2025/03/29

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2024/12/14

シムノン『ロニョン刑事とネズミ』

死体が持っていた財布の十五万フランを狙う浮浪者”ネズミ”。彼に不審を抱くパリ九区担当のロニョン刑事。遺失物扱いされた財布を巡る事態は思わぬ展開を見せ始める。煌びやかな花の都パリが併せ持つ仄暗い世界を描いた〈メグレ警視〉シリーズ番外編! (内容紹介より)


メグレ警視シリーズのなかのいくつかに出てくる名物刑事ロニョンが初めて登場する作品で、すでに「無愛想な刑事 l’insptecteur malgracieux」のあだ名も付けられています。訳者あとがきにもあるとおり、この作品は1937年に新聞で連載され、翌年単行本が刊行されています。ところで、メグレが登場しない一連の小説は「ロマン・デュール(硬い小説)」と呼ばれていますが、本作には軽妙で自由な雰囲気が感じられ、メグレがひょっこり顔を出したとしても何の違和感もないように思います。    

ある時期、シムノンはメグレ警視シリーズを止め、ロマン・デュール作品の執筆に力を注いでいました。1931年に始まったメグレ・シリーズは大人気を博したにもかかわらず、1934年、19作目『メグレ再出馬』で一旦完結します。その後しばらくシムノンは、運命に翻弄される人間に焦点をあてた、より重厚でシリアスな小説を書きまくります。1941年までの7年間に限っても、30〜40作ほどが産み出されています。そのなかには『ドナデュの遺書』や『人殺し』『港のマリー』『汽車を見送る男』など邦訳されたものもあります。

世界観がとても近しい(というよりは同じ?)にもかからわず『ロニョン刑事とネズミ』にメグレが出てこないのはなぜか。物語自体に則してみれば、「ネズミ」と呼ばれる浮浪者が主人公として十二分に振る舞い、ロニョン刑事というアクの強い人物も副えているので、メグレを出馬させるほどではなかったのでしょうか。この作品が「はざま」の時期に書かれたことも理由に挙げられるかもしれません。シムノンはメグレと決別したかったのでしょうか?

作家としては書きたいものが書けて充実した時期だったと思われるものの、ロマン・デュールはメグレほどの商業的な成功をもたらさなかったからなのか、実はシムノンは早々にメグレを再開しています。『ロニョン刑事とネズミ』が発表された前年の1936年から年明けにかけて、週刊新聞紙上で「ボーマルシェ大通りの事件」「首吊り船」「開いた窓」「死刑」「蝋のしずく」「ピガール通り」「月曜日の男」それから「メグレの失敗」と、短編ではあるものの立て続けにメグレ作品を連載しているのです。つづいて長編『メグレとマジェスティック・ホテルの地階』が1939年の暮れ頃に執筆され、翌年に別の週刊新聞に連載しています。1942年には『メグレ帰還する』のタイトルで、『メグレとマジェスティック・ホテルの地階』『メグレと判事の家の死体』『メグレと死んだセシール』の長編三作を合本で刊行し、以後、途中出版社を代えながらもメグレ警視シリーズは1972年まで続きます。

パリの情景が自由自在に描かれる『ロニョン刑事とネズミ』は、ロマン・デュールの系譜に連なるというよりは、やはりメグレ警視シリーズの番外編に近く、長編メグレの復活を予告する作品だったのかもしれません。


〔参考〕


ジョルジュ・シムノン『ロニョン刑事とネズミ』宮嶋聡訳(論創社)
Georges Simenon, Monsieur la souris, 1938



2024/12/07

サロート『黄金の果実』

一冊の書物の評価をめぐる数人の男女の意識下のドラマ──内面に深い空白を抱き、他者へのコミュニケーションを絶たれた現代人の絶望的な魂の状況を、一切の性格、意志、感情の描写を排し、視線、動作、言葉のみによって表現している。小説の革新をめざすサロートの小説美学が一段と深化した作品である。(本書紹介より)

