山内義雄(やまのうち よしお、1894-1973)は、ロジェ・マルタン・デュ・ガールの『チボー家の人々』の翻訳でも有名なフランス文学者。本書は没後に刊行された唯一のエッセイで、ポール・クローデルとの親交、愛読したフランスの作家たちの印象(プルーストも含まれる)、ゆかりの人々の思い出などが多彩に語られている。
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著者にとって、フランスという国は、「遠くにありて思ふもの」だったのだろうか。
『チボー家の人々』を読んだとき、若い頃に愛読者だった母が「訳者の山内さんは、フランスに精通しているのにフランスに行かなかったのよ」と教えてくれた。学生時代、ゼミの指導教授が留学のことを話題にしたとき「なかには、フランスに行かなくてもフランス語に堪能な人もいますけどね」と言い、おそらく山内義雄のことが念頭にあるのだと思った。
今でこそ、多くの人がフランスに留学することができる。しかし、百年ほど前の日本では、たいへん優秀だったか、機会に恵まれたか、家が裕福でもなければ、フランスに渡るなど安々とはかなわなかったであろう。そもそも今のように外国へ自由に渡航できる時代ではなかった。堀口大學や鈴木信太郎など、先駆のフランス文学者たちの多くはフランス留学を経験しているが、優劣に関係なく、当時は留学経験のない研究者のほうが案外多かったのではと思う。
山内義雄はどうだったのだろう。幼少から暁星学校に通い、大学に上がる前からすでにフランス語に堪能で、駐日大使だったクローデルにその語学力を絶賛されたほどだった。本書から推察する限り、経済的な事情で渡仏を断念したようにも見受けられない。ただ、同書の年譜によれば、外語大卒業のあとに京大に入学する際、親の意向で文学部ではなく法学部を選んだというから、もしかしたら、そのあたりに渡仏しなかった(できなかった)理由があるのかもしれない。あるいは、クローデルら滞日したフランス人との邂逅で、擬似的なフランス遊学を果たしてしまったのかもしれない、などとも勝手に想像する。
著者は亡くなる2年前にようやく渡欧し、ロンドンとパリに滞在したという。滞在のことに触れた文章は、随筆集のなかには見かけなかった。
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