2018/03/08

フランソワーズ・エリチエ『男性優位はいまだ普遍的である』

フランソワーズ・エリチエ Françoise Héritier, 1933-2017 はフランスの人類学者。『男性的なもの/女性的なもの』の著者であり、最近になってようやく日本でも翻訳が紹介された(2016年に第2巻、2017年に第1巻)。

  • Françoise Héritier, « Masculin/féminin, vol. I, La pensée de la différence », 1996 〔フランソワーズ・エリチエ『男性的なもの/女性的なもの Ⅰ 差異の思考』井上たか子、石田久仁子監訳・神田浩一、横山安由美訳(明石書店)〕
  • Françoise Héritier, « Masculin/féminin, volume II. Dissoudre la hiérarchie », 2002 〔フランソワーズ・エリチエ『男性的なもの/女性的なもの Ⅱ 序列を解体する』井上たか子、石田久仁子訳(明石書店)〕

以下は、エリチエが2002年に週刊誌『ル・ポワン』(1572号、2002年11月1日発行)に応じたインタビュー記事を、井上たか子氏が翻訳したもの。日仏女性資料センターの情報として公開されていたのだが、現在は掲載されていない模様。一部文字化け等を修正しつつ、勝手ながらこのブログに転載してみた次第。これから『男性的なもの/女性的なもの』を読もうという方には、その序曲あるいは前奏曲として目を通すと良いのではないかと思う。

なお『ル・ポワン』に掲載された元のフランス語記事は、下記に公開されている。
« La domination masculine est encore partout »Entretien avec Françoise Héritier 


〔参考〕日仏女性研究学会
〔画像〕フランソワーズ・エリチエ in リベラシオン紙

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『男性優位はいまだ普遍的である』
 ─ 『ル・ポワン』誌(no.1572、02.11.01)掲載のインタビュー ─

レヴィ=ストロースの弟子であるこの高名な人類学者フランソワーズ・エリチエは物議をかもそうとしている。女性の社会的進歩が歓迎されていると思えるいまの時代にあって、彼女は、そう考えるのは間違いであり、それどころか男性優位はいまだ普遍的であることを明らかにする。

エリチエは、前著(『男/女 I 差異についての思考』)で、あらゆる思考の根源に男女の差異があることを明らかにした。彼女の語るところによれば、最初の人類は、自然を観察し、自分の身体を見て、雄と雌、精子と血液、昼と夜、温と冷、湿気と乾燥があることを発見する。「人類の夜明けに」なされたこうした二分法的分類が思考の構造を形成する。

近著(『男/女 II 序列の解体』)ではさらに一歩進んで、男性優位の普遍性を明らかにした。男性優位は近代性のなかに入り込んでおり、生殖技術、売春をめぐる議論、そしてパリテのなかにも存在する。彼女の話はわれわれの頭のなかにまだ残っている古臭さに気づかせるまさに目のくらむような旅である。

ル・ポワン誌(以下P):はじめは男性性と女性性があった。そしてすぐに男性性がいたるところでつねに支配する。どのようにして男女の差異のなかに序列関係が入り込んだのでしょうか。
フランソワーズ・エリチエ(以下H):人類の夜明けにおけるさまざまな観察は具体的なものでした。血液は温かく、生命を意味します。男性が血を失うのは事故か自発的か、いずれにしろ活動のなかにおいてです。男性はいつも温かいものと見なされます。女性は定期的に失血しますので、冷たい湿ったものという性質を与えられます。しかも女性は血を失うことを止めることができず、このことが女性に受動的な性質を与えるのです。ところで問題は、大部分の社会において、活動的なものは男性的であり、女性的な受動性よりも上位にあるとされていることです。このように二分法的分類には、単なる差異を超えて、序列関係があるという事実は、序列関係が性的差異以外の理由によって生じていることを意味しています。
実際、私たちの祖先によってなされたあらゆる観察のなかで、一つ、とくに説明のつかない、不当な、法外な観察がありますが、それは女性は自分の同類、つまり自分に似た娘をつくるが、男性はそうではないということです。男性は自分の息子をつくるために女性を必要とします。ところが、この異なるものをうみだす、つまり男性の身体をうみだすという能力は、女性に不利な結果をまねきました。女性は共有すべき必需品となったのです。男性は息子を得るために社会的に認められるかたちで女性を長期間自分の所有物にしておかなければならない。さらに、思考のシステムは生殖の神秘をもっぱら男性の精液のなかにタネを配するというかたちで説明します。娘の誕生は男性的なものの失敗作、仮の、しかし不可欠の失敗作なのです。このような二重の、精神的かつ身体的な女性の私物化から序列関係が生じます。序列関係はすでに男女の性を特徴づける二分法的分類のなかにきざみこまれているのです。というのも女性には中傷や、自由の剥奪、生殖機能への封じ込めなどが必ずついてまわるからです。