──《それで、『黄金の果実』を、面白いとお思いでした?》(本書より、p.22)

「一冊の書物」というのはまさに、本書と同じ名前で、ブレイエなる人物が書いた『黄金の果実』という小説のことです。筋書きは上掲の文のとおり複数の人物が、ときおり名前が出ることもあれば、誰の発言か内心なのかもわからないまま、この本について語ったりその様子が描写され続ける、というだけのものです。

どういう顛末になるのかを求めるよりは、たかが一冊のベストセラーをめぐって、感電したり、催眠状態にかかったり、狂人として連行されたりするさまを楽しむ小説、かもしれません...... もちろん、そういった出来事が本当に起こるわけではなく、たいていはスノッブな人びと(*)の反応や様子あるいは心持ちが、サロートならではの暗喩表現であえて誇張して書かれているのです。似たような現象は今日のSNSでもみられるかもしれません。

(*) 本書に限らず、サロートの小説に出てくる人物(正しくは言及される人物か?)には、虚栄心の強いスノッブが多いようです。暗喩の手法はもちろん、スノビスムもサロート小説を読む解くうえで、大事な鍵の一つかもしれません。
〔参考〕高橋 暖「ナタリー・サロートにおけるスノビスムについて


番号は付されていませんが、本書は14の「章」で構成を分けることができそうです。このうち4つ目の章が最も長く、読むうえでもいちばんの難所でしたが、ここを読み終えると、小説の折り返し地点が見えてきます。

『黄金の果実』の仮の章立て

  • 第1章 p.3 〜
  • 第2章 p.20 〜
  • 第3章 p.34 〜
  • 第4章 p.39 〜
  • 第5章 p.95 〜
  • 第6章 p.99 〜
  • 第7章 p.105 〜
  • 第8章 p.112 〜
  • 第9章 p.132 〜
  • 第10章 p.142 〜
  • 第11章 p.148 〜
  • 第12章 p.162 〜
  • 第13章 p.178 〜
  • 第14章 p.187 〜

ページ番号は邦訳にもとづく。

***

以下、続けて読むと小説の筋書きがかいま見えるような文章(もっぱら会話の箇所)をいくつか抜き出してみました。この小説を読んでみようと思いいたった奇特な方(!)のアリアドネの糸になれたら幸いです。


《スタンダール以来......バンジャマン・コンスタン以来書かれた最も美しい......》p.38


《『黄金の果実』っていうのはね、あんた......ここにいらっしゃる先生も、ぼくと同意見と思うんだけど、なぜ芸術作品かって言うと? まず第一に真実だからさ。あのなかでは、すべてがおどろくべき的確なんだ。人生そのもの以上に現実的なんだ。組織されている。秩序がある。巧みに構成されている。すばらしい均衡を保っている......》p.51


《『黄金の果実』というのは、この十五年来書かれた最良の作品だ》p.66


《でもあたしは、『黄金の果実』は好きになれないわ。あたしは、どうしようもない本だと思うわ。朦朧としてるわ、難解だわ。(...) あるいは天才の作品かも知れないけど、それにしたって......あたしはとにかく、誰かに、本を片手に、そのことを証明してもらいたいわ》pp.71-72


《はっはっは、まだやってますな......相変わらず『黄金の果実』の議論ですか?》p.93


『黄金の果実』以前の人間と、以後の人間がいる。

そしてわれわれは以後の人間なんだ。永遠に刻印されたんだ。『黄金の果実』の世代。いつまでたっても、われわれはそれなんだ。p.109


極限が到達された。いずれにしろ、この方向では、道はもう行き詰りだ。p.109


── なんでも、猫も杓子も『黄金の果実』に熱をあげているらしいが...... (...) あんなのは全然なんの価値もありゃしないと思うよ......全くなんの価値もね、え? ゼロさ。違うかね? 賛成じゃないかね?p.112


