2022/07/31

バシュラール『夢想の詩学』

何ごとも起らなかったあの時間には、世界はかくも美しかった。私たちは静謐な世界、夢想の世界のなかにいたのだ。

夢想の復権 

「夢想」という語には、眠っているとき(無意識の状態)に見る夢のことと、目覚めているとき(意識のある状態)の空想のことの両方の意味を含むようですが、バシュラールは後者、私たちが気ままに思い描ける空想、絵空事のほうの意味で本書のなかで用いています。フランス語の «rêverie»(夢想)も、辞書には類語として «rêve»(夢)のほかに、«imagination»(想像力・空想)、«chimère» «fantasme»(幻想、幻覚)といった言葉が示されています。

バシュラールは夢について、「夜の夢はわたしたちのものではない。それはわたしたちの所有ではないのである。それはわたしたちを誘拐する者であり、数ある誘拐者のうちでも、もっとも面食らわせるような誘拐者である。それはわたしたちの存在を誘拐してしまう」「夜の夢をみる人はその自我(モワ)を失った影である」と述べています。確かに夢は「私」という主体が見るもの、「私」自身の行為ともいえるものの受動的であり、夢みる間は夢に支配されているとさえ言えます。

一方、夢想については「夢想する自由のほかに、わたしたちにはどんな心理的自由がありうるというのであろうか。心理的に言うならば、わたしたちが自由な存在であるのは、夢想のなかにおいてなのである」「夢想に耽る人は、いくぶん哲学的であるなら、その夢想する自我の中心においてコギトを形成することができる。換言すれば、夢想とは意識の微光が残存する夢幻的活動である」と言うように、夢想は覚醒している「私」自身が能動的にかつ恣意的に自由に見ることのできる意識活動であり、それゆえに詩的イメージ(イマージュ images )はいくらでも想像でき増大できるものとして、バシュラールは夢想に積極的な意味をもたせているようです(*)

(*) 私は夢想と想像力とは同じものと捉えてしまっており、明確な違いを見いだせておりません。イメージを紡ぎ出す能力を想像力 imagination 、紡ぎ出されたイメージで心が満たされているものを感じている最中の状態が夢想 rêverie 、でしょうか?......

「想像力とは、語源が暗示するような、現実のイマージュを形成する能力ではなく、現実を超え、現実を歌うイマージュを形成する能力である。それは超人間性の能力である。」バシュラール『水と夢』及川馥訳 

文学史の本などを眺めると、シュルレアリスムを始めとする現代の文学あるいは芸術の潮流には、芸術の源泉としての夢を復権させる動きが大きく、夢想を前世紀のロマン主義の遺産として対峙させるとしたら、夢のほうに一層重きを置いているように見えます。夢は私たちに意想外の驚異 merveilleux をもたらす。けれども、実際に詩や小説を書いたり絵を描いたりするときは、言うまでもなく目覚めている間であって、たとえイメージの源泉が芸術家の眠っているときに見た夢であったとしても、創作途中に脳裡に浮かんでいるそのイメージは、やはり夢想の働きによって再現されているものなのではないでしょうか? むしろ、夢は単なる取っ掛かりに過ぎず、芸術家たち自身の事後の証言とは裏腹に、夢想がイメージを再創造して作品に投影しているのではないかと思ったりします。夢想こそが芸術制作の原動力であり方法なのではないか、とも。

夢想の人とその夢想の世界とはもっとも接近していて、それらは触れ合い、相互に浸透している。両者は存在の同一次元上にあり、人間の存在を世界の存在に統合すべきであるとすれば、夢想のコギトがつぎのように述べられているからである。すなわちわたしは世界を夢想する。したがって世界はわたしが夢想するように実存する。

本書はもっぱら詩人たちの詩的イメージ、彼らが読者にもたらす詩的イメージをたよりに、夢想の働きや夢想が人生に大切なものであること(とくに子どもの頃の夢想)などを自由自在に論じていますが、それと同時に夢想する人の魂、心霊、心的作用(本書では Psyché あるいは psychisme といった語が度々出てくる)に触れながら、夢想から創り上げられる詩的イメージの生成過程、あるいは夢想の実践方法についても語っているようです。本書は夢想がもたらす詩的イメージの詩学 poétique であると同時に、実践学・制作学(ポイエティーク poïétique)でもあると思います。

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子供の頃の夢想、夢想がもたらす自由

本書には《幼少時代へ向う夢想》という章があります(第3章)。バシュラールは語それ自体が夢想を喚び起こすこと(第1章)、ユング心理学の「アニマ」と「アニムス」を援用して考察した夢想の内側(第2章)、夢想する夢想家の自己意識(第4章)、そして多くの夢想が時空を超えて宇宙的なものになるといったこと(第5章)など、魅力的なテーマを多彩に繰り広げていますが、なかでも、子どもの頃の夢想についての考察は、私自身の経験を重ねやすく、この章だけでも何度も読み返したくなります。夢想することの楽しみ、かつて夢想していたときの私を取り巻いていた幸福感を思い出せるから、というよりは今新たに夢想することができるからというべきでしょうか。

わたしたちの幼少時代には、夢想がわたしたちに自由を与えてくれた。自由の意識を受け入れるのにもっともふさわしい領域は夢想なのだ、ということは誰の目にもはっきりしている。

夢想にふける子供は、ひとりぼっちだ、本当に孤独なのである。かれは夢想の世界で生きている。かれの孤独は成人の孤独にくらべ、非社会的であり、しかも社会とはそれほど対立していない。子供は孤独の自然な夢想を知っているから、その夢想をすねた子供の夢想と混同してはならない。この幸福な孤独のなかで夢想する子供は、宇宙的な夢想、わたしたちを世界に結びつける夢想を知っているのである。

退屈なとき、大人の用事にしぶしぶ付き合わされているとき、やりたいことをあれこれと禁じられて手持ち無沙汰のとき、あるいは、なぜかは言葉にできないが友だちからも家族からも少し離れてみたくなったときでも、夢想は常に私たちのそばにいた...... 子どもの頃に夢想と上手に付き合った人は、孤独や退屈ともうまくやっていけるだけでなく真の自由を、自由の大切さをよく知っている人かもしれません。「夢想もせずどうして成熟することなどできようか。」


〔参考〕『夢想の詩学』目次

    • 第1章 夢想についての夢想 語をめぐる思想家
    • 第2章 夢想についての夢想 〈アニムス〉-〈アニマ〉 
    • 第3章 幼年時代へ向う夢想
    • 第4章 夢想家の〈コギト〉
    • 第5章 夢想と宇宙(コスモス)


ガストン・バシュラール『夢想の詩学』及川馥訳(ちくま学芸文庫)
Gaston Bachelard, La Poétique de la rêverie, 1960 

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