P:男性支配は時間や空間において普遍的なものでしょうか。

H:私たちの解読格子はいつも、不動で古臭い、序列化された分類格子によるものです。どんな社会も、たとえ先進的な社会でも、私が古い支配的モデルと呼んでいるこの思考類型の遺物の影響からまぬがれてはいません。
例をあげましょう。2000年4月に神経科学の雑誌『ネイチャー・ヌーロサイエンス』に、仮想迷路から出る能力に関する実験の報告が掲載されましたが、女性は男性より55秒余分にかかるというのです。さらに、現実の生活でも女性は感覚的な基準で方角を定めるのに対して、男性は幾何学的な基準によることも示されました。そして、雄と雌のネズミの縄張りでの行動についても同じことがいえるようです。もっとも、それぞれの食料の狩出しの結果には影響ないのですが。ここから引き出される結論は、抽象的な基準によって速く方向を定めるほうが具体的な基準によってゆっくり定めるよりも優れているという公準に基づいた、雌の劣等性です。というのも、速いことは遅いことよりも優れており、抽象的なことは具体的なことより優れているからなのです。このように総合的な判断は、実験者の頭にも読者の頭にもすでに存在している古い序列的な価値観によってのみ正当化されるのです。ここに見られるのは、疑問に付されることのない性的所与の優先です。頭脳の働かせ方には男性による良いやり方と、女性によるそれほど良くないやり方があるというわけです。

P:女権制による小集団の例はなかったでしょうか。

H:いいえ。女権制はことばの本来の意味で神話にすぎません。神話とは、なぜものごとがそうであるのかを正当化する機能をもっています。神話は、前代の歴史的現実ではなく、現在男性が女性を支配し、権力を保有していることを正当化するための物語なのです。こうして人々は、古い時代の物語をでっちあげ、女性は権力と知識をもちながら、それをうまく利用しなかったというのです。こうして、男性が介入し、女性と交代したことを正当化するのです。

P:しかし、女系制社会は存在しています・・・

H:神話でしかない原初の女権制と、親子関係は女系でも権力は男性がにぎっている女系制社会がしばしば混同されています。女系制部族の親子関係は女性によって伝達されますが、権力をもっているのは女性たちの兄弟です。財産や職務の伝達は母方の伯父から姉妹の息子である甥へとなされるのです。
狩猟・採集型の小集団のなかには、平等な集団だと認められるものもいくつかあります。ですが、野営を解くといった重要な決定は男性がします。女性は採集によって、必要な食料の80%を供給しているにもかかわらず、高く評価され価値があるのは男性が狩猟によってもたらす食料なのです。

P:国を統率したり、帝国を支配したり、統治した有名な女性もいますが・・・あなたの論証と矛盾はしませんか。

H:彼女たちは例外的な女性で、その行動は男性的だと考えられていました。ふつうの女性の状況とはまったく関係がありません。エジプトの国王になったハトシェプスト、ユダヤのユディット、(英国の)エリザベスII世一世、ロシアのエカテリーナ女帝は、生まれつき、偶然にしろ、例外的な女性です。それに、ふつうの女性たちにも男性と同じ「熱」をもつ時期や状況があるのですが、それは彼女たちを危険な存在にします。思春期前の少女や閉経した女性です。女性の処女性や独身生活はですから理に背いた状況であると考えられます。女性のもつ生殖の任務にそむいているからですが、ときにはほとんど男性のような行動を可能にします。フランス史でいえば、ジャンヌ・ダルクや大妃殿下[モンパルシエ公爵夫人、ルイ13世の姪]の場合がそうです(加えて後者には高貴の生まれであることも与っていますが)。

P:少女のクリトリス切除、一夫多妻制、強制婚などを正当化するために文化的相対主義に言及する国がありますが、これはあなたの考えでは、便利な隠れ蓑ということでしょうか。

H:たしかに文化の概念は尊重されなければなりません。けれども文化は、芸術・宗教・建築・たべもの・振舞い方・礼儀など、さまざまの異なる文化を享受している民族のあいだにことさら注目すべき対立のシステムを覆い隠してもいるのです。ともかく、女性に対する人権の適用を忌避するための論拠として文化が用いられるとき(現在まで国連でこの論拠が認められていることを指摘しておかなければなりません)、注目すべきなのは、この[文化という]隠れ蓑を引き合いに出すさまざまな国は女性にたいして礼儀作法や行動の仕方、信念などの多様性を認めてはおらず、逆に、唯一ただ一つの論拠による画一性の押し付けをしているということです。その唯一の論拠とは、女性は男性に所属しており、したがって男性のようにセクシュアリティ・身体・精神を自由に用いることはできないということです。

