わたしが書くのはわたしの挙動ではない。それはわたしであり、わたしの本質である。(モンテーニュ『エセー』第2巻第6章より)著作だけでなく、作者までも知っていただけるならば、わたしは完全に満足するであろう。(...)
わたしは決して教えない。ただ物語るのである。(『エセー』第3巻第2章より、いずれも関根秀雄訳)
本書のタイトルは「『エセー』精読による読解の試み」とか、「『エセー』から読み解く〈魂〉の物語」、あるいは「モンテーニュの自分探しの旅」などといったほうが内容に添うのではないかと思います。
丁寧に読むことで著者が『エセー(随想録)』から見出した首尾一貫した「物語」はとてもスリリングであり、漫然と読んでいては気づけないモンテーニュの思索の変遷(*)、あるいは ──普段、私たち読者を導いてくれるのとは異なり── 困惑し・動揺し・焦燥し・懊悩するモンテーニュの姿が浮かび上がってきて最後まで面白く読むことができました。西洋哲学の系譜、時代精神とからめた論述(とくに「歴史の力」との兼ね合い)や、モンテーニュにおけるソクラテスの位置付けあるいは扱い方についてもとても興味深かったです。これほど集中的かつ徹底的に分析されたモンテーニュ論は、あまりないかもしれません。
(*)『エセー』の読者にはおなじみの(a)(b)(c)の符号(テキストが書かれた3つの時期を示したもの)。本書を読むことで、これらの符号に注意して読む面白さに改めて気づくことができました。
一方で、この「物語」は四百年間気づかれなかった軌跡である、と主張していますが、展開される道筋とその結論はさほど意外には感じられませんでした。なまじモンテーニュに触れたことがあるがゆえに目が曇っていたのかもしれませんが...... 『エセー』刊行以来、モンテーニュを論じた著名人たちがその「物語」に気づかなかった(それについて書き残してこなかった)のかどうかはさておき、四百年の間に『エセー』を読んできた無名の読者のなかには、同様の道筋、物語を感得した者も多かったのではないか、それだからこそモンテーニュは読み継がれてきたのではないか、などと想像します。
印象としては、モンテーニュをふだんから愛読していたり、『エセー』を通読した経験があったりすればこそ味わえる内容であり、入門書とするのはあまり正しくない気がします(*)。むしろ、偏向とまでは言わないまでも一つの読み方を強制しかねず、読解の可能性をかえって硬直化させ、何よりも入門者を疲弊させるのではないかとも危惧します。
(*) タイトルに「入門」と付けなければ売れないといった出版事情もあるのでしょうか? ちなみに入門書には、同時期に刊行された山上浩嗣著『モンテーニュ入門講義』(ちくま学芸文庫)のほうが内容的にもふさわしいと思います。
著者の先回りな見解はどうであれ、モンテーニュの『エセー』はやはり広大無辺にしてさまようこと自体が楽しい迷宮です。この迷宮には決して脈絡や出口がないわけではなく、しかも読み方が十人十色なのと同じく、それらは一つだけというわけでもないと思います。迷宮に初めて入る前に、本書のような遠大なトンネルをわざわざくぐり抜ける必要はないのではないでしょうか? せめて、冒頭にかかげたモンテーニュの言葉を気にかけておくくらいで良いのではないでしょうか? 「わたしはさ迷う。だがうっかりさ迷っているのではなくて、わざとさ迷うのである。」(モンテーニュ『エセー』第3巻第9章より)
〔参考〕
- 保苅瑞穂『モンテーニュ よく生き、よく死ぬために』
- 斎藤広信『旅するモンテーニュ』 in Le Blog Sibaccio
(講談社学術文庫)
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