2020/10/24

シムノン『オランダの犯罪』

〔小説の冒頭〕
「五月のある午後、デルフゼイルに着いたとき、オランダ最北部に位置するこの小さな町に自分を呼び寄せた事件のことについて、メグレはごく最低限の知識しか持ち合わせていなかった。ジャン・デュクロなるナンシー大学の教授が、講演旅行で北方の国々を周遊していた。 デルフゼイルでは海軍士官学校の教官ポピンハ氏が、講演の主催者を務めていた。ところが、そのポピンハ氏が何者かに殺されたために、公式に告訴などされることはなかったものの、このフランス人教授はオランダ当局から町から離れないようにと命令を受けたのである。」(拙訳)

犯罪学の教授デュクロが禁足を命じられたことをナンシー大学に知らせ、大学はこれを受けて、デルフゼイルに向けてフランスの司法警察に人を派遣してもらうことにした。そこで白羽の矢が立ったのがメグレであった、という次第である。

普段は物語が進むうちに、登場人物の横顔が次第に浮かび上がってくるのだが、この小説では、デュクロが事前によこしてきた関係者のリストをメグレは読んでいたという形で、初っ端で次のように整理される。

  • コンラート・ポピンハ Conrad Popinga(被害者)... 42歳、遠洋航海の元船長、デルフゼイル海軍士官学校の教官。既婚。子供なし。流暢な英語、ドイツ語、それなりに上手いフランス語を話す。
  • リースベト・ポピンハ Liesbeth Popinga ... コンラートの妻、アムステルダムにある高校の校長の娘。たいへん教養がある。フランス語に深い知識あり。
  • アニー・ヴァン・エルスト Any Van Elst ... リースベトの妹で、デルフゼイルに数週間滞在中。最近、法学の博士論文審査に合格。25歳。フランス語は少し理解できるが、話すのはあまり。
  • ヴィーネンス家 Famille Wienands ... ポピンハ家の隣に住んでいる。カール・ヴィーネンスは海軍士官学校の数学の教官。妻と2人の子供あり。フランス語の知識全くなし。
  • べーチェ・リーヴェンス Beetje Liewens ... 18歳、純血種の牛の輸出を専門とする農家の娘。パリに2回滞在。フランス語は完璧。

このほか、本書にはべーチェの父親やポピンハの生徒コルネリウス Cornélius、怪しげな水夫オースティン Oosting などが出てくる。捜査には地元の刑事パイプカンプ Pijpekamp も乗り出す。

***

『オランダの犯罪』は、メグレ警視シリーズの初期作品の一つ。この小説では、事件の前提や登場人物のことが図式的に説明されたり、最後に関係者を全員集めて探偵が事件の全容を解き明かすといった、典型的なミステリー小説の手法を用いている一方で、シリーズ全体にあてはまる特徴もすでにみられる。メグレがあちこち歩き回って人々の言葉に耳を傾けたり、その場の雰囲気に自分自身を浸してみたりする光景、素朴だが、現地に足を向けたくなるような情景描写…… そういったメグレらしさ、シムノン小説らしさがすでに現れていると思う。後年の軽妙で簡潔な文体に比べると、叙述の密度が高い印象がある。

欧米では、シムノンはあいかわらず読まれているようで(作品の映像化も続いている)、『オランダの犯罪』も原語版(フランス語)、あるいは英語やオランダ語といった翻訳版でも、紙であれデジタルであれ簡単に手に入る。日本では、60年前(1960年)に邦訳が文庫で刊行されたものの、今は絶版状態にある。当時発行された部数が少なかったのか、町の図書館にはほとんど所蔵されておらず、古書界隈ではずいぶん高価に取り扱われている(*)。確かに読み応えのある秀逸な作品ではあるけれど、値段が釣り合っていない印象を受ける。メグレ誕生の町として知られる町デルフゼイルが舞台になっているのに、その作品が広く読まれやすい状況にないというのは至極残念なことである。

(*) 『死んだギャレ氏』や『メグレ警部と国境の町』も、同じような状況にある。書籍の蒐集が目的ではなく純粋に作品を読みたいのであれば、国立国会図書館デジタルコレクションの個人向けデジタル化資料送信サービスを利用するとよい。無料でこれらの作品が読める。

〔参考〕


ジョルジュ・シムノン『オランダの犯罪』宗左近訳(創元推理文庫)
Georges Simenon, Un crime en Hollande, 1931

2 件のコメント:

vcemoulu さんのコメント...

Sibaccioさん、名訳です。

私の読み方では、オランダ人の名前がなっていませんでした。まるでフランス人がオランダに旅行してフランス語読みで単語を発音するみたいでした。(例えば「ベーコン」bacon を「バコン」と言うように)

戦前のメグレ作品19作には独特の雰囲気があります。殺人事件に関係なく、これは文学作品ではないかと思わせる個所もあります。昨今の日本でも話題になっている若者の自殺や犯罪という行動についても、メグレの初期作品にも多く描かれていて、興味は尽きません。

cogeleau

Eugênio Sibaccio さんのコメント...

興味本位で調べてみましたが、オランダ語読みは全くの聞きかじりです。フランス語話者メグレの視線でデルフゼイルを練り歩くのなら、フランス語読みのほうがむしろ適しているのではないかと思いました。

初期作品は、後年に比べると重厚な印象がありますね。しかも作品ごとに何か新しい試みがあるように感じます。それにしても、これら19の作品を、シムノンはほぼ5年以内に書き上げたというのは、本当に驚きです。