── みんながどう答えるか御存知ですか? こう言うでしょうね。しかしいいですか、その凡庸な面、あなたのおっしゃるその陳腐な面こそ、まさしくブレイエが意図したもの、彼がわざとつくり出したものということが、どうしてわからないんですか、とね。p.115


《彼が今まで書いて来たものは、みんなこれと同じさ......彼は狂人のような大声を立てて笑う......陳腐、陳腐、陳腐さ、ハッハッハ.....わざとだなんて......こいつはいい、ハッハッハ......わざとね、わざとね......》p.120


《『黄金の果実』はどこをとってもすばらしいですよ......どんな個所でもね......》

だが、いったい何が起ったのだろう? (...) 駄目だ、これじゃない、ここも駄目だ......この辺かな......だがこの辺も駄目......いったい彼はどうしたのか? p.136


《何故かって? 好みが変わるのさ。ある時期にはある一定の需要が存在する。それからやがて、もっと違ったものを要求するようになるんだ。他の場合と同様この場合も、人びとが流行に従うのをどうやって防ごうっていうんだい?》 p.146


《あの本が残るだろうか? それを知りようがあろうか?......それに、ここだけの話だけど、どっちだっていいじゃないか?》p.147


今でもまだ、『黄金の果実』に感心する連中は、馬鹿なのだ...... p.164


《ところで『黄金の果実』はどうです?》と鎌をかけて見ても駄目なんです、せいぜい誰かの視線が、ちらっと私の上を滑り過ぎて、そっぽを向くくらいでしてね。それどころか大抵の場合は、彼らの耳にさえ入りはしない...... p.187


《まだあんなものにかかずらっているんですか......『黄金の果実』なんかに?》p.196



サロート『黄金の果実』平岡篤頼訳(新潮社)

Nathalie Sarraute, Les Fruits d'or, 1963 

2024/11/30

ラ・ブリュイエール『カラクテール』(人さまざま)(2)

 『カラクテール』の章構成

『カラクテール』は全部で16の章で構成されています。各章は、社会を眺望し人間を観察する上での、ラ・ブリュイエールならではの立脚点・スコープでありつつ、当時のフランス社会一般の価値観の切り口とも言えそうです。今日の私たちはおそらくこのような視点で物事を見ることはあまりないでしょうが、歴史的な興味関心をもってそのまま各視点から観察を続けるのも面白いし、章の標題にはピントを合わせず気ままに眺め回したとしても、本書の魅力が削がれることはないと思います。ちなみに、岩波文庫版の翻訳は上中下の三巻にわかれており、第1章から第7章までが上巻に、第8章から第12章までが中巻に、そして第13章から第16章までが下巻に収録されています。

  1. 文学上の著作について  Des Ouvrages de l’esprit
  2. 各個(ひと)の真価(メリット)について  Du Mérite personnel
  3. 女について  Des Femmes
  4. 心情について  Du Cœur
  5. 社交界及び社交について  De la Société et de la Conversation
  6. 運の賜物について  Des Biens de fortune
  7. 町方について  De la Ville
  8. 朝廷について  De la Cour
  9. 貴顕について  Des Grands
  10. 至尊について或は国家について  Du Souverain ou de la République
  11. 人間について  De l’Homme
  12. 判断について  Des Jugements
  13. 流行について  De la Mode
  14. 幾つかの習慣について  De Quelques Usages
  15. 教壇について  De la Chaire
  16. 強き精神について  Des Esprits forts


1.文学上の著作について  Des Ouvrages de l’esprit

どちらかといえば、ラ・ブリュイエールの文学論、文芸にかかる随想といった趣きで、モラリストとしての分析・考察の影はまだ薄い。鹿島茂著『悪の箴言』ではここから5つほど引用し、著述家や批評家あるいは編集者の然るべき態度について述べている(ラ・ブリュイエールに倣ったポルトレ〔性格描写〕が挿まれている?!)。全69節。

