2018/09/15

ビュトール『即興演奏』

『ミシェル・ビュトールについての即興演奏 ─変容するエクリチュール』

ミシェル・ビュトールによるミシェル・ビュトール論。タイトル通りに即興曲風 impromptu な体裁で書かれているが、ロラン・バルトの作品のように格別工夫を凝らした自叙伝ではなく、大学講義の録音を文字に起こしたものだという。

ロラン・バルトには『ロラン・バルトによるロラン・バルト』や『明るい部屋』など、自叙伝を意識した書物がある。ビュトールのような方法的な作家がバルトの方法意識に興味を抱かないはずはないとは思うが、ビュトールがバルトをどのように考えているのかは、寡聞にして知らず。バルトの方はビュトールの作品をたびたび擁護していたというから、無関心だったことはないと思う。ちなみに、『即興演奏』はほかにもフローベール、アンリ・ミショー、ランボーをめぐったものも書かれている。

本書では、作家ビュトールのこれまでの道のりを振りかえるほか、翻訳や小説のあり方など、彼が文学をどのように意識しているのかを知ることができる。さらに注目すべきは、自らが書いた小説について解説を施しているところだ。とくに、決定的な成功をもたらした『心変わり』や『時間割』では、作品内部のからくりをわりあい事細かく説明している。自身の小説を主題に語ることを著者はどこか楽しんでいる様子。ただし、小説4作品のうち、『段階』に関してはあまり語っていない。かなりの長篇で登場人物の相関もけっこう複雑なのだが。

ところで、著者の小説解題に、一介の読者としては若干不満に感じるところがあり。ビュトール小説の最大の魅力は、テクストの網の目を通して作品のメカニスムを解読するところにあるように思うのだが、作家はその「秘密」を暴露してしまった、という印象を受けたのだ。ビュトールは、小説は作家によって一方的に与えられるものであったり、読者によって受動的に消費されるものではなく、 読者に積極的な読み解きを要請することで、読者自身が作り上げるべきものである、と主張していたはずだから、何となく、裏切られたように感じてしまったのである。

もし、これは読者への背信ではないのかなどと糾したら、ビュトールは次のように弁明するかもしれない。「これらのエクリチュール(ビュトールの小説群を指す)は、 私以外の読者の存在が成立した時点(たとえば出版された段階)で、私の手から離れ、 著作権という社会的な約束事をのぞいては、もはや私の所有物ではなくなりました。あとはただ、エクリチュールの生成過程に直に立ち会った者として、その経緯(いきさつ)や作品に施した少々複雑な機関について、その一部を読者に提供したに過ぎないのです... 」こんな勝手な妄言でも、ビュトール氏は優しい父親のように宥めてくれるような気がする...。とりあえず、生みの親にはかなわない?

小説の読み方はさまざまあって、一通り作品に触れたあとに著者の解題を読んで、自分の読解/解読と突き合わせてみるのも楽しいし(図らずも、私の場合はこのケースにあたった)、その逆からアプローチするのも良いと思う。さらにもし、著者自身さえ気づかなかったメカニスムなどが発見できたとしたら、これ以上に面白い読書はないだろう。

ミシェル・ビュトール『即興演奏(アンプロヴィザシオン) ─ビュトール自らを語る』 
清水徹・福田育弘訳(河出書房新社)
Michel Butor , Improvisations sur Michel Butor - L'écriture en transformation (1993)

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