『フェルミナ・マルケス』(*)は、もともとは『幼なごころ』と同じ連なりで書かれ始めたのが、分量が増えて独立した作品として成立したものだという。『幼なごころ』と同様、大人への道を踏み出す直前の少年少女が主人公である。
(*)ラルボーは名前が喚起するイメージを重要視していたというので、«Fermina» は、スペイン語の音に近い「フェルミーナ」と表記したほうが幾分語感も伝わるかもしれない。
この作家は、物語のなかの少年少女に決して媚びない。多くの青春小説にみられるように、あまりに子供たちの側に入れ込んでしまうことで、大人たる読者たちを置いてけぼりにするようなことはしない。子供の気持ちを忘れないで、とか、あの頃の気持ちを取り戻してほしいといった、物言いによっては虫酸の走るようなメッセージもそこにはない。作者は彼らの心をよくよく知ってはいるが、自分が現に大人であることも忘れてはいない。それでもやはり、これは至上の青春小説だと思う。
ラルボーは古今東西の文学に精通した博覧強記の人で、『ユリシーズ』の刊行に尽力するなど、ジェイムズ・ジョイスの真価をいち早く認めるほどの慧眼があった。そんな教養人、才人が書く小説だから、豊富な知識を披瀝するような作品をものしたのかと思いきや、私たちの手元には、優しさにあふれた眼差しの下、子供の心を機微が細やかに紡がれた物語の一群がある。とくに『幼なごころ』の諸短篇には、どんな作家にも真似のできない温かみが感じられる。
この作品を含むちくま文庫版では、単純に少年少女の感性を描いただけの小説には終わっていないことなどが、翻訳者によって詳しく解説されている。
〔参考〕瓜生濃世『ヴァレリー・ラルボー の女性描写について』
〔同じ作家の作品〕
ヴァレリー・ラルボー『フェルミナ・マルケス』
石井啓子訳 (ちくま文庫『恋人たち、幸せな恋人たち』所収)
Valery Larbaud, Fermina Márquez (1911)
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