2018/10/13

デュラス『モデラート・カンタービレ』

樹のない町に住まなきゃだめね 風があると樹の音がするでしょう しかもこの町じゃ年じゅう風が吹いていて 風のない日といえば一年に二日ぐらいしかありゃしない わたしがあなたの立場だったらこの町から出て行くわ こんなところにいやしない 鳥といえば ほとんど海鳥ばかりで 嵐の後にはよく屍体がころがっている 嵐が止んでようやく樹の音がしなくなったと思えば こんどは鳥が浜辺でのどを締められたみたいな鳴き声を出して子供が寝ることもできやしない わたしならこんなところから出て行くわ

人はみな、自分のことは自分自身がいちばんよく分かっているものだ、と果たして言い切れるだろうか。

生活に困っているわけでもなく、むしろ社会的には恵まれているはずなのに、奥底に沈殿しているような不安があり、絶えず寂寞とした感覚に支配されている。気づけば、そんな状態に自分が置かれていることを承知していながら、それが一体何を意味しているのか、自分が何を求めているのかは、一向に判然としない。そういう意識は小説の主人公に限らず、おそらく誰にでもあるだろう。

ところが、一つの非日常的な事件が契機となって、自分の心は激しく動揺する。そのときはまだ、動揺の正体は見えていないのだけれども、自分自身の中で決定的な、しかももう後戻りのできないような変化が起こったことに気づくのである。そんな不安定な状態の下、今まで話したこともない赤の他人なのに、自分の心持ちを見透かしているような「理解者」が現れたら。そして、その人と対話を重ねてゆくうちに、杳然としていた自分自身の意識が次第に明るみになってしまったら。その結末は、おそらく誰でも同じ、ということにはならないだろう。

外では、初春の夕闇のうちに、庭園の木蓮が、その葬儀ともいうべき開花に精を出している。

『モデラート・カンタービレ』は、油断のできない小説である。ごく普通の現実世界の描写のはずなのに、どこか浮世離れした美しい風景に心をゆだねていると、突如として「現実」の矢が放たれ、ぐさりと心を射られてしまう危険があるのだ。その文章がたとえ夢想的な雰囲気を醸し出すとしても、デュラスは決して、日常生活から遠く隔たった世界を小説に描こうとはしていないのである。


〔画像〕映画『雨のしのび逢い』の主演ジャンヌ・モロー(右)とジャン=ポール・ベルモンド。

マルグリット・デュラス『モデラート・カンタービレ』
田中倫郎訳 (河出文庫)
Marguerite Duras, Moderato Cantabile (1958)

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