2020/12/19

シムノン『ブーベ氏の埋葬』

 ほんのわずかなことで、物事の様相は一変してしまうものだ。もしも偶然が、これこれの日と時間に、若いアメリカ人の学生を河岸に導くようなことをしなければ。さらには、もしも偶然が、学生がカメラを手にしていることを望まなければ、もしもエピナル版画がブーベ氏のまわりで散乱していなかったら、そして、その場に一風変わった趣を与えていなかったら、おそらく学生は写真を撮る考えを起こさなかっただろう。

ある朝、無名の老人が突然道端に倒れ、そのまま息を引き取った。目の当たりにした人々には驚くべき光景ではあったものの、ことさら新聞に載せるほどに珍しい出来事ではあるまい。然るべき法的な手続きがとられ、数日のうちに葬式が執り行われ、老人は何事もなく埋葬されるはずだったのではないか?

ところが偶然にも、老人の顔が写真に撮られ、しかもそれが当日の夕刊に載ってしまった。そのことで、老人が墓場まで持ち去るはずだった数々の事実が、明るみになっていくのである。「あのいまいましいアメリカ人学生が、写真の愛好家でなかったならば……」(p.144)

***

この事案を捜査する何人かの警察官が登場する。司法警察局の面々なのだが、メグレ警視シリーズに出てくる人々の面影を感じる。自らの足で地道に捜査を進めるムッシュー・ボーペールの姿は、あの「無愛想な刑事」ロニョンを彷彿とさせる。ムッシュー・ボーペールのほうは相手が浮浪者であっても親切で、ロニョンほどの悲壮感は背負っていないけれど。リュカ刑事については、シリーズ常連の同じ名の刑事がいる。同じ人物だろうか?(リュカの名は、『汽車を見送る男』などシリーズ外の作品にも多く登場する。) そして、局長のギヨーム氏。メグレほど寡黙でも重々しくもないが、部下とのやりとりなどにメグレの雰囲気が垣間見える。いや、突然、局長の部屋の扉が開き、パイプを加えた大男が現れるかもしれない?……

〔参考〕

ジョルジュ・シムノン『ブーベ氏の埋葬』長島良三訳(河出書房新社)
Georges Simenon, L'Enterrement de Monsieur Bouvet, 1950

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