2021/11/27

井伏鱒二『荻窪風土記』

 昭和二年の五月、私はここの地所を探しに来たとき、天沼キリスト教会に沿うて弁天通りを通りぬけて来た。すると麦畑のなかに、鍬をつかっている男がいた。その辺には風よけの森に囲まれた農家一軒と、その隣に新しい平屋建ての家が一棟あるだけで、広々とした麦畑のなかに、人の姿といってはその野良着の男しか見えなかった。私は畦道をまっすぐにそこまで行って、
「おっさん、この土地を貸してくれないか」と言った。(p.18)
 

井伏鱒二の家

子どもの頃、母が文豪名作選のような本を買ってきてくれたことがあり、その中に「山椒魚」や「遙拝隊長」など、井伏鱒二の作品が入っていた。「この人は天沼のほうに住んでるのよ」と教えてもらったことを覚えている。数年後、東京衛生病院で亡くなったことを知った。これも多分、母から伝えられたのだと思う。

私は下井草に住んでいたが、荻窪に出る機会が多かった。当時はバスで行くと、環状八号線と青梅街道の大渋滞に巻き込まれ、四面道にたどり着くまでにずいぶんと時間がかかったものだ。バスが一向に動かないから、四面道の停留所で降りてしまい、あとは荻窪の駅まで歩くという乗客もあった。だから、電車で遠出するのではなく、タウンセブンだとかルミネだとか線路向こうの図書館だとか、とりあえず荻窪駅の周りで用事があるときは、もっぱら自転車で出ることにしていた。

早稲田通りを渡り、妙正寺公園の脇を通って荻窪方面にひたすら南下する。しばらくして、日大二高通りにぶつかり、これを渡るとまもなく天沼教会が見えてくる。教会の角を曲がるとその横に東京衛生病院があり、同時に商店街が始まるのだが、これが本書にも度々登場する、教会通り(「天沼の弁天通り」)である。クネクネした狭いこの通りをさらに進むと、ついに青梅街道とぶつかって(脇に旧・第一勧業銀行、現・みずほ銀行の荻窪支店がある)、荻窪駅の北口界隈に出られるという具合である。

『荻窪風土記』によれば、著者は1927年(昭和2年)に「東京府豊多摩郡井荻村字下井草一八一〇」、現在の杉並区清水1丁目に越してきたそうだ。今も旧宅がある。さきほどの道程を往復していた頃は全く知らなかったのだが、日大二高通りを渡るところのすぐ近くで、井伏さんは暮らしていた。言うまでもなく、この辺りではもう麦畑は見られず、住宅が密集している。

井伏鱒二が亡くなってから20年後、東京衛生病院で我が長女が生まれた。


井伏鱒二『荻窪風土記』(新潮文庫)

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