まさに宮殿 palace のような超高級ホテルには、ヨーロッパ中の上層階級、金持ち連中がやってくる。当時はとくに、アメリカの金満家が幅を利かせていた。彼らが毎日当たり前のように豪奢に過ごせるのは、言うまでもなくホテルの従業員がせわしなく働き続けているおかげである。豪華な部屋々々、レストラン、バーラウンジ、さまざまな娯楽場、そういった表の空間に彼らも行き交うことはあるけれども、主戦場はやはり裏の空間、本書で言えば地階・地下室 sous-sols, caves である。
そこでは、おそらく同じ建物の中とは思えないほどに最低限の設備や内装しか施されておらず、薄暗く、仕事や役割に応じて区分された無機質な部屋が並んでいる。厨房はいつも殺気立っていることであろう。地上とは全く異なる世界が繰り広げられる。そのような場所に、宿泊客が立ち入ることなどは想像だにされない。
にもかかわらず、地階で死んでいたのは従業員でも出入りの業者などでもなく、昨日まではきらびやかな地上の世界を闊歩していたであろう宿泊客の一人であった。従業員の更衣室に、そこに並ぶロッカーの一つに若い女の死体が詰め込まれていたのである。首を絞められ殺されたらしい。彼女はなぜこんなところにいたのか? 彼女は果たして地階の世界とは無縁の人間だったのか? 彼女は一体何者なのか? しばらく地階をウロウロしていたメグレ警視はやがて、ある人物に注意を向けるようになる......
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シリーズには、ホテルが登場する作品がほかにもいくつか見られるが(『メグレとかわいい伯爵夫人』『メグレと消えたオーエン氏』など)、本書は人間関係の対比や有り様、何よりも隠された謎を描く上で、舞台装置としてのホテルを見事に活用した傑作の一つだと思う。(これも邦訳が雑誌に掲載されたきりの作品の一つ。刊本化、電子書籍化がされたりしないものだろうか。)
〔追記〕
早川書房「ミステリマガジン」の2023年3月号を眺めていたら、映画に合わせて『メグレと若い女の死』のほかに『サン=フォリアン寺院の首吊人』、そして本作の『メグレと超高級ホテルの地階』の新訳版が刊行予定だそう。すばらしい! (2023/01/25)
〔同じ作家の作品〕
ジョルジュ・シムノン『メグレと超高級ホテルの地階』長島良三訳
(「EQ」1995年5月号、光文社)
Georges Simenon, Les Caves du Majestic, 1942
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