メルロ=ポンティの哲学史的な方法論とは、過去の哲学者たちの仕事のなかに潜在する彼らが〈考えないでしまったこと l'impensé 〉を浮かび上がらせ、自分のものとして引き継ぐような読解の要請である。(國領佳樹)
岩波文庫版の翻訳が青帯ではなく赤帯で刊行されているように、『エセー』はもっぱら文学作品として読まれる一方で、モンテーニュという思想家、哲学者の著作でもある。そこで、それでは後代の哲学者は ──何やかんやと批判しつつも『エセー』が最大の愛読書だったに違いないパスカルのほかに── 、モンテーニュをどのように批評しているのだろう、と探してみたところ、メルロ=ポンティという意想外の人の名前にぶつかった。
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肉体は我々の存在の大きな部分であって、そこに重要な役割をもっている。それで体の恰好や釣合が重要視されるのは当然である。我々の主要なこれら二つの部分を引離し、霊と肉[身体]とを別々にしたがる人々は間違っている。あべこべに両者は結び合わせなければならない。霊魂には片隅に引込んだり・独りぽつねんと構えたり・肉体を無視したり・放棄したり・なぞするように命じないで(それにそんなことをいったって、いくらか猫かぶりでもしないことには、到底それはできっこないのである)、かえって肉体に結びつき、これを抱擁し、これを愛し、これを助け、これを制し、これに勧告し、これが迷いかけたらこれを常道に引き戻すよう、要するにこれと結婚しこれの夫となるように、命じなければならない。そうやって両方の成果がちぐはぐな食いちがったものとならず、調和一致したものとなるようにしむけなければならない。(モンテーニュ『エセー』第2巻17章より、関根秀雄訳)
メルロ=ポンティにモンテーニュが憑依して『エセー』への加筆を企てのか。いや、そうではなくて、メルロ=ポンティがモンテーニュと一体化して、豊穣なる『エセー』の世界をあらためて開示したというべきか。この哲学者の思想にとって重要とされる「両義性/曖昧さ l'ambiguïté 」の問題、その真髄はまるで、『エセー』から抽出されたのかと感じられるほどに、モンテーニュへの敬愛ぶりが伝わってくる。第3巻を中心に『エセー』の文章が50以上も引用されているが、これを考察するメルロ=ポンティの言葉にも、単なる要約ではなく、何かしら格言に満ちている。ここには、モンテーニュと並んで一人、モラリストがいる。
以下は、文中からメルロ=ポンティの言葉を抜粋したもの。これらはいずれも、引用されたモンテーニュの言葉と合わせて読むことで、一層説得力があり美しくきらめく。
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モンテーニュは、あらゆる真実は自家撞着すると説くことから始めて、矛盾こそ真理だと認めることで終っているとも言えよう。
すべてに向かって身を開いているこの曖昧なわれ、彼[モンテーニュ]がけっして探究し終ることのないこのわれ[自己、自我]の中に、おそらく彼は結局、あらゆる不分明のありか、あらゆる不可思議の不可思議、そして、ひとつの窮極的真理とでもいうべき何物かを見出しているのだ。
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われわれは鍵を持たないひとつの世界に関わり合いになっているのであり、自分自身のうちにも、もののうちにも留まることができず、ものから自分へ、自分からものへと、投げ返されているのである。(…) われわれを自分自身の中へ復帰させることはけっこうである。しかし、にもかかわらずわれわれは、ものと同じく己れの外に逃れ出てしまうのだ。
ものの世界を前にして、のみならず、自己の本性に安んじている動物の世界を前にした時ですら、意識は空疎で貪欲である。それは何ものでもないがゆえに、すべてのものの意識なのだ。それはあらゆるものに捉えられながら、いかなるものにも密着しないのだ。われわれの明澄な観念は、知りたくもないこの潮の流れに有無を言わさず捲き込まれ、われわれ自身の真実になるよりむしろ、われわれの存在を隠す仮面になってしまう惧れがある。
モンテーニュにおける自己認識とは、自己との対話である。それは、彼がそうであり、かつ彼が答えを期待しているこの不透明な存在に対して向けられた問いかけ、いわば彼自身の〈吟味 essai 〉ないし〈実験〉なのである。
意識しているとは、何よりもまず、別のところにいることなのである。
愛は誰かを目指すものである以上、肉体だけのものではないし、その人の肉体の中の精神を目指す以上、精神だけのものでもない。
〈奇妙な étrange 〉という言葉は、モンテーニュが人間について語る時、もっとも頻繁に用いられる言葉である。あるいは〈馬鹿げた absurde 〉。または〈怪物 monstre 〉。または〈奇蹟 miracle 〉。
霊魂と肉体の〈混合 mélange 〉こそモンテーニュの領分である。
死を思い煩うことによって生を損なうとは、もってのほかである。
