母は中学生のサキコに、「もっときちんとした本」「ちゃんと書かれた本」を読んでもらいたいと考えていたようだ。
『失われた時を求めて』に出てくる語り手の祖母がもつような信念ほどに強いものではなかったけれども、サキコの母もまた、「教養」を大事に考える世代であった。だから、古典とまではいかないまでも、流行のものからでは引き出せないような価値を含んでおり、眼前の目的や慾を満たすものよりも、精神自体を充足させてくれるような本を、自分の子どもにも読んでほしいと願っていた節がある。小説や物語のなかでは、『チボー家の人々』をそういった書籍の一つに位置づけていたのかもしれない。
さて、『チボー家の人々』を読書リストに加えるよう「宣告」されたサキコは、仕方なく、本屋までさがしに出かけた。彼女にとって、本屋は日々のつまらない勉学からのがれるための避難所であった。漫画、現代作家の文庫など、馴染みの書棚を周遊したのち、ようやく名作シリーズのコーナーにまでたどりつく。そして、シェイクスピアといった、自分には縁遠い名前の中に『チボー家』を見つけると、彼女の顔はぼんやりと曇りはじめた。同じタイトルがずらりと並び、しかも一冊ごとに異なる番号が振られているのを認めたのである。
... 一夜で読み了えることなどとても無理だ ... 翻訳だからきっと読みにくい ... フランスの、それも生まれる前の遠い時代の話らしい ... 小説の舞台は、自分が見聞きできる時代や場所が好き ... 自分の生活空間とつながっているところで猫が難事件を解決したり、エヌ氏が宇宙人と遭遇するほうが、だんぜん面白いではないか ......
いろいろ思案した後、興味を示すようにページを繰ることもせず、サキコはその場から去ったのだった。その後、「チボー家」が彼女の頭の中をよぎることはなかった。
それから何年も経って、いまや夫のいる身のサキコは、ふらりと立ち寄った本屋で、ふたたび「チボー家」に出くわした。『チボー家のジャック』。その本は、古風にも函入りで装幀されていた。しかも、おもてには椅子にちょこんと座ったかわいらしい男の子の絵が描かれており、帯にもなにやら関心を引く言葉が添えられている。「ジャック・チボーとは学校の図書室で出会った。その日から、彼は私の大切な友達になった」 中学時代の挿話がよみがえり、サキコは懐かしい気分にじんわりとおそわれた。
... そうだ、どうせなら全篇を読んでみよう......
素朴な語りだけれども、よどみなく展開するストーリー、多少寓意的であるがゆえに、お互いにコントラストを織り成して登場する人々。次第に小説世界に引き込まれてゆくうちに、サキコはふと、あの頃に抱いた考えは間違っていたのではないか、と思った。
... 母はわたしに、「教養」を押し付けようと思ったわけではなく、母自身が中高生のころに読んで感動をおぼえたこの小説を、友だちにそうするように、わたしにもすすめただけなのかもしれない ... 子どもの頃から読書三昧だった母は(そのせいで早くから近眼になってしまった、とよくこぼしていた)、やはり眼鏡をかけるようになったわたしに自分自身を重ねてみたかっただけなのではないか ... ところが、受験という語が次第にうるさくなるにしたがって、母の進言はすべて勉強に関することなのだ、と思い込むようになり、母の友愛にちかい純粋な動機に、わたしは気づけなかったのかもしれない ......
青春の渦中にいる人は、多情多感であるがゆえに、かえって盲目なものである。
あのときサキコの母が『チボー家』すすめたのはどうしてなのか。本当のところはもう分からない。とにかく今、サキコはジャックという青年に苛立ちとほのかな愛情を感じながら、そして昔の恋人の挙動を思い出させるダニエルには眉をひそめつつ、彼らと毎日のように連んで(つるんで)いる。『チボー家』がようやく彼女の読書リストに加わった。
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ロジェ・マルタン・デュ・ガール『チボー家の人々』山内義雄訳 (白水社)
Roger Martin du Gard, Les Thibault (1922-1940)
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