2016/05/29

シムノン『ちびの聖者』 i

『ちびの聖者』の女性たち

シムノン小説の女性たちは、あまり丁重なおもてなしを受けない。魅力的ではない、というわけでは決してないのだが、貞淑・従順・慈愛・温和といった聖母のような女性像は、まず期待しないほうがよい。

『ちびの聖者』でも、家族に優しい柔和な母親という典型的なひとは出てこない。「カーテンの向こう側から(...)、とぎれとぎれのうめき声を伴った、聞き慣れたあえぎ声、ベッドのスプリングの軋む音を聞いていただけだった。そのベッドに寝ているのは、母親だった。」(p.7) 「母親は自分の愛人たちを、子供に紹介することがあった。愛人たちのなかには数日間の者もあったし、数週間来つづけて、ときには子供たちと遊ぶ者もいた。」(p.78)

また、主人公のルイには「通りでは人が振り返るほど美しかった」姉アリスがいて、主人公にわりと優しく接してくれるのだが、その彼女も、学校を卒業してからは夜な夜な遊びほうけ、そのあげく、15歳のときに「あたし、妊娠しているらしいの」などと、弟に打ち明けたりする(p.91,132)。

彼女たちのように自由奔放なだけならば、まだ良い。ところが、シムノンの小説では、女性はしばしば脅威でさえある。男性主人公の行く手に立ちふさがり、困惑と混乱だけならまだしも(これだけでも十分ではあるけれど)、しまいには不幸や災難さえももたらす厄介な存在であることが多い。

『ちびの聖者』でも、ルイの人生のターニングポイントに女性たちが現れる。ただ、ほかの作品とは多少趣きが異なり、彼女たちの役割はよりポジティブだ。普段自分の人生を生きることに精一杯で、息子にかまってやれない母親、姉、そしてある日通りですれ違った見知らぬ女......。寡黙に外部世界を観察しつづけるルイに、人生は歩んでゆくに値するものだと認識させてくれるのは、実は彼女たちである。

この小説は、作者シムノンの自伝的要素が多く含まれていると言われる。実際に彼は若い頃に、小説の舞台であるムーフタール通りに住んでいたことがある。けれども、伝記の記述などで判断する限り、ルイの母ガブリエルは、作家の母親がモデルではないだろう。むしろ、奔放ではあるが、理想の母親なのかもれしない。母親の愛情をいっぱいに育ったことがないという作家の告白を信じるならば、ルイは、やりとりこそはほんの控えめであっても、母ガブリエルにちゃんと愛されているからだ。(ちなみに、ルイにシムノン自身を投影している部分は多々あると思うが、チェコ人彫刻家プリスカにも、異邦人としてパリにやってきたシムノンの共感を強く感じる。)

さらに飛躍して思うのは、母だけでなく、この小説の女性たちにみな、シムノンの理想が投影されているのかもしれないということだ。確かに彼女たちは放埒で、自分勝手である。それは作家が実生活で出会った女性たち(その膨大な作品量と同様、彼が「出会った」女性の数も記録的であるのは、たいへん有名)を多分に反映したものと思われ、その限りでは作家の冷徹なレアリスムがうかがえるかもしれない。

しかし、この小説の女性には、作家が望んでいた女性像も多くこめられていると思う。男の所有物などではなく、男に依存する必要なく、自由に豊かに生きるべき女性たちの姿。物語には、普段のとりとめもない会話ややりとりがいろいろに出てくるが、そこに感じられるほのかな温もりに、書き手自身の最大限の願望を見いだすことはできないだろうか。

この小説で、シムノンのマリアを垣間みたような気がする。


ジョルジュ・シムノン『ちびの聖者』長島良三訳(河出書房新社)
Geroges Simenon, Le petit saint, 1965

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