2018/04/29

デュラス/ポルト『マルグリット・デュラスの世界』

デュラスの作品は、彼女の中に満ちている眩暈、叫び、風が溢れ出たものだ。(...) デュラスの頭の中に潜み、外部に流れ出すのを待っていた愛・欲望・苦悩・恐怖が激化することによって起こる現象なのだ。(pp.41-42 脚注より)

本書がすばらしいのは、単にデュラスと彼女の信頼する映画作家とのインタビューが訳出されているということだけではない。豊富できめ細かい註釈が文中の下段で展開されるところに(この支線が本線と並走しているところに)、翻訳としても大きな魅力がある。

デュラスが言及する事柄には、作品のなかですでに「書かれていること」もあれば、これから「書かれようとしていること」ともつながっている。訳者は自身の見解も織り込みながら、これらを丹念に丹念に結びつける。例えば、デュラスが自身の映画作品について語っている最中、その詳細を補足することもあれば、すでに書かれた小説から照応する言葉を引用したりする。その補足や引用は過去だけではなく、未来ともリンクする。訳者は、後年行われたインタビュー集、小説や映画などの作品(筆頭は1984年の『愛人』だろうか)へのアプローチも怠らない。(この翻訳は1985年に刊行されたものだから、『北の愛人』や『エクリール』などに触れていないのは仕方がない。)前提が多く、やや抽象的な会話が交わされる中、訳者は読者を引率する。

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家というものは、避難し、安心を求めに来る場所だと考えられているかもしれない。私は、家とは、そういったこと以外のことにもさらされている閉域だと思う。...ひとつの家の中には、組み入れられている家族に対する嫌悪感、逃げ出したいという欲求、自殺したくなるようなあらゆる気分がある。 (p.21)

『モデラート・カンタービレ』を読んだとき、デュラスの文章にふわふわと身を委ねていると、突如矢に射されるような危険を感じたのだが、この文に出くわしたとき、あのときの戦慄は決して気のせいではなかったのだと思う。デュラスは常に安穏と暮らしている「私」を狙っている。

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私は、人々が何を出発点にしているのか知らない。物語を出発点にしているなんて、私には信じられない。できあがった、仕上げられた物語からなんて。そうでしょう、書く前から既に、はじまりも、真ん中も、お終いも、波瀾もある物語から出発するなんて、私は信じない。私は、自分がどこへ行くのか、決してよくわからない。もしわかっているなら、書かないでしょうね。だって、できあがっているんだから。できあがっているんだろうから。私にはわからない、既に探求され、調べ上げられ、記録された物語をどのようにして書けるものなのか。そんなことは、私には悲しいことのように感じられる。貧困とも言うべきね、…...要するに......おそらく同じエクリチュールではないということなのね。今のところ、私はどこかまちがっているのかもしれない  (pp.72-73)

作家が小説を書き始めるとき、さてこれから何を書こうとしているのか、あまつさえその結末も、まだ分かってはいないのではないかと思う。もしかしたら、書いた後でさえ分からない。ただ、それは構想とか輪郭が皆無なのだと言っているわけではなく、問題はエクリチュールなのではないか、と。
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書くときに私が到達しようと努めているのは、おそらくその状態ね。外部の物音にじっと耳を澄ましている状態。ものを書く人たちはこんなふうに言う、 "書いているときは、集中しているものだ" って。私ならこう言うわ、 "そうではない、私は書いているとき、完全に放心しているような気がする、もう全く自分を抑えようとはしない、私自身、穴だらけになる、私の頭には穴があいている" と。(p.195)

デュラスは何かを書くとき、決して気負ったりはしない作家のようだ。そして、全篇を通して痛切に感じられるのは、頭のてっぺんから足の爪先まで、デュラスは「書く人」であり、書かなければ生きていけなかった人なのだということだ。

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デュラスの場所。そこは家であり庭であり森であり海辺であったりするのだが、さらに彼女自身の小説であり映画自体も含まれる、などといったら撞着した言葉遊びに過ぎないだろうか。


〔画像〕ノルマンディーの町トゥルーヴィルにあるホテル「ロッシュ・ノワール」。


マルグリット・デュラス/ミシェル・ポルト『マルグリット・デュラスの世界』
舛田かおり訳 (青土社)
Marguerite Duras, Michelle Porte, Les Lieux de Marguerite Duras (1977)

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