とはいえ、当時の文壇で見られた私小説の流れを汲んでいるように見えるものの、小説の人物に仮託して自分や家族の出来事を曝け出したり、そうすることによる一種の自戒・告白のために、漱石はこの小説を書いた、とはあまり感じられない。『道草』はそういった自然主義的なアプローチとは全く異なる作品だと思う。
大きなテーマはやはり、『道草』に限らずほかの作品にも見られるように、夫婦の絆という不可思議な関係を描き出すことにあったのではないか。同じ屋根の下で暮らしながら、お互いに思い遣る気持ちはあるのに、お互いに表に出せず仕舞いで、理解し合えない男女の様子を、日々の出来事のように、小説の最初から最後まで延延と(蜿蜒とと言うくらいに?)書いている。しかも、何かしらの解決はほとんど見出せないままに。
漱石はほかの作品でもこのテーマに取り組んでいるが、主人公の憂鬱ぶりに反して、物語全体に悲劇性がつきまとっていない点で『道草』は異色だ。むしろありふれた夫婦の日常として描くところに普遍性がみられる。語り手の視点は、健三にさほど寄り添っておらず、距離を保っている。同じ間隔で妻の御住の内心も観察している。そういう視点の置き方は、いわゆる私小説とは一線を画している印象を与える。
この緯糸に対して、かつての義父だけでなく身内までが金銭問題で主人公を煩わせるアンシダン incident、事故や緊急事態のような重大事ではないけれど日々の安寧を脅かすような不安な出来事が経糸になって、物語が構成されている。
『道草』執筆の数年前にベルクソンの思想に触発されたという漱石は、ただ実際の思い出を事細かく叙述することが目的だったのではなく、普段何気なく暮らす中で、ふとしたきっかけ(ここではとくに上述のアンシダン)が過去の記憶を甦らせ、それが単なる回想ではなく、今時点の自分の状態や考え方と渾然一体となって形作られることの不思議を、文章に仕上げてみようと思ったのではないか。失われた時を探求する試みの一つだったのではないか。『道草』にはそのための一つの実験小説であるという雰囲気が感じられる。自分自身の体験を素材に求めているけれど、それはこの小説を組み立てるための方便に過ぎなかったのかもしれない。
夏目漱石『道草』(新潮文庫)
0 件のコメント:
コメントを投稿