2021/10/02

シムノン『メグレとベンチの男』

遁走する男たち

「おわかりでしょう、いちいち繰り返してはいられませんわ。男の人が家庭的に幸福ではなくて、打ち明け話をしはじめると……」

この小説の被害者ルイ・トゥーレのように、実際にはすでに職を失ったり離れたりしているのに、ふだんどおりに朝出勤し、夕方に家に帰ってくるという生活を続ける男たちが、メグレ警視シリーズには何人か登場する。たとえば、『誰も哀れな男を殺しはしない』のモーリス・トランブレや『メグレとワイン商』のジャック・リオールなど。『死んだギャレ氏』の被害者で、出張で家を空けることの多かったエミール・ガレも、この類に数えられる。もしかしたら、ガレ氏が原型なのかもしれない。

いずれにしても、なぜ彼らは妻たちに偽って、遁走ともいうべき、このような行動に及んだのだろう。

もし、妻と然るべき信頼関係を築いていたら、家族と腹を割って話すことができたら、家にいても幸せだったら、彼らは遁走などしなかったのだろうか? そもそも、そのようなことは望むべくもない結婚だったのか?...

オランダ語版では「メグレと黄色い靴」 Maigret en de gele schoenen になっている。ルイ・トゥーレはなぜ、妻が見たこともない黄色い靴を履いていたのか? メグレも同じような靴を持っていなかっただろうか?......

〔画像〕オランダ語版の表紙(ディック・ブルーナによる装丁)

ジョルジュ・シムノン『メグレとベンチの男』
矢野浩三郎訳(河出書房新社)
Georges Simenon, Maigret et l'Homme du banc, 1953

0 件のコメント: