2016/12/03

ラルボー『恋人たち、幸せな恋人たち』

まだ暖かさの感じられる秋のモンプリエ。語り手は、恋人に「幸福なフランス人 Felice Francia」と呼ばれる若者。始めはホテルの一室で、眠っている二人の女を眺めながら語られる、というよりは、語り手の思考が展開されるというべきか。その次はホテルの玄関広間で、二人の女に加えて見知らぬ娘「ポーリーヌ」が夢想に加わり、最後は女たちが旅立って独りになったときのことを想像して、あれこれと考えているようだ。おそらく、語り手は若き頃の作者自身を投影した人物で、訳者の解説にもあるように、「内的独白」の手法を用いて意識の流れに沿っているかのように叙述される。

随処にモンプリエの通りや公園などの名が出てくる。学生時代に短い間滞在したところ。読んでいるうちに自分自身の回想が勝手に働いて、気づくと数行のあいだ、小説から意識が離れてしまうことがあり、読み切るのに苦労した。…海水浴をした後、旧市街の広場でパナシェを飲んだときの陽射し …毎日のように一緒に過ごしたあの娘たち、一夏ならではの思わせぶりの視線を交わしつつ恋人同士にはなりえなかった彼女たちのシルエット……

***

恋人たち、幸せな恋人たち、旅をしたいと思ったら、
ほど近い川べりにおし。
Amants, heureux amants , voulez-vous voyager?
Que ce soit aux rives prochaines [...]
(ラ・フォンテーヌ『寓話』第9巻「二羽の鳩」より)

彼女たちは永遠に知ることはないだろう、恋する乙女のあの麗しい気持ちを。自分の魂の中で、愛する男にほんとうの自分を捧げてしまったその瞬間から、恋する乙女にとって、ほんとうの自分というのは、神聖不可侵なる存在、あらゆる手段によって守られ、保護されてしかるべき存在になるものだというのに。(pp.241-242)

だれもかれもが有利な取引にだけは目を光らせ、酔狂には無頓着。(p.242)

悲しいことだ。気を遣ったり、世間の評判に左右されたりして、こんな風に歪曲しなくてはいけないなんて。実に、悲しい。けれどもそれは、精神が弄するささやかな術策でもある。こうでありたいとか、ああでありたいとか、あるいは、こういう地位を占めたいとか。(p.258)

どうやってみたところで無駄なのだ。ぼくたちは完璧に素のままでなどいられない。しかも、完全に素であることに、さほどよいことがあるわけでもない。商売人の微笑み、医者の物腰、軍人特有の歩きぶり、それらは見え透いた仮面だ。だが、それを脱ぎ捨てた瞬間、また別の仮面を被らずにはいられなくなる。(p.258)

そのくせ、彼女たちふたりと卵広場を横切っているとき、ぼくが三美神の群像の存在をせっかく教えてあげたというのに、彼女ときたら、それにはほとんど目もくれなかった。(p.223)

〔画像〕モンプリエのコメディー広場(通称、卵広場)
ヴァレリー・ラルボー『恋人たち、幸せな恋人たち』
石井啓子訳 (ちくま文庫)
Valery Larbaud, Amants , heureux amants (1921)

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