サン=サーンスは昨日コンセルヴァトワールにおいて、モーツァルトの「協奏曲」でピアノを弾いた。(プルースト)
1895年12月8日、サン=サーンスはコンセルヴァトワール(パリ音楽院)の演奏会に出演して、モーツァルトのピアノ協奏曲を弾いた。客席には24歳のプルーストの姿があった。
【演奏会の曲目】
- Symphonie en fa (Beethoven)
ベートーヴェン:交響曲ヘ長調(第6番もしくは第8番) - Concerto en la pour piano (Mozart), par M. Saint-Saëns
モーツァルト:ピアノ協奏曲第23番イ長調 ピアノ:サン=サーンス - La Lyre et la Harpe (Saint-Saëns)
サン=サーンス:ヴィクトル・ユゴーの詩による『竪琴とハープ』 - Ouverture du Freischuiz (Weber)
ウェーバー:歌劇『魔弾の射手』序曲
プルーストは、このときの印象を文章にしている。ほかの聴衆にはサン=サーンスの演奏が味も素っ気もないように聞こえたものの、プルーストはその真髄を見極めていた。若者の気負いが感じられるかもしれないが、それでもやはり常人には真似のできない筆致である。
偉大な俳優の演技は器用な俳優のよりも飾り気がなく、大向こうの喝采を博さない。なぜならそういう俳優の動作や声は、彼を悩ましていた微量の黄金や滓をものの見事に濾し去られていて、ただもう澄んだ水か、彼方にある自然物を見せているだけの窓ガラスのようにしか思えないからだ。サン=サーンスの演奏はこの純粋、この透明に達したのである。モーツァルトの「協奏曲」はステンドグラスやフットライトを通して見えているのではない。われわれを食卓や友達から隔てている空気、それがあることに気づかないほど澄み切った空気を通して見えているのである。
「ピアニスト、カミーユ・サン=サーンス」
そして、プルーストは後年、その大作『失われた時を求めて』のなかで次のような一節を書いた。これは、一人の芸術家への賛美にとどまらず、プルースト自身の芸術に対する態度、美意識の表明そのものではないかと思う。
〔画像〕プルースト(1895年ごろ)。
じつに偉大なピアニストが演奏すると、その演奏家がピアニストであることさえまったく意識しなくなる。なぜならその演奏は(あちこちに華々しい効果をもたらす目まぐるしい指の動きの技巧とか、手がかりのない聴衆が少なくとも具体的に触知できる現実として才能のあらわれと思える飛び散らんばかりの音とかを、いっさい介在させないから)、すっかり透明になって、演奏されるものだけに満たされる結果、演奏家のほうは、姿が見えなくなり、傑作たる曲に向けて開かれた窓にすぎなくなるからだ。
『失われた時を求めて』第三篇《ゲルマントのほう I》岩波文庫, p.107
〔画像〕プルースト(1895年ごろ)。
- Arthur Dandelot, « La Société des Concerts du Conservatoire de 1828 à 1897 », Paris: G. Havard fils, 1898 in Internet Archive
- Le Ménestrel : journal de musique, A61,N49, 8 décembre 1895 in Gallica:フランス国立図書館デジタルライブラリー
- Stephen Studd, « Camille Saint-Saëns – A Critical Biography », London: Cygnus Arts, 1999
- 『プルースト評論選II 芸術篇』穂苅瑞穂訳(ちくま文庫)
- プルースト『失われた時を求めて5 ゲルマントのほう I』吉川一義訳(岩波文庫)
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