わたしは他人から与えられるものほど、そのために報恩という名目で自分の意志を抵当に入れなければならないことほど、高価なものはないと思う。
『モンテーニュ随想録』第3巻第9章より(関根秀雄訳)
恩誼について
ラ・ロシュフコーは恩誼(恩義)や義理について、次のようなことを言っている。
ほとんどみなの人たちが小さな義理を返したがる。たくさんの人たちが中くらいな義理に対しては感謝の念を抱く。だが、大きな恩恵に対しては恩知らずのふるまいに出ない者はほとんどない。(格言299)
恩を受けておきながら、一度もその恩に報いることがないのは忘恩の徒以外の何ものでもないだろう。とはいうものの、命を救ってもらったとか、人生の重大事を助けてもらったなど、恩誼が大きければ大きいほど、そのお返しをするというのはたいへん難しいものである。
われわれは人から恩をこうむると、その人からどんなにひどいことをされてもありがたく思わなければならない。(格言229)
その一方で、恩誼を感じることは当然だとしても、その恩にいつまでも縛られるとなると、それは正しいことのように思われない。ましてや、その恩を言いがかりに、恩人からさらなる恩返しを求められるようなことがあれば、それはこちらの忘恩ではなく、もはや相手(恩人)のほうこそが恩知らずだ言っても良い。
自分のためによくしてくれた人ほどに自分を恩知らずだとは思わない人こそ、恩知らずである。(格言96)
「つまり、人はむかし世話になった人からひどくあしらわれても、我慢するのが普通である。その我慢をしないと、あれは恩知らずだと言われる。「昔の恩は昔の恩、いま自分のしていることは当然なことだ」とでも考えようものならそれこそ大忘恩者、前代未聞の人非人にされてしまう。つまり一度恩を施した人は、恩を受けたもののわずかな報恩では満足せず、その人をすぐに恩知らずと呼ぶが、その人のほうこそ恩知らずという言うべきだ、とラ・ロシュフコーは言うのである。」(白水社版の注釈より)
もし不正な行為・恥ずべき行為を成すような人々に、図らずも何か借りができてしまったとしても、われわれはやはり恩誼を感じ続けるべきなのだろうか。たとえ何かしら恩返しができたとしても、彼らのような人間はさらなる「恩返し」を、陰に陽に繰り返し迫るのではないだろうか。
恩知らずの人たちのために尽くすのは大きな不幸ではないが、不義不正の人の恩にきることは耐え難い不幸である。(格言317)
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世の中は持ちつ持たれつであり、互いの義理や恩に報い合うことで成り立っているものとみるのは、とくに我が国では当たり前のことのようにと思われる。確かにそうかもしれない。だが、恩誼や義理のつながりを越えて互いの自由を認め合うこともまた、信頼関係を保つには欠かせぬ形であり、世の中を健やかに成り立たせるためには一層大事なのではないだろうか。そこに忠誠といった言葉に偽装された隷従があってはならない。
『ラ・ロシュフコー格言集』関根秀雄訳(白水社)
François de La Rochefoucauld, Réflexions ou sentences et maximes morales, 1665
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