2023/02/18

シムノン『メグレと消えたミニアチュア』(シャトーヌフから来た公証人)

[メグレは]おもむろにパイプに新しい葉を詰め替え、火をつけた。それから開いていた窓へ歩み寄っていった。下方の小径に、小石が美しく光っているのが見えた。
「そうだ、あんないい小石をどこで手に入れたのか訊かなければ」

メグレ引退する

舞台はパリでもなければ殺人事件も起こらず、刑事連中などお馴染みの顔ぶれも現れない。メグレがロワール川近くの別荘で過ごしている情景から物語は始まる。バカンスの季節。様子からして、メグレはのんびりしたこの暮らしにすっかり身を浸しているようだ。そこへ不意に、シャトーヌフから一人の男がメグレを訪ねてくる。蒐集品が盗まれ困っているという。「引退なさったのにお邪魔して恐れ入ります」......(*) 

(*) 邦訳では「休暇中」としているが、原文で読む限り、メグレはすでに退職している。

*** 

シリーズには、メグレがご隠居さんになっている作品がいくつかある。本書のように、警察を辞めてからの暮らしにようやく慣れてきたところに、何やら怪しげな依頼が舞い込んできて、メグレと夫人の眉をひそませることが多いようだ。

  • 『メグレ再出馬』(1934)
  • 「ホテル《北極星》」(1938)(*)
  • 「メグレの退職旅行」(1938)
  • 「マドモワゼル・ベルトとその恋人」(1938)
  • 「メグレとグラン・カフェの常連」(1938)
  • 『メグレと消えたミニアチュア』(1938)
  • 『メグレと消えたオーエン氏』(1938)
  • 『メグレ激怒する』(1947)
  • 『メグレ、ニューヨークへ行く』(1947)

(*) 正確には退職直前の2日間の出来事が書かれている。

『メグレ再出馬』は、退職しているにもかかわらず、甥に助けを求められてしぶしぶ捜査に協力するという物語。1931年から始まったシリーズに、作者シムノンが本気で終止符を打とうと思って書いた唯一の作品かもしれない(ここまでをよく、シリーズ第1期と呼ぶそう)。

おそらく、シリーズが予想以上に人気を博したことで続編の執筆を強く望まれたのだろう、1936年から短篇・中篇の形でメグレ作品がいくつかの雑誌で再び発表されるのだが、そこでは上に掲げたようにメグレはもう引退しているものもあれば、何事もなかったかのように、あいかわらず警視としてリュカやジャンヴィエらと事件に捜査にあたっているものもある。作者にはメグレが現役か退役なのかはストーリー次第で、もうこだわりがなくなったようである。

その後も、長篇を含めた作品が断続的に発表され(第2期、1944年あたりまで)、結局1947年からシリーズが本格的に続くことになるのだが(第3期、1972年まで)、このときの最初の2作『メグレ激怒する』『メグレ、ニューヨークへ行く』を除き、おおむね退職前の年齢という設定ではあるものの、メグレは以後常に現役の警察官として登場する。ただ、引退はしないものの、年々メグレの老いる雰囲気が濃くなっていくよう......

〔メグレ警視シリーズの時期〕
  • 第1期 ...1931年〜1934年(長篇19作)
  • 第2期 ...1936年〜1944年(長篇 6作・短篇22作)
  • 第3期 ...1947年〜1972年(長篇50作・短篇 6作)

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『メグレと消えたミニアチュア』の原題 « Le Notaire de Châteauneuf » は、「シャトーヌフの公証人」とも「シャトーヌフから来た公証人」とも訳せる。ロワール川沿いの別荘(シリーズ全体で推測すると、おそらくムン=スュル=ノワールに在る)で夫婦でのんびり暮らしていたのに、「招かれざる客」がシャトーヌフからやってきたという印象が強いので、後者のように解釈しても良いかもしれない。

とはいえ、依頼人にとっては平穏な暮らしを脅かすような出来事で、メグレもそれを察してシャトーヌフまで出張るのだが、物語には終始のんびりした雰囲気が流れている。それでもやはり、普段は表に出てこない人々の心内が暴かれる様子は、シムノンならではの筆致で、小品ながら読み応えがある。

小説の最後、メグレにはもはや警察官としての生活に未練はなく、老後の安穏を楽しもうとしている雰囲気が感じられる。(本作を読み終える際にはぜひ、冒頭に掲げた引用を思い出してみてください!)

〔参考〕


ジョルジュ・シムノン『メグレと消えたミニアチュア』矢野浩三郎訳
(「ハヤカワミステリマガジン」2023年3月号、早川書房)
Georges Simenon, Le Notaire de Châteauneuf, 1938

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