2019/12/07

おずおずとした楕円形の黄金の音色が...

『失われた時を求めて』を読みながら 

夜、家の前の大きなマロニエの下で、私たちが鉄製のテーブルを囲んで座っていると、庭のはずれから聞こえてくる呼び鈴が、溢れんばかりにけたたましく、鉄分をふくんだ、尽きることのない、冷んやりする音をひびかせる場合、その降り注ぐ音をうるさがるのは「鳴らさずに」入ろうとしてうっかり作動させてしまった家人だとわかるのだが、それとは違って、チリン、チリンと二度、おずおずとした楕円形の黄金(きん)の音色が響くと来客用の小さな鈴の音だとわかり、皆はすぐに「お客さんだ、いったいだれだろう」と顔を見合わせ、それでいてスワン氏でしかありえないのは百も承知なのだ。
第一篇《スワン家の方へ I》岩波文庫, pp.45-46
Les soirs où, assis devant la maison sous le grand marronnier, autour de la table de fer, nous entendions au bout du jardin [夜、家の前の大きなマロニエの下で、私たちが鉄製のテーブルを囲んで座っていると], non pas le grelot profus et criard qui arrosait, qui étourdissait au passage de son bruit ferrugineux, intarissable, et glacé, toute personne de la maison qui déclenchait en entrant « sans sonner » [庭のはずれから聞こえてくる呼び鈴が、溢れんばかりにけたたましく、鉄分をふくんだ、尽きることのない、冷んやりする音をひびかせる場合、その降り注ぐ音をうるさがるのは「鳴らさずに」入ろうとしてうっかり作動させてしまった家人だとわかるのだが、それとは違って], mais le double tintement timide , ovale et doré de la clochette pour les étrangers [チリン、チリンと二度、おずおずとした楕円形の黄金(きん)の音色が響くと来客用の小さな鈴の音だとわかり], tout le monde aussitôt se demandait : « Une visite, qui cela peut-il être ? » [皆はすぐに「お客さんだ、いったいだれだろう」と顔を見合わせ] mais on savait bien que cela ne pouvait être que M. Swann [それでいてスワン氏でしかありえないのは百も承知なのだ]...
 (Folio-1924 p.14)

小説の扉を開く上でも重要なこの文章には、語順に重要な意味があるのだと訳者は指摘する。「チリン、チリン」という音が響いて、家族の耳に届き、それが鈴が揺れたのだと想い浮かぶ。次いで、それが来客用の鈴だと分かり、誰かがやってきたのだと気づくのだが、小説は、これによってスワン氏の登場を告げる。

「このような音の認識の順序が重要なのは、それが少年にとって、母親のお寝みのキスを奪うスワン氏の来訪が告げるものだったからです。」(吉川一義『プルーストの世界を読む』p.52) 少年にとって、聞こえてくる音が「鉄分をふくんだ、尽きることのない、冷んやりする音」なのか、「チリン、チリンと二度、おずおずとした楕円形の黄金(きん)の音色」なのかによって、就寝が悲劇のものとなるかもしれない重大な関心事だったのである。語順と認識の順序が一致する例としては、窓ガラスに雨粒が落ちる情景もある。

こんなふうに、入口はそこにあった。呼び鈴の音が本当に小説の扉だったのであり、そこから若い読者もまた、来訪を待たれる客のように本の中に入り込めたのであり、そうすることによって読者は無名の語り手と重なり、その記憶のすべてが彼のもとになるのだった。(ル・クレジオ『鍵となる言葉』浅野素女訳、集英社版『失われた時を求めて』付録「月報プルーストの手帖1」所収)

小説が開幕してまもなくに鳴り響くこの鈴の音は、遥か遠く、小説が閉じる間際に再び聞こえてくる。許多の忘却を経てもなお、それが人生にとって重要なのかどうかはさておき、甦ってくる記憶というのはあるものだ。「あの音はつねに私の内部に存在していたのだ。」


〔参考〕

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