『クレーヴの奥方』と『源氏物語』、翻訳が意図的に似せているのか。そもそも作品に共通点が多いから似ているのか。

両者の類似は、単に王朝恋愛物語であることや男女の心理や葛藤をテーマとしていることだけに限らないと思う。たとえば物語における語り方。
『源氏物語』では、発話だけでなく独白なども含む会話文と、いわゆる地の文と呼ばれる叙述とのあいだに、表記上の境界がない。語り手と思われる人物が、源氏の君、あるいは何とかの中将の心理を事細かく叙述しているのかと思いきや、いつのまにか登場人物の誰かの科白(せりふ)が始まっている、などということが常に起こる。必ずしも「誰々がこう言った」というようには明示されず、述語や人・物の敬語表現から、話者がシフトしたことを判断すべきことが多々ある。会話はさらに入れ子になることもある。
会話と叙述の間での移行でとくにとまどうのは、二つが「地続き」になっている場合ではないかと思う。つまり、ある誰かの心理描写が進行しているはずなのに、その誰かの内心に入り込み、心理描写がそのまま心境の吐露や告白に変換してしまっているような現象だ。客観と主観の未分化とも言える。源氏の君に愛されている女性の苦悩が、語り手によって連綿と語られるのだが、あまりにつらいので、女性自身の言葉がふと溜め息のように漏れる。
そのような現象は『クレーヴの奥方』にも見られる。恋愛に悩む主人公の胸中が、語り手の口からあるいは主人公自身の口から述べられ、ときには両者がまるで入り乱れているところもある。
そのせいか、会話なのにどこか説明的であったり(恋愛の修羅場でこんな理屈っぽい言葉など吐くだろうか?と思うくらい説明的だったりする)、本人自身でなければ分らないような心境を、第三者であるはずの語り手が滔々と語るのである(「神の視点」といった語もあるように、こういう状況は本書だけに限った問題ではないけれども)。
一方で、『クレーヴの奥方』や『源氏物語』で会話と叙述との区分があいまいにみえるのは、期せずしてそうなってしまったから、でもないような気がする。つまり、その時代特有の語り口であるとか、作者が物語世界に入り込むあまり両者があいまいになったのでもなくて、物語世界に読者をひきずりこむための、作者たちの巧みな戦略だったのではないかとも考えた。会話/叙述の違いだとか発話者の区別といった概念など、必ずしも当時の作者たちが現代の私たちと同じような意識をもっていたとはいえないにしても。
〔画像〕パルミジャニーノ『アンテアと呼ばれる若い貴婦人の肖像』
ラ・ファイエット夫人『クレーヴの奥方』生島遼一訳(岩波文庫)
Marie-Madeleine de La Fayette, La Princesse de Clèves, 1678
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