交された言葉を一語一語全部覚えていると言い張る人間がいる。そういう人間は嘘つきか誇張症患者と思われるのがつねだった。私の記憶に残るのは、虫に食われた文書のように、切れ切れの言葉か穴だらけの文章にすぎない。(p.100)
おもだった登場人物のうちの一人エリック・フォン・ローモンが語り手として小説は進行していくのだが、読者の目を釘付けにするのは彼の情念よりも、ソフィー・ド・ルヴァルの情念のほうだろう。情念が表立っては感知されず心のうちで焔立つものだとしたら、ソフィーのそれは、抑えきれずに外に表出してしまう情熱、あるいは熱狂であると言うべきかもしれない。エリックはむしろ沈着冷静であり続けようとするものの、意に反して心が掻き乱されているといった感がある。本人は自分で語るほどに自覚がない節があるけれど。
小説の舞台から次第に遠くに追いやられるコンラート、エリックの友人でありソフィーの弟である彼もまた、無視できない心の葛藤をうちに秘めている。もし、著者自身の序文がなかったら、コンラートが重要な役割を果たしていることに気づかなかったかもしれない。一人称形式を用いる以上、物語はある一人の観点から投映されるし、登場する人や物への関心の度合いも語り手の裁量次第である。そのため語り手は、小説中の現実(ディエジェーシス)を必ずしも「正しく映さない」可能性があるわけだ(架空の世界を表象するにあたって、正しい正しくないを云々するのは、おかしな話なのかもしれないが)。そのようにして、コンラートはエリックによって遠ざけられるが、物語の外で ──小説を読む我々の意識のなかで── コンラートの情念は渦巻く。ユルスナールはその一人称がもたらした「不正」を見事に操っているように思う。
〔蛇足〕
『とどめの一撃』は1976年にドイツの映画作家フォルカー・シュレンドルフ Volker Schlöndorff によって映像化された。シュレンドルフは文芸作品への関心が高く、ギュンター・グラスの長編小説『ブリキの太鼓』やプルーストの《スワン家の方へ》の後半「スワンの恋」、ミシェル・トゥルニエの『魔王』なども映画の源泉に求めている。
マルグリット・ユルスナール『とどめの一撃』岩崎力訳(岩波文庫/白水社)
Marguerite Yourcenar, Le Coup de grâce (1939)
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