2020/07/18

シムノン『メグレ保安官になる』(検死審問法廷のメグレ)

十日前から私が上衣を着ていないことを、そして腹にカウ・ボーイのベルトを巻いているのを想像してください。相手の言うままにならなかっただけでもしあわせだよ。というのは、そうでなかったら、西部劇映画に出てくるように、足には長靴、頭には縁広の帽子といういでたちになるところだった。

死因審問法廷のメグレ

邦訳のタイトルから推し量れるように、シリーズの中でも異色の一冊。パリでもフランスでもなくアメリカのアリゾナで、しかも街中ではなく砂漠で起こった事件が扱われる。さらに言えば、メグレは一切捜査しない、というよりはできない。

確かに、メグレは保安官代理(邦訳では副保安官) deputy sheriff のバッジをもらうのだが、これは研修旅行でやってきた警視に名誉、交流の印として与えられたものであり、捜査協力を依頼されたわけではない。では、われらのメグレ警視は何をしているのか? 毎日審問を傍聴しているだけなのである。

原題は、« Maigret chez le coroner »。coroner は検視官、検屍官などに訳される。死因審問(検屍官審問) inquest,  coroner's jury を開き、亡くなった人の死因を調査するのが主な役割らしい。主に英語圏の国々で行われる慣習のようだ。クリスティの小説でも、死因審問のシーンがよく出てくる。

フランスの司法制度には全く詳しくないのだが、死因を調査する手続きで、このように関係者を法廷に呼んで(場合によっては陪審員も集めて)審問するということは通常行われないかと思う。フランス語圏で暮らしてきたシムノンにはそれが珍しく(自叙伝によると、アメリカ滞在中に実際に死因審問を傍聴したらしい)、小説のモチーフにしたのであろう。


シムノンの「アメリカもの」

シムノンは1945年からの約10年間、北米各地に居住している。その間、アメリカを舞台にしているだけでなく、作者自身の生活や見聞がかなり反映されているとおぼしき作品をいくつか書いている。メグレ警視シリーズでは、本作と『メグレ、ニューヨークへ行く』とがある。後者はカナダ滞在中に書かれたものだが、『メグレ保安官になる』では、アリゾナ州ツーソンが執筆した場所であり、かつ小説の舞台にもなっている。これは一連の「アメリカもの」のなかでも意外と珍しいケースかもしれない。ところで、やはりこの時期に書かれた『メグレ警視と生死不明の男』(メグレとロニョンとギャングスターたち)には、作中の舞台こそはパリとその近郊であるが、アメリカのギャングたちが登場してフランスの警察を翻弄する(執筆場所はコネチカット州レイクヴィル)。アリゾナ同様、メグレはここでも、あるFBI捜査官から « Hello, Jules (Julius) ! » とアメリカ人特有の気軽さで声を掛けられる。「アメリカもの」の番外編として数えてよいかもしれない。

〔主な「アメリカもの」〕
  • マンハッタンの哀愁』 Trois chambres à Manhattan (1946)
  • メグレ、ニューヨークへ行く』 Maigret à New York (1947)
  • 『メグレ保安官になる』 Maigret chez le coroner (1949)
  • 『瓶の底』Le Fond de la bouteille (1949)*
  • 『町の新参者』Un nouveau dans la ville (1950)*
  • 『リコ兄弟』 Les frères Rico (1952)
  • 『ベルの死』 La mort de Belle (1952)
  • 『赤信号』Feux rouges (1953)*
  • 『エヴァートンの時計屋』L'Horloger d'Everton (1954)*
*印は翻訳なし。

***

雨の降るなかパリを歩き回る普段のメグレを目撃できないためか、一見すると「アメリカ=西部劇」といったステレオタイプな図式が敬遠されるのか、本作はあまり人気がないように見えるが、私にはとても面白かった。『メグレ保安官になる』は大雑把に分類すれば、先述のように「アメリカもの」であり、シリーズでは数少ない「法廷もの」であり、犯人とおぼしき人物が最後になって明かされる「フーダニットもの」になるのではないか。シリーズを読み慣れた読者にはなかなか新鮮な一冊だと思う。その一方で、捜査こそしないものの、人々の心内を慮り、怒ったりあるいは悲しんだりするメグレの姿は、やはりいつもと変わらないのである。

〔蛇足〕
北米滞在の約10年間は、シムノンにとって(つまりは読者にとっても)いわば豊作の時代で、メグレ警視シリーズの長篇だけでも20作以上がこの頃に執筆された。本格小説における代表作の一つに目される『雪は汚れていた』La neige était sale (1948)も、ツーソンで書いている。

〔参考〕
〔画像〕オランダ語版の表紙(ディック・ブルーナによる装丁)

ジョルジュ・シムノン『メグレ保安官になる』鈴木豊訳(河出書房新社)
Georges Simenon, Maigret chez le coroner, 1949

2 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

私は非メグレ作品も(ついでに)集めていたことがありました。メグレも多いので最初はパリを舞台にしたものだけに限って「事件ノート」を作っていました。何年も前のことですが、非メグレ作品を集中的に読み込んでいた M さんのサイトとは親交があり、手持ちの「瓶の底」を差し上げたこともあります。その M さんも久しく音沙汰なく、惜しいことにサイトも閉鎖されました。Sibaccioさんはまだお若いので、これからもどんどんシムノンに限らず、素晴らしい作品の紹介を続けられますよう、期待しております。 cogeleau

Eugênio Sibaccio さんのコメント...

cogeleauさん、いつも温かいお言葉ありがとうございます。
汲んでも汲み尽くせぬシムノンの小説をもっと読みたいところですが、忙しいのを言い訳になかなか手が出せず、邦訳されたメグレ・シリーズばkりを読み続けています。(もちろん、メグレ作品はとても面白い)
「フランス語で楽しむ「メグレ警視」」は、ちょうど新しい事件に入りましたね。今度は安楽椅子探偵のメグレなのでしょうか。今回も楽しみです。