妻や、子供や、財産、そしてできることなら、なんといっても健康を持つことが必要である。しかし、われわれの幸福がそれに左右されるほど縛られるようではいけない。まったくわれわれだけの、まったく自由な店裏の部屋を自分に取っておいて、そこにわれわれの真の自由と、主要な隠れ家と、孤独を築くようにしなければならない。そのなかでわれわれはつねに自分自身と話し合い、外とのどんな付き合いや会話もそこに入り込んで来ないような私的な話し合いをしなければならない。保苅瑞穂『モンテーニュ』 p.325
保苅瑞穂著『モンテーニュ』のなかで引かれたモンテーニュの言葉に「店裏の部屋 arriereboutique 」という語が出てきました。モンテーニュが『エセー(随想録)』の第1巻第39章「孤独について」のなかで用いています。辞書的には「店につづく奥の部屋のことで、店で商う品物などを保管しておくのにも使う場所」のことなのですが、上記の引用のように、モンテーニュは独自の解釈を与えています。
もちろんこれは、モンテーニュが閉じ籠もった塔の上階にある書斎のように、実際に隠れ家だとか家の中に独りになれる部屋だとかをこしらえろと言っているのではありません。普段の生活、もっと言えば社会生活を送るなかで、そこから一旦離れて、自分自身の内面と向き合うことが人間には必要であり、それがなければ、人間としての精神の自由は得られないと説いているのだと思います。
もちろんこれは、モンテーニュが閉じ籠もった塔の上階にある書斎のように、実際に隠れ家だとか家の中に独りになれる部屋だとかをこしらえろと言っているのではありません。普段の生活、もっと言えば社会生活を送るなかで、そこから一旦離れて、自分自身の内面と向き合うことが人間には必要であり、それがなければ、人間としての精神の自由は得られないと説いているのだと思います。
本書によれば、この精神の聖域ともいうべき場所についてプルーストは、ある人への手紙のなかで「モンテーニュはこれを店裏の部屋と呼んでいましたが、それではあまりに控え目に過ぎるというものです。なぜかというと、この部屋は無限にむかって開かれているのですから」(p.326) と述べています。『失われた時を求めて』のなかで、少年時代の主人公が独り読書に興じる場面、あるいはその彼が逃げ込んだ屋根裏部屋などが思い浮かびました。
ところで、以前に『随想録』を読んだときに、そんな言葉が出てきたかしらと思い、読み返してみたら、次のような翻訳になっていました。
妻を持たねばならない。子を持たねばならない。財産も持たねばならない。できれば特に健康を持たねばならない。だが我々の幸福は、かかってそこに在るというほどに、それらに執着してはいけない。全く我々の・全く自由独立の・そこに我々のまことの自由と本当の隠遁孤独とを打ち立てるべき裏座敷を、一つとっておかなければならない。我々はそこで、毎日我々対我々自身の話をしなければならない。どんな交際もどんな外部の交渉も、そこには入り込まないほどの内輪話をしなければならない。関根秀雄訳『モンテーニュ随想録』国書刊行会版、 p.310
ここには訳者による注釈がついており、「店舗裏のこと、表通りに面したところは商品を整然と飾り立て、他人を相手とする場所、その裏は誰に気兼ねもいらない家族の私生活の場所である。この語は実によく町人出身のモンテーニュのお里をあらわにしている」と述べています。
いずれにしても、その場所では、ただ現実逃避のために何かに没頭するのではなく、自分自身としっかり向き合うのであり、それも、« notre ordinaire entretien de nous à nous mêmes » とあるように、気分が向いたり、ときおりにではなく、常日頃心がけるべき大事な自己との対話なのだと思います。とはいえ、普段仕事や家事に忙殺されていると、つい忘れてしまいそうです…...
〔参考〕
〔参考〕
- 保苅瑞穂『モンテーニュ よく生き、よく死ぬために』(講談社学術文庫)
- 『モンテーニュ随想録』関根秀雄訳(国書刊行会)