P:女性の性質は知的構築の結果かもしれません。けれども、女性のほうが柔らかくて、弱くて、かよわいというのも本当ではないでしょうか。

H:女性はたぶん男性よりも、やわらかな声・肌をもっています。絶対的な一般性ではありませんが。声とか肌といった客観的に認められる柔らかさを、受動性とか従順さという女性の特性からきているものにするわけです。でも、まったくそんなことはありえません。これはまさしく知的構築です。こうして生理学的なものが男女の原子価の違いを正当化するために利用されるのです。それに、こうしたいわゆる女性的な特徴は一般に女性たちによって受け入れられている、さらには女性の専有物、女性のアイデンティティ、女性の避難資産(避難資本)であると主張さえされているのです。このように社会集団全体が、何千年も前から存在し行われている驚くべき精神的・肉体的調教の結果でしかないものを、「自然の」、したがって変えることのできない特性として人為的に仕立てあげているのです。

P:男性支配に対する最初の突破口は、避妊ですね。あなたは人類にとって避妊は、宇宙征服以上に重要な征服であるとお考えになっていますが・・・

H:男女平等への長い道程において、いつもまず第一に教育が重要であると考えられてきました。そのとおりだと思います。生まれたときから平等への教育が必要であると信じています。ですが、そこにはひとつ前提条件が必要であるように思います。その解答が見つかったのは20世紀においてでした。もし女性には出産能力があるがゆえに、男性のために息子をつくるという能力があるがゆえに服従させられ支配されているのであれば、女性に自由な人格としてのステータスを付与するのは、避妊を制度的に認められた権利として与えることによってなのです。
これは避妊の合法化が追求していた目的ではありません。避妊のこうした効用は事実上過って、ともかく結果的に過って女性に与えられたのです。実際、避妊方法には男性用も女性用もありうるのです。女性用の避妊を特別扱いすることによって、立法者は、こうした決定がどんな影響をもたらすか予測しないで、子どもに関することはなんでも女性に委任するというこれまでのやり方に従ったのです。というのも、以後ピルは事実上、女性解放の基本的な手段になりました。

P:女性のセクシュアリティに関係するときは、避妊の工夫をするため。男性のセクシュアリティに関係するときは、男性能力を十倍にする薬、ヴァイアグラを与えるためですね。

H:もし政治家が単に効果的に出生をコントロールしたいと望んだのであれば、最もよい方法は男性の身体をコントロールの場として選ぶことだったのです。でもそれは夢物語ですね。男性用の避妊医療は、一般的に、フランスでも同じですが、手をつけるのが難しい問題です。避妊は男性の想像力のなかで不能と結びついているからです。そしてこれも男性の想像力においてですが、男性にとって性行為は生殖の可能性と快楽の合体であり、これを妨げるものはあってはならないのです。男性の避妊の普及が失敗なのに対して、ヴァイアグラは世界中で驚異的に成功しています。ヴァイアグラの使用は男性支配の論理に結びついているのです。

P:生殖技術によって男女の関係性が変わるということはありうるのでしょうか。

H:それ自体としてはありえません。Cecos(卵子・精子保存研究センター)のジャン・ルイ・ダヴィッド教授は、精子提供者による人工受精(IAD)に助けをかりたカップルやそれによって誕生した子どもに関するルポをメディアが扱わないことに驚いていました。一方、イギリスのルイザ・ブラウンや、フランスのアマンディーヌのような試験管で受精し、培養後子宮膣内に移植する方法(fivete)で生まれた子どもたちやその両親については、過剰報道されました。FIV [La fécondation in vitro 体外受精] によって治療可能な不妊は女性の側の不妊なので、話題にしても失礼ではないけれども、IADによる治療は男性の不妊にかかわるものなので、不名誉な体験なのです。ドナーによる受精という手段は世間の目に秘密にしておかなければならないのです。不妊カップルの問題はつねにどこでもほとんど例外なく女性の側に原因があると見なされてきました。私たちはここにも私たちの価値体系の痕跡を見るのです。技術も、最先端のものでさえ、容易にこの男性支配という古臭い図式のなかに流し込まれるのです。概念支配もふくめて。

P:クローン技術はどうでしょう?

