眼覚めの時、われわれの内部で思考するのは、動物であり、植物である。少しの虚飾もない、原始的な思考である。眼覚めの時、われわれは物を正しく見るが故に、一つの恐ろしい世界を見る。... (p.158)
小説では、主人公ジャック・フォレスチエの心理がつぶさに語られる。医学に擬した心理解剖というよりは、詩人の心理ルポルタージュといった趣き。
ところで、コクトーがその天才を愛してやまなかったレーモン・ラディゲ。その『肉体の悪魔』は、鋭く冷たいメスをもって恋愛心理を見事に解剖した傑作と謳われる。だが、小説の語り手が主人公自身(一人称)だからだろうか、客観的な心理分析が続くようでも、読者は主人公の熱情に共感し、あるいはその傲岸さに反感を抱くことができる。『肉体の悪魔』は多分に「熱い」小説だ。
一方、『大胯びらき』の語り手は、医者よりも、そしてマルヌ川のほとりに住む少年よりも冷酷だ。振幅の激しい心の動きはオンラインに目撃されるけれども、主人公の内心にひたと寄り添ったりすることがない。語り手の視線に従うならば、われわれ読者は七転八倒するジャックを眼前に、だがガラス越しで、ずっと観察し続けるかのようである。(とくに本書の第9章は圧巻だと思う。)両者の温度差はほんとうに人称の違いだけなのだろうか。
...少し経つと、知性がやって来て、われわれを技巧で一ぱいに満たす。知性は、人間が虚飾を隠すために発明した、けちな玩具を持って来る。(pp.158-159)
ジャン・コクトー『大胯びらき』澁澤龍彦訳(福武文庫)
Jean Cocteau, Le Grand écart, 1923
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