2023/09/09

シムノン『妻は二度死ぬ』

シムノンが最後に書いた「運命の小説」。

(小説のイントロダクション)
宝飾デザイナーのジョルジュ・セルランはアトリエで仕事をしているときに警察官の訪問を受ける。妻のアネットが交通事故に遭い亡くなったという報せであった。アネットと結婚してからの二十年間、好きな仕事で成功し愛する家族をもち幸せに暮らしていたはずのセルランは、突然の事態に際限のない悲しみにくれる。妻の面影を追い続けるなか、セルランはふと、自分はまちがいなくアネットを愛し幸せだったが、彼女のほうはセルランを愛していたのだろうか、彼と家庭を築いて本当に幸せだったのだろうか、という疑問が湧く。これまで思い出すことのなかった過去の出来事がさまざまに脳裡をかすめ、その疑念はますます増幅する。「ひとつの思いが......、二十年もいっしょに暮らしていながら、アネットのことが何もわかっていなかった......、その思いが鋭くセルランの胸をえぐりはじめる。」 やがて、それまで目を背けていた事実──アネットはなぜそんな場所にいたのか、普段行くはずもないところでトラックに轢かれたのか──に、セルランは向き合うことになる。

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日々の暮らしにすっかり馴染んでしまうと、夫であれ妻であれ、パートナーについて改めて考えることなど億劫になってしまう。けれども、何かふとしたきっかけで今まで知らなかった側面を知り、突如相手が別人にみえたりすることはないだろうか? そのような時、長年付き添っているにもかかわらず、パートナーほど不可解な存在はないのではないか。セルランを襲った出来事は、殺人などよりよっぽど、実際の生活のなかで誰もが遭遇しそうな事態かもしれない。

原題の «Les Innocents» は、辞書の通りに訳せば「無実の人々」「純真無垢な人々」「お人好しども」などになる。セルラン一人であれば、確かに彼はお人好しだったかもしれないが、タイトルでは複数形になっている。セルランとアネットの子供たちも含まれるのかもしれない。秘密を何も知らなかった人々、という解釈でよいだろうか?

もし途中の第5章で物語が終わっていたとしたら、謎は解明されないままでも、セルランは最愛の人の喪失から立ち直り、人生を再び歩み直せたかもしれない。妻が二度死んだという現実など知らずに過ごせたかもしれない。

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1972年2月に本作が出版され、同年7月に『メグレ最後の事件』(メグレとシャルル氏)を出した後、シムノンは小説の執筆をやめてしまう。

〔参考〕


ジョルジュ・シムノン『妻は二度死ぬ』中井多津夫訳(晶文社)
Georges Simenon, Les Innocents, 1972

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