ひとつの形而上学なり自然学なりが提供し得る、人間に関する説明を、彼は前もって忌避する。なぜならば、哲学や科学を〈証明する〉のは、やはり人間なのであり、人間がそれらによって説明されるというよりは、それらが人間によって説明されるからである。
人間に関する問題を解決することは課題たり得ず、もっぱら、人間を問題として描くことのみが課題たり得るのである。あの、発見なき探究、獲物なき狩猟の観念は、そこから生ずる。それはディレッタントの悪癖ではなくして、人間を描こうとする場合の、ただひとつの適切な方法なのである。
啓示宗教も、つまるところ、人間の狂気がこの地上に出現せしめるものと、さして異なるところはないのだ。
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認識におけると同様、モラルにおいても、彼はわれわれ人間の現世への内属を、あらゆる超自然的関係と対立させている。人はある行為を悔悟することはできるが、自分自身であることを悔悟することはできない、と彼は言う。
生まれなおしということはあり得ない。われわれは、自己の何物をも帳消しにはできないのである。
奇態なるものの場所を確保し、われわれ人間の運命が謎に満ちたものであることを知っているという点で、宗教には価値があるのだ。その謎について宗教が提出する解答は、いずれもわれわれの怪物的条件とは相容れない。問いかけとしての宗教は、回答を伴わないかぎりにおいて根拠がある。
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国家などというものは、彼の考えでは、偶然われわれがそこに入れられている外的機構のひとつであって、われわれは自己の何物をもそれに捧げることなしに、その法則にのっとってそれを使うべきなのである。
公的生活はわれわれを、自分で選んだわけでもない人びとや、多くの愚か者と付き合うようにさせる。
なぜ[国家を]軽蔑しなければならないかといえば、国家は、およそこの世で価値あるすべてのもの、自由にも、良心にも、反するものだからである。しかしながら、服従せねばならない。なぜならば、この狂気は多数者の共同生活の法則であり、国家をその法に従って扱わないのは、別の狂気となるからである。
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あらゆる信念は情熱であり、我々を自己の外に出してしまう。人は考えることをやめなければ、信じることはできないのである。
思考は、自ら問う時には際限もなく先に進み、自家撞着し続けてやまないが、その一方には現実態の思考 une pensée en acte というものがあって、それは無視できないものであり、われわれはそれに説明し正当化しなければならない。
彼はラ・ボエシー[モンテーニュが生涯で最も敬愛し理想とした友人。『自発的隷従論』の著者]の目で見られながら生きていたのだ。
ラ・ボエシーの友情は、モンテーニュの生涯の一偶発時であったどころか、モンテーニュと『エセー』の著者はこの友情から生まれた、そして要するに、彼にとって存在するとは、親友の眼差しのもとに存在するということなのだ、と言うべきであろう。
服従の情熱もまた醜悪であり、無益である。肉体も魂も譲り渡してしまうような人間を、どうして尊敬できよう?
無条件で主人に自己を捧げることができるのは、主人をとりかえることもできる、ということだ。確かに、ひとつの立場を取らねばならないし、とことんまでその結果を引き受けなければならない。しかし、〈正当な理由〉は人が思っているほどしばしばあるものではないから、あまりいそいそと選択してはならない。なぜならば、そういう時、人が愛しているのは正義ではなくて党派だからだ。
われわれは生きている、われわれが務めを持っているのはこの世であり、われわれの息の続く限り、その務めは変わらない。
死と情念に対する治療薬は、それを避けることではなくて、逆に、すべてがわれわれをそこに導いているとおりに、それより向こう側に行ってしまうことである。
われわれ人間の条件を呪ってみても無意味だ。善と同じく悪もまた、われわれの人生の中にしか存在しないのである。
絶対的な愛着を可能にするのは、無条件の自由だ。
シニックであると同時にまじめでいる秘訣、自由であると同時に忠実である秘訣、彼はそれを求め、そして、おそらくはそれを発見したのである。
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〔参考〕
- メルロ=ポンティ『シーニュ』(仏語) in Philologos
- 『メルロ=ポンティ ─ 哲学のはじまり はじまりの哲学』(河出書房新社)
モーリス・メルロ=ポンティ『モンテーニュを読む』二宮敬訳
(みすず書房『シーニュ 2』所収)
Maurice Merleau-Ponty, Lecture de Montaigne, 1947
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