ラ・ロシュフコーの翻訳
(翻訳において)いたずらに見慣れないことばを用いたり、自分だけにしか通用しない造語を用いることはよくないが、いいかげんに平凡な日本の慣用語を用いて、くだけた練れた訳文だと自負することもよくない。なんと言っても日本語本来の語彙だけでは(仏教用語でもかりないことには)、モラリストの思想は完全に翻訳できない。
(関根秀雄)
ラ・ロシュフコーの『マクシム』には、多くの翻訳がある。私には、1998年にリクエスト復刊で出た白水社の『ラ・ロシュフコー 格言集』がたいへん良い(もともとは1949年、1962年に出版されたもの)。ラ・ロシュフコーの肉声に最も迫っているように感じられる。単にフランス文学の翻訳家であるというだけでなく、国文・漢籍の教養を背景にしつつ(*1)、モンテーニュを中心に一貫してモラリスト文学を研究した人としての言葉選びには、すぐれた的確さや趣きがあると思う。
(*1) 訳者関根秀雄の父は高名な国文学者、関根正直(1860-1932)。
それぞれの格言に、解説や比較参照のできるほかの格言の番号が付いていたり、モンテーニュやパスカル、とりわけヴォーヴナルグ、ラ・ブリュイエールら、ほかのモラリストの言葉との類似対照が付してあるところなどは、入門者にとても適切だと思う。
俳句や短歌のように、ラ・ロシュフコーの格言を一つ一つ読むかぎりでは、その切れ味や妙味に感心でき堪能することができるし、その言葉に常識や普遍性も多く汲み取れる。ただ、これを番号順にひたすら読んでいると、次第に著者の狂気が垣間見えてきて、なにやら目眩いがしてくる(*2)。もし、500以上もある格言(これに著者没後に加えられたものや、著者自身が削ったものを含めれば600以上)をどうしても立て続けに読みたいのであれば、なおさら、訳者による導きあるいは一呼吸は、お節介であるより親切のように感じられる。モラリストの言葉をいかにして日本語に移し換えられるか、その苦労難儀もところどころで垣間見えるのも面白い。
(*2) 著者自身の狂気はさておき、ラ・ロシュフコーは理性に絶対的な信頼を置いておらず、むしろ(近代的な意味での)狂気なるものを肯定している節がある。「オネトム[教養ある紳士]は気ちがいのように恋をしてもよいが、ばかのように恋をしてはならぬ。」(格言353)
とはいえ、そのような仲介なしでひたすら読みたい、むしろラ・ロシュフコーの「狂気」とやらを拝んでやろうというのであれば、書誌的な情報も豊富な岩波文庫版であったり、最近刊行された講談社学術文庫版を繙かれるのがよいと思う。とくに後者は、ここに挙げたバージョンの中で最も読みやすい印象。あとがきも一読の価値がある(*3)。
(*3) ラ・ロシュフコーは自愛・自己愛を繰り返し語っているものの、だからといって、それは決して人間の本性・自然なものではないということを解説している。「天性の残忍は自愛ほどに残忍な人間をつくらない。」(格言604)
- 『ラ・ロシュフコー格言集』関根秀雄訳(白水社)
- 『ラ・ロシュフコー箴言集』二宮フサ訳(岩波文庫)
- ラ・ロシュフコー『箴言集』武藤剛史訳(講談社学術文庫)
- ラ・ロシュフコー『運と気まぐれに支配される人たち ラ・ロシュフコー箴言集』吉川浩訳(角川文庫)
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