一歩進むか、一歩退くか、わたしはその顔を二度と見られないのではないかと、気も狂わんばかりに恐れていた。しかし、その顔がびっくりしたようにわたしのほうに振り向けられ、それが非常に近かったので、この瞬間の彼女の微笑みから、緑色のはしばみの実を掴んでいるリス un écureuil tenant une noisette verte というイマージュが浮かび、その思い出が、今日のわたしに残されている。(p.99)
『めぐりあう日』というフランスの映画をテレビで観ていた。産みの母を探しにダンケルクまでやってきた女性とその息子、そして実母をめぐる物語。映画は結末を迎え、エンディングテーマが流れ始めたのだが、しばらくすると海上の風景とともに、男声による朗読が聞こえてきた。韻を踏んではいないものの詩のような文章で、どうやら16歳の女性宛てに、否、今はまだ幼い娘の16年後を思い浮かべて語っている手紙のようだった。
それが、アンドレ・ブルトンの『狂気の愛』、「愛するエキュゼット・ド・ノワルーユへ」で始まる第7章の数節だった。映画の原題 «Je vous souhaite d'être follement aimée» (「あなたが狂おしいほどに愛されることを、わたしは願っている」)も、章の最後の一文である。エキュゼット・ド・ノワルーユ Ecusette de Noireuil とは作者によるアナグラムで、1935年12月に生まれたブルトンの娘オーブのこと。
随分前に『狂気の愛』を読んだことがあったけれど、あまりの難解さに途中で投げ出してしまい、作品最後のこの章にまでたどり着かなかったから、まったく覚えがなかった。改めて読むと、少なくともこの章については何も身構えることなく読める。娘に宛てた手紙という体裁だが、その言葉には、何も告げずに出奔してしまった妻、娘の母ジャクリーヌへの恋慕が透けてみられる。
以下は、映画のエンディングで読まれた朗読の各部分。朗読された順序で並べてみた。
[1] Au beau printemps (de 1952)(*) vous viendrez d’avoir seize ans et peut-être serez-vous tentée d’entrouvrir ce livre dont j’aime à penser qu’euphoniquement le titre vous sera porté par le vent qui courbe les aubépines…
(1952年の)(*) 美しい春、あなたは16歳になったばかりだ。そしてもしかしたら、この本を開いてみようという気になるかもしれない。わたしはこの本の題名が、耳に心地よく、サンザシをたわめる風によって、あなたのところに運ばれていくだろうと思いたい...... (p.243)
(*) 映画の朗読では省略。
[2] Ma toute petite enfant qui n’avez que huit mois, qui souriez toujours, qui êtes faite à la fois comme le corail et la perle, vous saurez alors que tout hasard a été rigoureusement exclu de votre venue, que celle-ci s’est produite à l’heure même où elle devait se produire, ni plus tôt ni plus tard et qu’aucune ombre ne vous attendait au-dessus de votre berceau d’osier.
わたしのほんの幼い女の子、あなたは八ヶ月、いつも微笑んでいて、同時に珊瑚でもあり真珠でもある、そういうものとしてつくられている。あなたはそのとき知るはずだ、いかなる偶然も、あなたの誕生から厳密に排除されていることを、あなたの誕生は、早くもなく遅くもなく、生ずべき時刻に生じたことを。そしていかなる影も、柳の枝で編んだり揺り籠の上で、あなたを待ち受けてはいなかったことを。(p.245)
[3] Bien longtemps j’avais pensé que la pire folie était de donner la vie. En tout cas j’en avais voulu à ceux qui me l’avaient donnée. Il se peut que vous m’en vouliez certains jours. C’est même pourquoi j’ai choisi de vous regarder à seize ans, alors que vous ne pouvez m’en vouloir. Que dis-je, de vous regarder, mais non, d’essayer de voir par vos yeux, de me regarder par vos yeux.
長いあいだわたしは、子供を生むのは最悪の狂気だと考えていた。いずれにせよ、わたしを生んだ人々を恨みに思っていた。いつかある日、あなたがわたしのことを恨むことがあるかもしれない。だからこそわたしは、16歳のあなたを眺めることを選んだのだ、いまあなたは、わたしを恨むことができないのだから。いや、あなたを眺めるのではない、そうではなく、あなたの眼で見てみよう、あなたの眼で自分を眺めてみよう、そう試みることにしたのだ。(p.245)
[4] Tous les rêves, tous les espoirs, toutes les illusions danseront, j’espère, nuit et jour à la lueur de vos boucles et je ne serai sans doute plus là, moi qui ne désirerais y être que pour vous voir.
ありとあらゆる夢想、ありとあらゆる希望、ありとあらゆる幻滅が、あなたの巻毛の輝きをあびて、昼となく夜となく頭のなかで跳ねまわっていることだろう、しかしおそらく、わたしはその場にはもういない、わたしはあなたの姿を見るためにだけ、そこにいたいのに。(pp.243-244)
[5] Quelle que soit la part jamais assez belle, ou tout autre, qui vous soit faite, je ne puis savoir. Vous vous plairez à vivre, à tout attendre de l’amour.
あなたに与えられる分け前がけっして十分でないか、それともでそうではないか、わたしにはわからないが、それが何であれあなたは生きることに、愛からいっさいのものを期待することに、喜びを覚えてほしい。(p.244)
***
些細なことだが、訳者も触れているように作品の邦題は「狂おしいほどの愛」といったほうが、ニュアンスは近いような気がする。本当に狂気に陥ってしまったら本当には愛せない、愛について本当には語れないのではないか?... 「しかしながら、理性をそなえた主体が、あるとき突然に、狂気が自分の眼前にあること、狂気が可能であり、ごく近くにあることを察するに至るのは、やはり恋愛状態においてなのだ。」(ロラン・バルト)
- 映画『めぐりあう日』公式サイト
- 『狂気の愛』第7章(仏語) in DORMIRA JAMAIS
- (人物事典)アンドレ・ブルトン in Le Blog Sibaccio
〔同じ作家の作品〕
アンドレ・ブルトン『狂気の愛』海老坂武訳(光文社古典新訳文庫)
André Breton, L'Amour fou, 1937
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