2.各個(ひと)の真価(メリット)について  Du Mérite personnel

翻訳の注釈によれば、真価 mérite とは「真に世間の尊敬尊重に値する内在的な特質才能を意味する。」真価が認められない人間の哀しみ、真価のない人間が「大物」として跋扈する世の中への抵抗といった趣き。作者自身を重ねている? 全44節。

3.女について  Des Femmes

現代の観点からすれば違和感のある考察がいくつか見られるものの、「時代遅れになったかに見えるものが逆に時代の先端に出てきたり、あるいは面白いと思えたものが時代遅れに見えてきたりするので予断は禁物です。」(鹿島茂『悪の箴言』) 全81節。最終節は作者が得意としたポルトレ形式で、短い物語のよう。

4.心情について  Du Cœur

全85節のほとんどがラ・ロシュフコーのマクシム(格言・箴言)のように、恋愛や友愛、報恩あるいは情念などのさまざまな心情について短く端的に語っている。 

5.社交界及び社交について  De la Société et de la Conversation

社交界 société の人々、そこで交わされる会話・礼儀がテーマだが、ソサイエティを広く社会一般、自分の身の回りである世間(家族、学校、職場、友人知人、近所付き合い、暮らしのなかで交わすやりとり...)と捉えても良いと思う。全83節。

6.運の賜物について  Des Biens de fortune

「運の賜物」とはお金や名声、栄達などのことを指すそう。今ではこれらのものもすべて努力や才能で勝ち取れるものだという認識が通用しているが、必ずしもそうとは限らないことを思い出させる。賭け事もここで扱っている。それにしても、この章ではラ・ブリュイエールの執念というか憤怒が尋常ではない。全83節。

7.町方について  De la Ville

パリ市民のうち、とくにブルジョワジー(有産階級)の人々が対象で、裕福になって王侯の真似をしたがるようになった彼らをチクリと批判している。テーマとしては前章に続いているようだが、ここではわりと穏当な様子。全22節。

8.朝廷について  De la Cour

朝廷とはかの大宮殿を構えるヴェルサイユ宮廷のことで、実質上の首都であったこの場所には法服貴族や高位の聖職者、大ブルジョワジーなどが集まり、ルイ14世下に官僚を構成して権力の中枢を成していた。ここに来て、ラ・ブリュイエールの舌鋒も鋭くなってきた印象。全101節。

9.貴顕について  Des Grands

ラ・ブリュイエールが仕えたコンデ公のような王族、大貴族のこと。前章ほどではないにしても、やはり、一定の権力を有している彼らが、家柄を鼻にかけて他人を見下す有り様を厳しく批判している。全56節。

10.至尊について或は国家について  Du Souverain ou de la République

「至尊 Souverain」は君主、とくにルイ14世のこと。国王のことを賛美しつつも、君主はこうあるべきといった意見もみられる。国家(République とあるけれどここでは政体にかかわらず国一般のこと)については、民主主義を思わせる態度が垣間見られる。全35節。

11.人間について  De l’Homme

いよいよ普遍的な人間考察が活気づく。対象は同時代の人々ではあるものの、そこから導き出されたのは「時処を超えたる我々の人間性の根本を深く反省し考察している」ものと言える。おそらく、覚えておきたい格言がとくに多く含まれている章かもしれない。全篇で最多の全158節。

12.判断について  Des Jugements

ラ・ブリュイエールに限らず、モンテーニュを筆頭とするモラリストはみな判断力(=理性・悟性)を最も重視する。大小にかかわらず、物事を常に正しく判断することは難しいけれども、その積み重ねが個人の幸福、社会の最善につながるのではないか。かなり長い最終節を含む全119節。

13.流行について  De la Mode

流行を追いかける人々の醜態を諷した章。チューリップ、植物、古銭収集、髪型、服装、建物の様式、決闘...... さまざまなものの流行が取り上げられるなか、当時は信仰心までもが流行の対象だったらしいが、そういった様相は今も昔も変わらないのかもしれない。全31節。

