『ムッシュー・テスト』は、何遍も翻訳されている。図書館の蔵書を調べた限りで挙げてみると、以下のとおり。(長く『テスト氏』で親しまれてきた表題を『ムッシュー・テスト』と改めた経緯については、4.の解説に詳しい。)
- 小林秀雄訳 『ヴァレリー全集2 テスト氏』(筑摩書房)
- 村松剛・菅野昭正・清水徹訳 『世界文学大系51 クローデル/ヴァレリー』(筑摩書房)
- 粟津則雄訳 『テスト氏』(福武文庫)、『テスト氏、未完の物語』(現代思想社)
- 清水徹訳 『ムッシュー・テスト』(岩波文庫)
さらに『ムッシュー・テストと劇場で(テスト氏との一夜)』について、大学の論叢に掲載された翻訳がある。1.のなかで看過できない誤り・曖昧な箇所があり、論文はその修正も目的に含めつつ、1.と2.を比較参照しながら新たな翻訳を試みている。(1985年に発表。ちなみに、小林秀雄が逝去したのは1983年。)
- 恒川邦夫 『ポール・ヴァレリー「テスト氏との一夜」 : 新訳の試みと訳注』(『一橋大学研究年報 人文科学研究第24巻』)
「ヴァレリー歿後の厖大な『カイエ』(*)の写真版の刊行およびプレイヤード叢書による抜粋二巻本(筑摩書房による翻訳で全九巻)の編纂などその後のヴァレリー研究の進展に照らし合わせてみれば、(1.には)多くの点で正すべき点があるように思われる。」(5-p.24)
(*) ヴァレリーが自身の思索を書きとめた覚書(「カイエ cahier 」はフランス語でノートの意)。その分量は厖大で、2万6千頁にも及ぶという。
5.は、日本語表現が比較的平明であり読みやすい。加えて、豊富な註釈が読解の大きな助けになる。4.も、訳者が秀でた文筆家であるがゆえに、翻訳に少々独特の微香がたちのぼるものの、やはりヴァレリーへのアプローチにたいへん適切な一冊であろう。5.の存在を知ったのは、4.のおかげである。
さて、5.では丁寧な読解にもとづいて、翻訳について多くの指摘がされている。たとえば......
«Dire que notre propre image ne nous est pas indifférente !......»
- 「つまり、われわれ自身の像というものは、われわれに赤の他人のはずがない、そうでしょう」
- 「われわれ自身の像は、どうでもいいというようなものではないのに!」
- 「自分がどう見えるかということが、われわれにはどうでもいいと思えないんだね!
- 「自分がひとにどう映るかなんてどうでもいいのに、それが駄目とはね!」
5.の解説によれば、直訳として「われわれ自身のイメージ(=他者の眼に映る姿)がわれわれにとって無関心ではないとは!」となり、もう少し判りやすく「自分が人にどうみえるか(自分のイメージ)が気になるなんて!」と直せる。
つまり他人の「すぐれた考え」に行き当たるたび、「自分の考えを盗まれたように」思った昔の自分は、とりもなおさず他者の眼からみての「自分」にまだ執着している自分であって、そんな風に感じることを「なんと愚かなことか!」と自省・自嘲しているのである。(5-p.40)
以下、5.の試訳。
昔は─もう二十年も前のことだが、─他人のなしとげた水準以上の仕事というのはすべてわたしにとって個人的な敗北だった。昔はそうしたものを見ると、すべて自分の考えが人から盗まれたようにしか思えなかった。なんという愚かなことか!......。自分が人にどうみえるかが気になるなどというのは! 想像力の闘いにおいては、われわれは自分自身のイメージを過大に評価するか、過少に評価するかどちらかだ!......。(5-p.15)
これに従えば、1.と2.は誤訳で、意味が逆転している。ここは、ヴァレリー理解に大事な一節で、清水徹著『ヴァレリーの肖像』(筑摩書房)の第3章でも解釈の点検をしている。
このように、5.では翻訳に際しての注意・解釈のポイントなどが丁寧に書かれている。精読によって、『ムッシュー・テスト』という一見味気なく抽象的な小説も、実に芳醇なものであることを教えてくれる。
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上述、恒川邦夫氏の翻訳は、2011年に刊行された『ヴァレリー集成』全6巻(筑摩書房)の第1巻「テスト氏との〈物語〉」に、たいへん詳しい解題とともに収録されている。
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