だが、ランジュ夫人の家の台所は、いつもストーヴの火が燃えており、彼にとって何よりもの「隅っこ coin」、唯一安らぎを与えてくれる居場所であった。エリの孤独な振る舞いに眉をひそめつつも彼のことを家族のように気にかける夫人、そして彼の醜い容貌(本人はそう思い込んでいる)にも嫌悪することなく接してくれるルイーズ。
出身地ヴィルナ(ヴィリニュス、現在のリトアニアの首都)はリエージュよりも寒さが厳しく、また兄弟姉妹の多い貧しい家庭のなかで、温かい場所もなく母親の愛情を感じることもなく育ったエリにとって、夕食後の彼女たちのいる台所で、会話もほとんど交わされることなく静かに過ごす一時は、これからも毎日訪れてほしいと願うほどに大切であった。
だが、そんなささやかな、誰にも気づかれないひそかな幸せは、金持ちのルーマニア人留学生ミシェル・ゾグラフィがこの家にやってきたことで失われようとしていた......
オランダ語版の表紙(ディック・ブルーナによる装丁) |
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リエージュは作者の生まれ育った町。シムノンの家では外国から来た学生を多く下宿させていたという。もしかしたら、その中には実際にエリ Elie という名前で、ヴィルナ出身のユダヤ系ポーランド人がいたのかもしれない。エリがつかの間の温もりを感じる場面、心理描写は、故郷を離れて孤独に学業に励む学生たちの姿に共感したものなのか、あるいは母との間でわだかまりがあった作者自身の心情を反映したものなのか。
本作は大きく二部に分かれている。1926年のリエージュと、26年後の米国アリゾナ州に位置する架空の鉱山町。寒さの厳しいヨーロッパの冬と、砂漠の町の夏。主人公エリ自身もリエージュ時代とアリゾナに来てからでは、随分と外見や心持ちが変わる。しかし、ある出来事をきっかけに、エリの心中は1926年のリエージュに連れ戻される。しかも彼は、それがいつか起こり得ると心のどこかで予期していたようだ。だが、その結末は果たして、彼が漠然と抱いていたイメージのとおりに進むのだろうか?......
Georges Simenon, Crime impuni, 1954
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