14.幾つかの習慣について  De Quelques Usages

趣きはほかの章と似ているが、もう少し高みの視点から社会一般の習慣、それもあまり好ましくない制度や習慣、陋習を観察し批判している。全73節。

15.教壇について  De la Chaire

教壇とはとくにカトリック教会にある説教壇で、うわべだけの美辞麗句をつらねる聖職者が批判の対象。教会のありさまに心底憂うラ・ブリュイエールのお説教といえる章。全30節。

16.強き精神について  Des Esprits forts

注釈によれば、「強き精神」というのは単に独立不羈の人というより、既成の概念や因習(とくにキリスト教信仰)からの逸脱をためらわず、精神・思想の自由に重きを置く当時のリベルタンをとくに指しているそう。ラ・ブリュイエール自身は信仰心を捨てていなかった。全50節。

〔参考〕


ジャン・ド・ラ・ブリュイエール『カラクテール 当世風俗誌』
関根秀雄訳(岩波文庫)

Jean de La Bruyère, Les Caractères de Théophraste traduits du Grec avec les Caractères ou les moeurs de ce siècle, 1688-1694


2024/10/27

ラ・ロシュフコー『マクシム』 (5)

〜ぶる 

偽装、虚栄、高慢、嫉妬など、ラ・ロシュフコーは人間のありとあらゆるネガティブな性質を槍玉に挙げる。それは、本来の自分を見失った人間「倒置の民」(本末顛倒した人)に対する警告にもみえる。

さて、これらの心情・振る舞いほど強いものではないが、「〜ぶる」というような自己演出、わざとらしさ affectation もまた、誠実・率直であることを旨とするラ・ロシュフコーの眼には糾弾すべき振る舞いとして映る。本来の自分を秘し匿そうとする行い、つまり『格言集』のエピグラフにもあるような、偽装 déguisement の第一歩だからだろう(*1)

人は決して、その持って生まれた特質によって、そうひどくこっけいに見えるものではない。かえって持ちもせぬ特質をさも持っているかのようなふりをする者こそ、はるかにおかしい。(格言134)

きれいに・可愛く見られたいとか、格好良くありたいといった願望は誰もが持つもので、それ自体は決して間違ってはいないけれど、過度に追い求めてしまうと、こっけいでおかしな具合 ridicule になる。誰かに憧れ、その人のようになりたいと望んで必死に真似してみたものの、長所よりも短所のほうがさらけ出されてしまい、得てして笑いもの、リディキュールになる。「けっこうな模写といえばただ一つ、まずい原画のこっけいなところをそのまま見せてくれるものだけである。」(格言133)

だからといって、自然に振る舞おうとすることも、かえってわざとらしく「〜ぶる」になりがちだ。

自然に見えたがる心ほど自然であることを妨げるものはない。(格言431)

強がったり気取ったり偉そうにしたり、自分の欠点を隠してあたかも自然であるように振る舞おうとしても、心内の感情にそぐわない態度はちぐはぐに見られてしまう。ラ・ロシュフコーは「大多数の若者たちはそのぶしつけと無作法とを天真らんまんのつもりでいる(格言372)」とも吐いているが、これも自然を装った「〜ぶる」行為だろう。ちなみに、いかにも穏やかに親切に振る舞っているようで心のなかでは悪意に満ちているとか、嫉妬や怒りに燃えているのに気取らせないようにするとか、眼の前の出来事に動揺しているのに平静を装うのも、これの一種だろうか。思うに、「俺は気取らない性格だ」とか「私は飾らない人間だ」などと、わざわざ公言するような人にも、注意が必要だろう。

