「仕事(=労働)で自己実現」といった概念は社会でそっくり受け入れられているような気がする。けれども、文人に限らず多くの人が、私が思うところの賢人たちが、労働の束縛から解き放たれた状況でこそ、自己の意味を知り得る、といった言葉を吐く。ブルトンのこれらの文章にも通じるものがある。
私は労働の観念を物質的必要として受け入れざるをえないし、この点では労働の最もよい配分、もっとも公正な配分にはだれよりも好意的である。いまわしい生活上の義務から労働を強いられるのはまあいい。だが、労働を信じろだの、自分の労働や他人の労働を敬えだのと要求されるのはごめんである。(p.69)
働いているあいだは生きていたってしかたがない。だれしも自分自身の生活の意味の啓示を権利として期待できる出来事、私はまだそれを見つけていないかもしれないが、それをめざす途上で自分をさがしている出来事、そういう出来事は、労働とひきかえに与えられるものではない。(p.69)
その人たちが労働を受け入れている限り、ほかにどんなつらいことがあろうとなかろうと、同情をひくなんてことはありえないでしょう。彼らのなかにとびきり強い反抗心がないなら、そんなことでどうして高みにのぼれるのでしょうか? この瞬間、あなたは彼らを見ているけれども、彼らのほうはあなたを見てなんかいません。(p.79)
ここにも、昼(労働の時間帯)には決して成し得ない、人生=世界を探求する行為が描かれていた。
私は夜、どこかの美術館に自分から閉じ込められて、禁じられた時間なのに、龕灯(がんどう)式ランプ(*)でひとりの女の肖像を照らし出し、心ゆくまで眺めているような人々が大好きである。そのあとからそんな人々はその女について、私たちよりもずっと多くのことを知るようになるはずではないか? 人生は暗号文のように読み解かれることを求めているのかもしれない。(p.133)
*「龕灯式ランプ」とは、蝋燭などのあかりをなかに入れて側面の窓から外を照らしながら、手に提げて持ち歩けるようになっているもの。(訳注より抜粋)
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ところで、「愛」という言葉を一言も口にせずに、愛を語ることは果たして本当に可能なのか。そんな下らない疑問に「Oui.」とうなずいてくれるような一節が次。
ある人の生によって生き、しかもその人の与えてくれる以上のものを得ようとは決して思わずに生きること、その人が動いていたりじっとしていたり、話をしたり黙ったり、目覚めていたり眠っていたりするのを見るだけで十二分に満足していられること、そんなことを可能にする一切が私にはもう存在しなくなっていた、いやいちどだって存在したためしがなかった。(p.158)
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そして、ブルトンの「率直さ」が、シュルレアリスムというイデオロギーを統治させ続けたのだろうか。『ナジャ』は、その「率直さ」の集大成なのだろうか。
さらにしばらくのあいだ彼女は私をひきとめて、私の中の何が彼女の心をうつのかをいおうとする。それは、私の考え方のなかに、私の話し方のなかに、私の存在の仕方すべてのなかにあると思われるもの、そしてその褒め言葉こそ人生最大の弱みの一つであったもの、つまり、率直さ la simplicité だという。(p.83)
私はうらやましい(というのはひとつの言い方だが)、一冊の書物のような何かを準備するだけの時間があって、仕上げるところまで来たとき、そのものの運命とか、あるいはそのものによって最終的にもたらされる自分の運命に対して、首尾よく興味をもてるようなすべての人がうらやましい。どうかそんな人も、途中で少なくともいちどは本当に匙を投げる機会がおとずれたということを、私に信じさせておいてほしい。(p.173)
〔画像〕ナジャが描いた素描 in Nadja d'André Breton
〔同じ作家の作品〕
アンドレ・ブルトン『ナジャ』巌谷國士訳 (岩波文庫)
André Breton, Nadja, 1928, 1963
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