2017/11/26

モンテーニュの「店裏の部屋」

妻や、子供や、財産、そしてできることなら、なんといっても健康を持つことが必要である。しかし、われわれの幸福がそれに左右されるほど縛られるようではいけない。まったくわれわれだけの、まったく自由な店裏の部屋を自分に取っておいて、そこにわれわれの真の自由と、主要な隠れ家と、孤独を築くようにしなければならない。そのなかでわれわれはつねに自分自身と話し合い、外とのどんな付き合いや会話もそこに入り込んで来ないような私的な話し合いをしなければならない。
保苅瑞穂『モンテーニュ』 p.325 
保苅瑞穂著『モンテーニュ』のなかで引かれたモンテーニュの言葉に「店裏の部屋 arriereboutique 」という語が出てきました。モンテーニュが『エセー(随想録)』の第1巻第39章「孤独について」のなかで用いています。辞書的には「店につづく奥の部屋のことで、店で商う品物などを保管しておくのにも使う場所」のことなのですが、上記の引用のように、モンテーニュは独自の解釈を与えています。

もちろんこれは、モンテーニュが閉じ籠もった塔の上階にある書斎のように、実際に隠れ家だとか家の中に独りになれる部屋だとかをこしらえろと言っているのではありません。普段の生活、もっと言えば社会生活を送るなかで、そこから一旦離れて、自分自身の内面と向き合うことが人間には必要であり、それがなければ、人間としての精神の自由は得られないと説いているのだと思います。
本書によれば、この精神の聖域ともいうべき場所についてプルーストは、ある人への手紙のなかで「モンテーニュはこれを店裏の部屋と呼んでいましたが、それではあまりに控え目に過ぎるというものです。なぜかというと、この部屋は無限にむかって開かれているのですから」(p.326) と述べています。『失われた時を求めて』のなかで、少年時代の主人公が独り読書に興じる場面、あるいはその彼が逃げ込んだ屋根裏部屋などが思い浮かびました。

ところで、以前に『随想録』を読んだときに、そんな言葉が出てきたかしらと思い、読み返してみたら、次のような翻訳になっていました。
妻を持たねばならない。子を持たねばならない。財産も持たねばならない。できれば特に健康を持たねばならない。だが我々の幸福は、かかってそこに在るというほどに、それらに執着してはいけない。全く我々の・全く自由独立の・そこに我々のまことの自由と本当の隠遁孤独とを打ち立てるべき裏座敷を、一つとっておかなければならない。我々はそこで、毎日我々対我々自身の話をしなければならない。どんな交際もどんな外部の交渉も、そこには入り込まないほどの内輪話をしなければならない。
関根秀雄訳『モンテーニュ随想録』国書刊行会版、 p.310
ここには訳者による注釈がついており、「店舗裏のこと、表通りに面したところは商品を整然と飾り立て、他人を相手とする場所、その裏は誰に気兼ねもいらない家族の私生活の場所である。この語は実によく町人出身のモンテーニュのお里をあらわにしている」と述べています。

いずれにしても、その場所では、ただ現実逃避のために何かに没頭するのではなく、自分自身としっかり向き合うのであり、それも、« notre ordinaire entretien de nous à nous mêmes » とあるように、気分が向いたり、ときおりにではなく、常日頃心がけるべき大事な自己との対話なのだと思います。とはいえ、普段仕事や家事に忙殺されていると、つい忘れてしまいそうです…...

〔参考〕
  • 保苅瑞穂『モンテーニュ よく生き、よく死ぬために』(講談社学術文庫)
  • 『モンテーニュ随想録』関根秀雄訳(国書刊行会)

2017/11/25

保苅瑞穂『モンテーニュ よく生き、よく死ぬために』

プルーストの『失われた時を求めて』では、パスカルやラ・ロシュフコー、ラ・ブリュイエールなどの代表的なモラリストの名をところどころで見つけられるものの、モンテーニュの名は一切出てきません(*)。しかし、小説のなかで人間の多面性や重層性を鋭い筆致で描いているように、その卓越した人間観察ぶりをみる限り、プルーストがモンテーニュの『エセー(随想録)』を読んでいなかったとはとても考えられません。
(*) 第4篇『ソドムとゴモラ』のなかで、ある登場人物の台詞に「我なにを知るや?」の有名な標語(『随想録』第2巻第12章)が出てくる程度。


本書の著者はプルースト研究の大家であるだけに、モンテーニュについて語るなかで、時折プルーストが顔を出します。ごく自然にモンテーニュとプルーストとの類似、あるいはプルーストがモンテーニュを下敷きにしている節などに触れています。書簡の引用から、実際にプルーストが『エセー』を読んでいたことも分かります。とにかく、『エセー』の読者だけでなく、『失われた時を求めて』の読者にとっても親近感のもてる一冊ではないかと思います。

ところで、『エセー』の読者にはお馴染みの[a] [b] [c] の符号。初版と加筆時期によるテクストの違いを示すもので、普通に読んでいるあいだは気にも留めないものです(これらの符号は一般の読者には不要だという編訳者もいます)。しかし、本書ではこの符号、つまりモンテーニュが執筆した時期の違いに注目した考察が繰り広げられます。そして、そのどれもが興味深く、説得力があるものになっています。

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本書の著者のような方が『エセー』の新訳を手がければ良かったのにと思います。ところどころで祖父の研究を参考にした考察が展開されていたことに嬉しく思ったこともありますが、モンテーニュの人生と著作の両方に寄り添いながら、穏やかで丁寧に文章が書かれているさまをみて、何よりも、モンテーニュの生き方に共鳴する著者自身の姿勢に、つくづくそう感じたのでした。

保苅瑞穂『モンテーニュ よく生き、よく死ぬために』(講談社学術文庫)