すことができたという幸運から、貧者ではあるけれども(社会的にはもはや貧者ではないが)、ジャックは記憶を丹念に手繰り寄せてこれを蘇らせる特権を手に入れたのだ、ということか。あるいは、そもそも彼の試みはもっとほかのところにあるのだろうか......

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カタルーニャ人、カミュ

彼女[母]はスペインがどこか特定できなかったが、いずれにしても、さほど遠くなく、彼女の両親であるマオン出身者たちは彼女の夫と同じくらい前にそこを離れて、アルジェリアにやってきたのであった。

小説では父親の探索が一つのテーマになっているが、母方のルーツについても触れられている。

マオン Mahón は、地中海に浮かぶバレアレス諸島の一つメノルカ島の都市。スペイン領だがカタルーニャ語文化圏に属する。カタルーニャ語ではマオー Maó となるそう。母はアルジェリアの生まれだが、その母、その暴君ぶりが印象的なジャックの祖母はマオンから移住してきた人らしい。「祖母は好んでスペイン語よりもマオンの方言を話していた」とあるのは、スペイン語(カスティーリャ語)の方言ではなく、別の言語であるカタルーニャ語のマオン訛りで話していたということだろう。「トランクをもち、子供たちを連れて、少人数のグループで上陸したマオン出身者たち。彼らの言葉は特筆に値する。決してスペイン語は使わない。」カミュは、自分の血筋の半分はスペインから来ていると公言していたようだが、もっと厳密にカタルーニャ人であるとまで自覚していたのだろうか?(*)

(*) Jean-Michel Hoerner , «Camus , le catalan» という本の紹介文によると、カミュはカタルーニャ詩人の作品を翻訳したようにカタルーニャ語を習得していたというのだが、これは本当なのか創作なのか......

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海辺への冒険、祖母の折檻、エルネスト叔父と犬のブリヤン、2フランの隠匿、ミュノとの戦い、狩場の景色、ベルナール先生とその訪問、動力車に乗ってのリセ通学、図書館、ヴァカンスの労働、暗い階段、夜の窓辺に佇む母の姿...... 

草稿段階のこの小説では、おそらくほとんどが作家自身の体験にもとづいていると思われる出来事や印象がさまざまに語られる。その点ではこの作品も確かに、苦味を含むものの幸福だった時間、「失われた時」が探求されている。一方で、生誕の場面や(しかもこれは架空の話だという)、祖母よりも前の世代のこと、フランスからアルジェリアに移住してきた父方の人々の軌跡など、主人公ジャック自身の記憶を元にするだけでは辿ることのできない出来事もテーマとして含んでいる。根底にあるのは、歴史から跡形もなく消え去ってしまう貧者たち、それゆえに偉大な彼らの姿を何かしら書きのこしたいという希望だろうか? とにかく、小説の射程はアルジェリアの大地のようにもっと広く、茫漠としているようだ。もしも、あの不幸な自動車事故が起きず、執筆をさらに進めることができたとしても、カミュは果たして『最初の人間』を完成させることができただろうか。探求の旅は果てしないものになっていたのではないかと思う。「本というものは未完で〈なければならない〉。」

〔参考〕


アルベール・カミュ『最初の人間』大久保敏彦訳(新潮社)
Albert Camus, Le Premier Homme, 1994

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