H:クローン技術も支配関係を変えることはないでしょう。仮にクローン技術が男性に用意されるとしても、女性の卵子を手に入れる必要があります。その卵子から女性の細胞核を除き、代わりに男性の体細胞で置き換えて、それを植え付けるための子宮も必要です。こうした見通しでは、女性の身体は道具化されることになるでしょう。女性は男性の利益のための奴隷とされるのです。サイエンスフィクションを押し進めれば、究極のところで、女性だけが自己繁殖できるかもしれません。自分の卵子を取り出して、核を取り除き、自分の身体からとった体細胞で置き換えて、ふたたび自分の子宮に植え付ければよいというわけです。こうして社会は、ときどき人類を刷新するために数片の冷凍精子を保存しておきさえすれば、もっぱらクローン化された女系種族によって構成されることになるかもしれません。男性種はこうして消滅するかもしれません。これは女性のもつ法外な特権の絶対的勝利となるでしょう。女性はもはや異なるものをつくりはせず、ひたすら自分を増殖するのです。男性がつねに女性を隷属させ、利用しようと望んでいたことは男性の歴史が示しています。私としては、政府がクローン生殖を禁じたことは正しかったと思います。それは人間の尊厳を侵害するという理由ではなく、社会の構成にとって他者性の承認、他者性の必要性を侵害するという理由からです。

P:あなたは現在行われている売春をめぐる議論、規制に賛成する側と廃止を擁護する側が対立している議論において、明解な立場をとっておられます。

H:いつも、売春の問題はどうしょうもないとか、必要悪であるとか、世界で最古の職業であるといった反論がなされます。これに対して私は、ここで問題なのは単に次の事実にすぎないと答えます。すなわち、世界中で暗黙の了解として、男性の性衝動は抑制されるべきではなく、衝動にまかせるべきであると考えられているという事実です。その場合の唯一の制限は、他の男性、つまり父や兄や夫の権威と監督の下にある女性の身体をふつうは使用できないとする社会習慣によるものです。戦争の場合は例外で、女性の身体に加えられる危害は男性や家族の名誉に対する侵害なのです。
青年が若気の過ちを犯したり、男たちに提供されている身体で性欲を満たすのは、男とは自制できない存在である以上、欲望は抑えきれるものではない以上、当然のことだと見なされるのです。この疑問に付されることのない公準こそが間違いなのです。ですからこの点を問題にしなければなりません。まずは教育によって、また同時に、あらゆる表現システムを内部から徐々に制御していくことによって問題にしなければなりません。たとえば、広告です。女性の身体は男性に属しており、差し出されているのだという考え、そして男性の性衝動は絶対的に合法であり、制御されるべきものではないのだから、女性の所有は男性の権利であるとする考えを活用している広告です。

P:あなたは、公的男性 homme publicとは政治家であり、公的女性 femme publiqueは売春婦を意味することを指摘しておられますね。

H:この用語上の不合理は歴史学者のミシェル・ペローが取り上げたのです。これは完璧な対句変換法です。公的女性とは、自分の身体を個別の人間の性液の排水口にしている女性で、これは下等な軽蔑すべき活動と見なされています。公的男性とは、自分の思考・行動・生活を、社会の幸福への献身と見なされている政治活動にさしだしている男性です。

P:売春の問題にもどりたいと思います。あなたはどんな解答を提示なさっていますか。

H:子どもたちに、男性の性衝動は制御できないものではないこと、多くの男性がそれをコントロールできていることを教えなければなりません。また同時に、これまで隠蔽されてきたものの、女性にも欲望があること、現在の西欧社会においてはそれほどではないにしても、いつも残酷に抑圧されてきたことを教えなければなりません。また、早い時期に、性衝動と自分の選んだパートナーに対する欲望とは違うことを理解させなければなりません。
私の見解は、売春とはこの男性の衝動の合法性と抑制不可能性という疑問に付されることのない特性に由来する要求に対する答えでしかないかぎりにおいて、自由な売春というものは存在しないというものです。さらに客の処罰は、お金と引き換えにひとの身体を利用することは権力の乱用であることを当事者に理解させるために何の措置も講じられていないかぎり、教育的手段として考えることはできません。

P:あなたのつくられた男性/女性の風景は暗いものですね。政治家がそれを変えることはできるでしょうか。

H:政治家は問題をほとんど把握していません。把握している場合でもその解答は不十分なものです。憲法のなかに、そして法律によって、パリテを制定し、男女間には自然的な、基本的な差異があることを制度的に認めたように。より一般的にいって、平等を設立しようとする手段は後追いの手段です。遅れを取り戻すこと、前にいるものに追い付くことなのです。そうしたやり方は、ひとが追い付こうとしているものがその場にじっと留まっているような動きのないシステムにおいては可能かもしれませんが、この場合はそうではありません。たとえば、国会にパリテが成立することを具体的に妨げるためにとられた選挙の際の巧妙なやり口にそれを見ることができます。実際は、有効な手段とは男女の活動を接近させるようなものであって、一方が他方を追いかけることではありません。

P:たとえば?

H:この観点から、私は父親休暇の設置を喜ばしいと思っています。これは他のもっと有効な行動の前触れであってほしいと願っています。メンタリティーの変化に到達するためには、シンボルの効力を信じなければなりません。たとえこの変化が普遍的なものになるためにまだ何千年もかかるとしても。人類にとって何千年というのはたいした年月ではありません。(試訳 井上たか子)

以上


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