ある決まったコンセプトに基づいて構成されたものではなく、それまで雑誌に寄稿した詩、短篇、評論的なエッセイを寄せ集めたようなもので(実際には相当に気を配った構成となっているようだが)、もしマルセル・プルーストという作者の名前が全く隠されていたならば、今日あまり顧みられることのなかった文集だったかもしれない。つまり、私たちは何よりもまず、20世紀フランス文学の金字塔ともいうべき『失われた時を求めて』の存在を知っているからこそ、『楽しみと日々』を繙こうとするのだと思う。
また、それは単に文豪の若書きであるから興味を惹かれるのではなく、「のちに私たちが感嘆の念をもって眺めることになる大輪の花々の、新鮮な蕾」、つまり『失われた時を求めて』のなかで考察される諸々の主題が、萌芽もしくは蕾として含まれていることを期待するから、読んでみようという気になるのではないか。
そうなのだ、私たちが『スワン』や『ゲルマント』を読んで感嘆するものはすべてここに、微妙かつ狡猾にと言いたいほどの形で、すでに提示されている ─ 母親のお休みのキスを待つ子供、思い出の間歇性、悔恨の鈍化、土地の名の喚起力、嫉妬の掻き立てる不安、風景の説得力、さらにはヴェルデュラン家の晩餐と会食者たちのスノビスム、会話の鈍重な虚栄さえ。(アンドレ・ジッド)
例えば、三十篇の散文詩から成る《悔恨、時々に色を変える夢想》は、詩篇相互に緊密な関係をもった構成をとっているわけではなく、目次の順序どおり読むのは少々退屈する。その一方で、『失われた時を求めて』で垣間みたような風景画や抒情に溢れた歌など、そういった輝きを認めたときは、二枚重ねの面白さがある。
短編物語の一つ《晩餐会》は、ゲルマント公爵夫人やヴェルデュラン夫人のサロンで繰り広げられる情景が浮かんでくるようだ。
《若い娘の告白》では、主人公が逸楽と放蕩に耽りつつも、献身的な愛を注いでくれた母親に対する罪悪感が拭えず煩悶する条りがあるが、これなどはまさに『失われた時を求めて』の語り手の懊悩そのものである。ちなみに、『失われた時を求めて』の第一篇「スワン家の方へ」の幕開けで語られる幼少期の就寝劇の断片も、この短篇に登場する。
『楽しみと日々』の中にすでに散りばめられたこういった主題が、『失われた時を求めて』ではどのように花開いたのかを比べてみることは、この初期作品を読む楽しみの一つになっているように思う。
(つづく)プルースト『楽しみと日々』 (2)
〔画像〕1895年ごろのプルースト
(つづく)プルースト『楽しみと日々』 (2)
〔画像〕1895年ごろのプルースト
マルセル・プルースト『楽しみと日々』
岩崎力訳(岩波文庫)/ 窪田般彌訳 (福武文庫)
岩崎力訳(岩波文庫)/ 窪田般彌訳 (福武文庫)
Marcel Proust, Les Plaisirs et les Jours (1896)
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