まず思い浮かんだのは映像化。テクストを忠実に再現する、つまり愚直に「ブルトンの眼」をなぞってみる。思いがけないものが連続し、そうであるべきはずのものが断絶した世界を目撃してみたい。 街灯はその夜、郵便局へゆっくりと近づいていきながら、一瞬ごとに立ちどまって耳を澄ますのだった。こわかった、ということだろうか? 手法としてはアニメーションが最適か。それともテクストの瞬間=断片を写真に「移す」のであれば...。
絵画。どうしても、シュルレアリストの肩書きをもつ(背合わされる)画家たちの名ばかりが思い浮かぶ。マックス・エルンスト、ルネ・マグリット、ポール・デルヴォー、福沢一郎...。もしも彼らが『溶ける魚』を描いたとしたら。だが、彼ら自身が生み出したのではないイマージュを彼らは描いただろうか。 鳥たちは色彩を失ってから形を失う...
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私の眼は、手の内側にうけとめてみたいあの雨の滴ほどに表現力ゆたかではない。私の思考の内側には星々をおしながす雨がふり、それはまるで盲人たちに殺し合いをさせるだろう黄金をはこぶ澄んだ河のようだ。(p.135)詩の側面からみると文学と音楽とは近しい関係のようにも見えるが、シュルレアリスムの音楽というものを一向に聞いたことがない。シュルレアリスム的というのであれば、安易だけれどもエリック・サティの名が浮かぶ。マン・レイいわく「目をもった唯一の音楽家」(*) は、ブルトンが『シュルレアリスム宣言』が発表された翌年には亡くなっており、『溶ける魚』を読んだ形跡などもない。もしこの散文集にもとづいて音楽作品を作ってほしいと依頼されていたら...。サティの遊びをブルトンが許容できたとは思えないけれども。 私はいま宮殿の回廊のなかにいる、みんな眠っている。緑青(ろくしょう)、赤錆、これはほんとにセイレーンの歌声なのか?
(*) «le seul musicien qui avait des yeux» 『エリック・サティ展』にオルネラ・ヴォルタが寄せた序文より。マン・レイが描いた『サティの梨 La poire d'Erik Satie 』に付けられた表題? 同時代の絵画にたいする審美眼と先見の明があったサティを讃えた言葉。
〔参考〕(人物事典)アンドレ・ブルトン in Le Blog Sibaccio
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