2018/03/31

シムノン『猫』

暖炉では薪が燃えていた。肱掛椅子で編み物をしている妻の両手の動きと、編み針がときたま触れ合うかすかな音を除いては、この家で動くものは何もなく沈黙が垂れ込めている。
彼は小さく折りたたんだ紙片を妻の膝目がけてはじき飛ばした。それを拡げた妻の目に映った文字は〈ネコ〉。だが彼女の返事は剥製の〈おうむ〉をじっと見つめることだった。
(創元推理文庫版の冒頭紹介文より)
ジョルジュ・シムノンはたいへんな多作家で、四百以上の小説を書いて約四千万冊が売れたともいわれている。《メグレ警視》シリーズを筆頭とする推理小説の分野でよく知られているが、いわゆる「普通の」小説も書いており、いずれも高い評価を受けている。『猫』もその一つ。老年の悲劇が異様に、そして見事に描かれた作品で、迫真の筆致もさることながら、物語の構成にもシムノンの力量が伺える。

上掲の紹介文のように、小説はまず言葉をひとことも交わさない老夫婦のどこか異様な様子を映し出す。これは、ある「出来事」が済んでから四年後のこと。次いで、過去の思い出などが挿まれながらも、「出来事」の直前の時点にまでさかのぼり、そして実際に「出来事」が起こる。やがて物語は「出来事」自体よりも、「出来事」以後の夫婦の成り行きにスポットライトが当てられてゆく。終幕を迎えると、小説の中の時間は再び冒頭に戻る。遡及的な構成となっているのだ。

このような構成を採るのは小説として珍しいことではないが、『猫』ではさらに、もう一度冒頭の部分だけを読み返してみると、同じ文章なのに、初めに読んだときの印象とまったく逆転することにも気づかされる。

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『猫』は1967年に出版され、その四年後にはジャン・ギャバンとシモーヌ・シニョレという往年の二大俳優を配して映画化された。日本では未公開なのだが、ぜひ観てみたい。


〔参考〕
〔画像〕オランダ語版の表紙(ディック・ブルーナによる装丁)

ジョルジュ・シムノン『猫』三輪秀彦訳 (創元推理文庫)
Georges Simenon, Le Chat, 1967

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