シムノンの小説には、等身大の人物、様々な側面を持つ人物ばかりが登場する(こんな言い方は、実のところおかしいかもしれないが)。ロマネスクな人間、つまり、作家が虚構の世界であるという前提にあぐらをかいて、あまりにも現実離れした人物とか、特定の性格だけしか持たない典型的人物などは、一人も出てこない。
その中でも、いくつかの小説では主人公と作者シムノンとの年齢が互いに近く、これはもう、作者自身の心理や境遇をそのまま反映しているのではないか、と思わせるところがある。とはいえ、書かれたものがシムノンの内奥に去来した心理や感情にもとづく表出であっても、必ずしもシムノン自身が実際に経験した事実とは限らない。われわれはつい、この2つを混同してしまうので、気をつけなければならない。
『証人たち』は1954年に書かれた。主人公である重罪院の判事ローモンは55歳。作者シムノンも50代に足を踏み入れている。1960年の作『熊のぬいぐるみ(闇のオディッセー)』でも、主人公のシャボは中年から老年に差し掛かった医師であり、シムノンは57歳。
これ以上に迫真の作品は1967年の『猫』。長年連れ添った夫婦のあいだにある隔たり(とつながり)を容赦なく描いた作品で、主人公は現役を引退してすでに久しいことから、60歳前後と思われる。人生の斜陽について考えざるを得ない年齢に差し掛かったシムノン本人の心理そのものが、主人公たちの心理描写に多分に含まれているのではないかと感じさせるほどの迫力である ──くどいようだが、小説の中の老夫婦がシムノン夫妻の生活を映し出している、と言っているわけではない。
人間の心理・葛藤を題材にした小説は、誰よりも青年が読むためにあると私は考えるのだが、これらシムノンの「中年・老年おやじ」が主人公の作品に関しては、老若男女を問わず読むに値する。いやいや、シムノン小説が醸すあの独特の雰囲気は、溌剌とした青年よりも、人生に少し疲れを感じる大人にこそふさわしい。そして、シムノンが20世紀最大の人気作家だったのも、そういったところに読者の共感を呼んだのかもしれない。
『証人たち』はタイトルからも想像できるように、裁判所(重罪院)が主な舞台である。法廷ものの小説といえば、逆転無罪/有罪を勝ち取る弁護士や検事の方が、ドラマティックな主人公にはふさわしいが、本作ではどちらをも勝ち取る資格のない裁判長であるところが、シムノンらしい。当時からフランスは、このような刑事裁判で陪審制度を適用している。裁判官と陪審員を合わせた多数決によって評決に達する(有効の最大数はあらかじめ決められている)。日本の裁判員制度に似ているかもしれない。シムノンは当時の陪審員制度にとても懐疑的で、『青の寝室』同様、この作品にも制度への批判がみられる。
- フランスの重罪裁判における陪審制(立命館大学)
- 『ある日、あなたが陪審員になったらーフランス重罪院のしくみ』(信山社)
- (人物事典)ジョルジュ・シムノン in Le Blog Sibaccio
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