『モデラート・カンタービレ』はもう一度読んでみたい。作家の肉声が直に伝わってくる『エクリール』は忘れがたい印象を与える。おそらく今後も機会を見つけて、デュラスの作品を読むことはあるだろう。
「それならば、あなたはマルグリット・デュラスが好きなのですね」と問われたら、なんとなく、返答に困ってしまう。デュラスと向かい合うと、何か曖昧模糊とした、恐怖ではないけれどもその兆しを思わせるような感覚が心中にただようのである。この感覚は、読書の快楽とは別のものように思われる。
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... 見渡す限り、周囲には何もない... 山の稜線も、丘の盛り上がりさえも目には入ってこず、ひたすら平たい草原のようである... 草原だと気づくのは、足下に茂みの感触があるからであって、果たして草原が広がり続けているのか、本当のところは分からない... 地上は、わずかに灰色がかった白い霧のような空気で満たされ、明るいが陽光は白い空気にさえぎられている... しかし、肌には生温い感触がまとわりついて離れず、わずかに汗ばんでいる... どうも、霧が立ち込めているのでもないらしい... 数歩進むと、草叢が禿げて少しぬかるんだ土が足の裏を汚す... そばには湖のような河があり、静かだが渡るのをためらわせるほどに威圧的に流れている... もしかしたら、河の水が爽快な感覚をもたらしてくれるだろうかと、足先を浸してみる... だが、不快だけが胸にまでたちのぼるのだった... おそらく広大な、この未知の空間で一人、私はほとんど身動きができない...
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私たちは、お気に入りの作家について、あらかじめ「よく知っている」。よく知っているから、新しい作品を次々と読み続けられるし、同じ作品を繰り返し読むことにも、あまり疑問を抱かない。それは知識や学究的な理解よりも、共感とか親しみやすさといった情緒的な意識に近いのかもしれない。...プルーストやビュトール、シムノンを、"私"は「よく知っている」... しかし、デュラスはちがう。いくら作品に触れても、"私"はデュラスを「よく知らない」。問題なのは、よく知らないのであるならば放っておけばよかろうと思うのに、作家におもねるかのように、その作品につい手が出てしまうことである。"私"は一体、デュラスに何を求めているのだろう。
〔読んだことのある作品〕
- 『モデラート・カンタービレ』
- 『夏の午後の十時半』
- 『アンデスマ氏の午後』
- 『辻公園』
- 『愛人』
- 『エクリール』
- 『アガタ』
- 『ヴィオルヌの犯罪』
〔読んでみたい作品〕
- 『青い眼、黒い髪』
- 『太平洋の防波堤』
- 『ラホールの副領事』
- 『破壊しに、と彼女は言う』
数多くのデュラス作品の中でこれらが選ばれたことに、格別な理由はない。近所の図書館に置いてある『ロル・V・シュタインの歓喜』や『あつかましき人々』を読むこともあれば、恐ろしくて、あるいは倦怠がまさって、しばらくはデュラスとは向き合わないかもしれない。そして、たくさん読んだとしても、デュラスを「よく知る」ことになるという保証はない。
〔参考〕
- マルグリット・デュラス著作解題 in 立教Roots (PDFダウンロード)
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