〜ぶる
偽装、虚栄、高慢、嫉妬など、ラ・ロシュフコーは人間のありとあらゆるネガティブな性質を槍玉に挙げる。それは、本来の自分を見失った人間「倒置の民」(本末顛倒した人)に対する警告にもみえる。
さて、これらの心情・振る舞いほど強いものではないが、「〜ぶる」というような自己演出、わざとらしさ affectation もまた、誠実・率直であることを旨とするラ・ロシュフコーの眼には糾弾すべき振る舞いとして映る。本来の自分を秘し匿そうとする行い、つまり『格言集』のエピグラフにもあるような、偽装 déguisement の第一歩だからだろう(*1)。
人は決して、その持って生まれた特質によって、そうひどくこっけいに見えるものではない。かえって持ちもせぬ特質をさも持っているかのようなふりをする者こそ、はるかにおかしい。(格言134)
きれいに・可愛く見られたいとか、格好良くありたいといった願望は誰もが持つもので、それ自体は決して間違ってはいないけれど、過度に追い求めてしまうと、こっけいでおかしな具合 ridicule になる。誰かに憧れ、その人のようになりたいと望んで必死に真似してみたものの、長所よりも短所のほうがさらけ出されてしまい、得てして笑いもの、リディキュールになる。「けっこうな模写といえばただ一つ、まずい原画のこっけいなところをそのまま見せてくれるものだけである。」(格言133)
だからといって、自然に振る舞おうとすることも、かえってわざとらしく「〜ぶる」になりがちだ。
自然に見えたがる心ほど自然であることを妨げるものはない。(格言431)
強がったり気取ったり偉そうにしたり、自分の欠点を隠してあたかも自然であるように振る舞おうとしても、心内の感情にそぐわない態度はちぐはぐに見られてしまう。ラ・ロシュフコーは「大多数の若者たちはそのぶしつけと無作法とを天真らんまんのつもりでいる(格言372)」とも吐いているが、これも自然を装った「〜ぶる」行為だろう。ちなみに、いかにも穏やかに親切に振る舞っているようで心のなかでは悪意に満ちているとか、嫉妬や怒りに燃えているのに気取らせないようにするとか、眼の前の出来事に動揺しているのに平静を装うのも、これの一種だろうか。思うに、「俺は気取らない性格だ」とか「私は飾らない人間だ」などと、わざわざ公言するような人にも、注意が必要だろう。
その一方でラ・ロシュフコーは「どんな欠点も、それをかくそうとして用いる手段にくらべたら、どれも大目に見てやらざるをえない(格言411)」とも述べる。誰にでも欠点はあるし、むしろ人間は欠点だらけであることのほうが当たり前である。強がったり気取ったり偉そうにするのは、内心にある弱さや怖れのためにほかならず、私たちは誰でも、そういったものを常に抱えて生きている。問題は、そのことを嘘偽りで隠そうとすることであったり、他人など自分の外側にあるものに責任を転嫁して自分自身を欺くことのほうなのだ。
Maître du Ballet royal de la nuit, costume pour le Soleil levant, dansé par Louis XIV, 1653 Bibliothèque nationale de France |
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とはいうものの、他人に大勢囲まれて生きなければならない私たちにとって、なにもふりをせずにこの社会生活を送ることは至難の業である。何かの職業についているあいだはとくに、私たちは何らかの役割を演じている。
あらゆる職業において、人はそれぞれ、こう見えたいと思うような姿かたちをよそおう。だから、世間はただいろいろな姿かたちばかりでできていると言うことができる。(格言256)
どんなに私たちは欠点だらけであろうと、それをやたらとさらけ出してしまうようでは信用問題にかかわるから、職業という仮面の下に隠さなければならない。それは仕方のないことかもしれない。しかし、ラ・ロシュフコーも読書を通じて私淑していたモンテーニュは、次のように述べている。
我々の職業の大部分はいわば狂言である。(...) 我々はまじめに自分の役割を演じなければならないけれども、やはりある人物に扮しているのだということは忘れるべきでない。仮面や外観を以て真の本質としてはならない。他人のものを以て自分のものとしてはならない。我々は皮膚とシャツとを区別することができない。
(『モンテーニュ随想録』第3巻第10章より)
仕事一辺倒で行くというのは、いわばこの狂言・仮面劇をずっと演じ続けなければならないことになる。だが、それが長くなればなるほど、本来の自分「真の本質」と乖離していってしまうおそれがあるのではないか。
ところで、「〜ぶる」という行為は、自分を実際よりも良く見せるためではなく、他人から傷つけられないように自分を守るためにする場合もあるかもしれない。相手になめられないように強がり、標的にされないように卑下することで、自分ではない何かのふりをする。そうやって自己防衛に努めようとする。しかし、これも度が過ぎて偽装の段階にまで至ってしまうと、やはり自分自身を見失う危険がないだろうか。「われわれはあまりにも他人の前に自分を偽装するのに慣れているので、しまいには自分の前にまで自分を偽装するようになる。(格言119)」
仕事のためだからと、あるいは自己防衛のためにと思い込むあまり、本来の自分ではない何かのふりをし続けるよりも、何事にも虚心坦懐に向き合うよう志すほうが、かえって世の中と渡り合い、折り合いをつけやすくなるということはないだろうか。
われわれはうその自分を見せようとつとめるより、ありのままの自分を見せるほうがずっと得であろう。(格言457)
そのためには、他人とかかわることが生活の大半を占めるなかで、本来の自分を取り戻す時間が常に必要だ(*2)。そうでないと、 私たちは荘子の言うところの「倒置の民」、自分の外側にある物事ばかりに気を取られて、自分自身を見失いかねない。
(*1) 「われわれの徳行はもっともしばしば偽装した不徳にすぎない。」
(*2) モンテーニュは、社会生活を送るなかで、そこから一旦離れて、自分自身の内面と向き合うことが常に必要であり、そういう場所(=機会)を「全く我々の・全く自由独立の・そこに我々のまことの自由と本当の隠遁孤独とを打ちたてるべき・裏座敷 arrière-boutique」と述べている。(『モンテーニュ随想録』第1巻第39章「孤独について」)
〔画像〕太陽神アポロンに扮するルイ14世。
〔参考〕
- (人物事典)フランソワ・ド・ラ・ロシュフコー in Le Blog Sibaccio
『モンテーニュ随想録』関根秀雄訳(国書刊行会)
『ラ・ロシュフコー格言集』関根秀雄訳(白水社)
François de La Rochefoucauld, Réflexions ou sentences et maximes morales, 1665