『失われた時を求めて』を読みながら
そこには、デポルシュヴィル嬢 Mlle Déporcheville と書いてあったが、私はそれを難なく d'Éporcheville と訂正することができた。第六篇《消え去ったアルベルチーヌ》岩波文庫, p.322
『失われた時を求めて』の第六篇《消え去ったアルベルチーヌ》(《逃げ去る女》)に、「デポルシュヴィル嬢」なる人物が登場する。主人公の「私」がデポルシュヴィル嬢と出くわし、彼女の正体が判明するまでのこの場面が、私は何となく好きだ。箇所は、岩波文庫版で第12巻の320頁から346頁までのあたり。
小説を注意深く読んでいれば、彼女が一体誰なのかはすぐにでも分かると思うが、私のようにぼんやりした読者は「アルベルチーヌ亡き後の新たな恋人か?」などと心が少し躍るかもしれない。
ブーローニュの森で散歩中の「私」は「三人の娘の一団」を見かけ、そのうちの一人のブロンド娘を見つめているうちに、相手もこちらに視線を向ける。それが、デポルシュヴィル嬢である。
くだんのブロンド娘が──こちらがあまりにも注意深く娘たちを見つめていたからだろうか──私にちらっと最初のまなざしを投げかけ、そしてさきまで行ってから、こちらを振り返って二度目の眼差しを投げかけたので、私の心は燃えあがった。
男性は魅力的な女性と目が合っただけで、自分に好意があるのではないか!?と勝手に妄想・勘違いするとよく言われたりする。まさにその典型といった風(*)。このシーンだけを抜き出して読んでもなかなか面白いのだけれど、ここまで本篇を読み進めてきた読者にはさらに、感慨もひとしおといったところではないだろうか。
(*) ただし、小説の先を読むと、そうとは言い切れない「事実」が語られる。詳細は、次篇《見出された時》(岩波文庫版の第13巻)を参照。
というのも、《消え去ったアルベルチーヌ》の前半では、恋人のアルベルチーヌが「私」の許を去ってしまい──その後しばらくして、アルベルチーヌが死んだことも伝えられる──、「私」が悲嘆に暮れる様子がひたすら描かれる。しかも、恋人が死んでもなお「私」は嫉妬にかられ、心中の苦痛はいつまでも癒えることがないかのようだ。
こうして「私」の悲嘆ぶり苦痛ぶりにうんざりするほど付き合ってきた読者には、小春日和のある日「私」がブーローニュの森まで散策に出かけたという事実だけでも一つの兆しを感じることができるし、相変わらずアルベルチーヌのことを想い出しながらも、「私」がふと見かけた娘たちを目で追うようになった様子は──おそらく「ガン見」レベルの食いつき──、場面自体は冬のはじめの設定とはいえ、当分は続くはずの厳しくつらい季節にもいつか終わりは来るのだと確信させる、そんな気分がもたらされるのではないかと思う。さらに加えれば、「私」がかつてバルベックで花咲く乙女たちに遭遇したときの情景が想い起こされ、季節のめぐりをも感じさせるかもしれない。
***
岩波文庫で『失われた時を求めて』の翻訳の刊行が続いていた頃、私もこれに合わせて小説を読み進めていた。数年前に一度、集英社版で通読していたにもかかわらず、そのときの印象や記憶は拭い去られ、再びデポルシュヴィル嬢に出くわしたときには、「え、新キャラ登場?」などと思い込んで夢中になって読んだ。しかも、事の真相が判明してもなお、「そうだったのかー」と感心する始末だった。「たびたび読む書物が、常にみずみずしい新しさをもってわたしに微笑みかけることも幸せだと思う」というモンテーニュの言葉(『エセー』第1巻第10章より)を実感した。
- プルースト『失われた時を求めて 12 消え去ったアルベルチーヌ』吉川一義訳(岩波文庫)
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