2020/08/15

シムノン『メグレ間違う』

《ルイーズ・フィロン(無職)がカルノー大通りのアパルトマンで、死んでいるところを、今朝、家政婦によって発見された。彼女は至近距離で発射された拳銃で、おそらく昨夜のうちに殺されたらしい。盗みが殺人の動機とは考えられない。メグレ警視がみずからこの捜査にあたっており、警視はすでに手がかりをつかんでいるものと信じられる。》
メグレはいったい何を間違えたのだろうか? 捕まえるべき犯人か、捜査のやり方か、あるいは尋問すべき相手か?... 前作『メグレの途中下車』(原題は『メグレ怖れる Maigret a peur 』)につづき、どこか心配を誘うメグレさん。

大事な問題は当然、誰がルイーズを殺したのか、なぜ犯行に及んだのかであり、メグレはいつものように粛々と捜査を進めていく。今回の事件では、第一発見者の家政婦やアパルトマンの管理人への聞き取りから、早々に当面の容疑者と、重要な参考人とみられる人物が浮かび上がる。ルイーズの恋人で目下行方不明のピエール・エイロー、通称ピエロと、同じアパルトマンに住む高名な外科医エティエンヌ・グーアン教授である。実際、メグレはすぐにでもピエロの居所を突き止めて話をしたいと考えている。ところが、もう一人のほうのグーアン教授については、事件現場であるアパルトマンの階を上ればすぐにでも会えるのに、メグレはいっこうに彼に話を聞きに行こうとしない。いつものビールではなく今回はマール・ブランデーばかりを飲みながら、二の足を踏んでいる。なぜなのだろう。
メグレはリュカが、この事件の最初から、なぜ教授のところへまっすぐ行ってはっきりした質問をしないのかといぶかっていることを感じていたし、今もって律儀なリュカが、上司(パトロン)の機嫌が悪いことに当惑していることも知っていた。
人々からの証言を積み重ねるうちに、グーアン教授の人物像が形造られていく。「最も偉大なフランスの医者の一人」であり、いまやブルジョワ階級の一員である一方で、貧しい農家の出身から「意志の力」を以って大成したこと、若い頃はメグレも目指した医者として多くの人々の命を助けていること(事件の被害者ルイーズもその一人であった)、そしてどうやら率直な人柄とおぼしいこと......。メグレはどこかしら、この人物に惹かれている節があり、それゆえに会見することをためらっているようでもある。
何か役割を演じない人間に会うことはめったにない。たった一人でいるときも自分自身を相手に演技しているものなのだ。たいていの人たちは、自分が生きていることをながめ、話していることを聞く必要を感じているのだ。
だがグーアンは違った。彼は十全に彼であり、自分の感情を隠す労もとらなかった。
ついにグーアン教授と対面したとき、メグレが抱いていた印象は果たして正しかったのだろうか? 「これから自分が間違っているかどうか知ることになる。」

さて、この事件の犯人はいったい誰だったのか。ぜひ読んでみてください。

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〔物語の主な登場人物〕
  • エティエンヌ・グーアン …… 外科医、カルノー通りのアパルトマンに住む 
  • ジェルメーヌ・グーアン …… エティエンヌの妻、旧姓オリヴィエ
  • アントワネット・オリヴィエ …… ジェルメーヌの姉
  • リュシル・ドゥコー …… エティエンヌの秘書、アカシア通りの一角に住む
  • ルイーズ・フィロン(リュリュ) …… 被害者、元売春婦
  • ピエール・エイロー(ピエロ) …… ルイーズの恋人
  • デジレ・ブロー …… ルイーズの家政婦
  • マダム・コルネ …… カルノー通りのアパルトマンの管理人(コンシエルジュ)
  • ルイ …… ミュゼット《グルロ》でのピエロの同僚
  • ジャナン …… グットドール署の刑事
  • ジャンヴィエ …… 司法警察局刑事
  • リュカ ……  司法警察局刑事
  • メグレ ……  司法警察局警視
〔物語の主な舞台〕
11月のパリ。事件は高級住宅街であるカルノー通りのアパルトマンで発生する。

〔蛇足〕
オランダ語版のタイトルは、『メグレと教授のスリッパ』とでも訳せるのだろうか(画像参照)。なぜスリッパなのかといえば、被害者の部屋に男物の高級なスリッパが見つかったからだろう。

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〔参考〕
〔画像〕オランダ語版の表紙(ディック・ブルーナによる装丁)

ジョルジュ・シムノン『メグレ間違う』萩野弘巳訳(河出書房新社)
Georges Simenon, Maigret se trompe, 1953

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