その一方でラ・ロシュフコーは「どんな欠点も、それをかくそうとして用いる手段にくらべたら、どれも大目に見てやらざるをえない(格言411)」とも述べる。誰にでも欠点はあるし、むしろ人間は欠点だらけであることのほうが当たり前である。強がったり気取ったり偉そうにするのは、内心にある弱さや怖れのためにほかならず、私たちは誰でも、そういったものを常に抱えて生きている。問題は、そのことを嘘偽りで隠そうとすることであったり、他人など自分の外側にあるものに責任を転嫁して自分自身を欺くことのほうなのだ。

Maître du Ballet royal de la nuit, costume pour le Soleil levant, dansé par Louis XIV, 1653
Bibliothèque nationale de France

***


とはいうものの、他人に大勢囲まれて生きなければならない私たちにとって、なにもふりをせずにこの社会生活を送ることは至難の業である。何かの職業についているあいだはとくに、私たちは何らかの役割を演じている。

あらゆる職業において、人はそれぞれ、こう見えたいと思うような姿かたちをよそおう。だから、世間はただいろいろな姿かたちばかりでできていると言うことができる。(格言256)

どんなに私たちは欠点だらけであろうと、それをやたらとさらけ出してしまうようでは信用問題にかかわるから、職業という仮面の下に隠さなければならない。それは仕方のないことかもしれない。しかし、ラ・ロシュフコーも読書を通じて私淑していたモンテーニュは、次のように述べている。

我々の職業の大部分はいわば狂言である。(...) 我々はまじめに自分の役割を演じなければならないけれども、やはりある人物に扮しているのだということは忘れるべきでない。仮面や外観を以て真の本質としてはならない。他人のものを以て自分のものとしてはならない。我々は皮膚とシャツとを区別することができない。

(『モンテーニュ随想録』第3巻第10章より) 

仕事一辺倒で行くというのは、いわばこの狂言・仮面劇をずっと演じ続けなければならないことになる。だが、それが長くなればなるほど、本来の自分「真の本質」と乖離していってしまうおそれがあるのではないか。

ところで、「〜ぶる」という行為は、自分を実際よりも良く見せるためではなく、他人から傷つけられないように自分を守るためにする場合もあるかもしれない。相手になめられないように強がり、標的にされないように卑下することで、自分ではない何かのふりをする。そうやって自己防衛に努めようとする。しかし、これも度が過ぎて偽装の段階にまで至ってしまうと、やはり自分自身を見失う危険がないだろうか。「われわれはあまりにも他人の前に自分を偽装するのに慣れているので、しまいには自分の前にまで自分を偽装するようになる。(格言119)」

仕事のためだからと、あるいは自己防衛のためにと思い込むあまり、本来の自分ではない何かのふりをし続けるよりも、何事にも虚心坦懐に向き合うよう志すほうが、かえって世の中と渡り合い、折り合いをつけやすくなるということはないだろうか。

われわれはうその自分を見せようとつとめるより、ありのままの自分を見せるほうがずっと得であろう。(格言457)

そのためには、他人とかかわることが生活の大半を占めるなかで、本来の自分を取り戻す時間が常に必要だ(*2)。そうでないと、 私たちは荘子の言うところの「倒置の民」、自分の外側にある物事ばかりに気を取られて、自分自身を見失いかねない。


(*1) 「われわれの徳行はもっともしばしば偽装した不徳にすぎない。」

(*2) モンテーニュは、社会生活を送るなかで、そこから一旦離れて、自分自身の内面と向き合うことが常に必要であり、そういう場所(=機会)を「全く我々の・全く自由独立の・そこに我々のまことの自由と本当の隠遁孤独とを打ちたてるべき・裏座敷 arrière-boutique」と述べている。(『モンテーニュ随想録』第1巻第39章「孤独について」)


(前回)ラ・ロシュフコー『マクシム』 (4)

〔画像〕太陽神アポロンに扮するルイ14世。

〔参考〕

 

『ラ・ロシュフコー格言集』関根秀雄訳(白水社)
François de La Rochefoucauld, Réflexions ou sentences et maximes morales, 1665